7月12日(火)
昨日超級クラスの学生に書かせたスピーチコンテストの原稿を読みました。初級だったら日々の暮らしや自分の出身地の紹介で立派なスピーチと言えなくもありません。しかし、超級なら社会的な事象に対する自分の意見や、独自の視点から物事に切り込む姿勢が必要です。「日本人は親切です」でもいいですが、その結論に至るまでの過程において、ステレオタイプではない新鮮な議論を展開してほしいのです。
もちろん、これはたやすいことではなく、これができる人は限られていると思います。数多の在校生の中には、1人ぐらいは天性の鑑識眼が備わっている人もいるでしょう。そういう具眼の士ではなくても、社会を自分の皮膚で感じ取り、感じたことを材料にして考え続ける訓練をしていれば、他人とは一味違う香りを醸し出すことができるのではないでしょうか。
残念ながら、そういう風格の漂ってくる文章はありませんでした。私のクラスの学生は大半が大学進学希望で、高校出たてぐらいの人が多いですから、そこまで求めるのは酷かもしれません。しかし、明らかに何かのパクリだと思われる文章を書いていた学生がいたことには、いささかがっかりさせられました。
いや、オリジナリティがないわけではありません。あるんですが、オリジナルの部分はパクった部分よりも、文章的にも内容的にも数段落ちなので、言ってみれば、マイナスのオリジナリティでしかありません。そういう学生は、日本語の勉強はしているけれども、日本語の勉強しかしていないのでしょう。彼らが進もうとしている「大学」とは、日本語で学問を成すところです。将来に暗雲が立ちこめています。
私たちは、毎年こういう学生を鍛えて、曲がりなりにも大学の授業に耐えられるレベルにまで引き上げて、進学先に送り出しています。「進学先で困らないような日本語力」と言っていますが、その中には日本語でこうした思考ができることも含まれています。卒業式までと考えると、あと8か月ほどで彼らの目の前の雲を紫雲か觔斗雲にしなければなりません…。