8月21日(月)
夏休みは、愛媛県松山にずっと泊まっていました。松山の近辺を中心にあちこち見て歩きましたが、1日で四国1周という強行軍もしてしまいました。
松山と言えば道後温泉でしょうが、私は、例によって、そういうメジャーな観光地へは行きません。その代わり、道後温泉のすぐ隣の湯築城跡を見てきました。湯築城は水軍で有名な河野一族の城でした。秀吉の四国征伐の際に降伏して、城は廃城になり、河野一族は滅びました。城跡は江戸時代を通して立入禁止で、戦後動物園ができ、その動物園が移転した後で発掘が行われ、かつて湯築城という立派な城があったことがわかりました。
湯築城跡よりも前に、松前城跡と港山城跡へも行きました。松前を「まつまえ」と読むと北海道になってしまいますが、「まさき」と読むと松山の隣町、私が行ったところになります。松前城跡は住宅地の中にあり、草むらに紛れて碑が立っているだけです。しかし、こここそ加藤嘉明が松山に築城する前に居城としていたところなのです。現存12天守の1つである松山城の原点が松前城だとも言えます。
港山城は、河野氏の水軍の拠点になった城です。松山の郊外三津浜の小高い丘の上にあります。水軍の拠点だけあって、海がよく見渡せます。この城跡の麓から対岸の三津浜まで、松山市営の無料の渡し船が運行されています。どう見ても50mほどしかなく、瀬戸内海の内湾のそのまた入江みたいなところで、その気になれば泳いで行けそうです。
どうして城跡巡りをするかというと、城跡は無限に想像を膨らませられるからです。松山城は立派なお城です。姫路城はさすが世界遺産です。しかし、それらは現物が目の前にあり、想像の起点がすべてそこに規定されてしまいます。ところが、松前城は「跡」ですから、いかようにも想像できます。取り囲んでいる住宅が御殿や武家屋敷に見えてきます。湯築城の周囲に土塁を巡らしたり、港山城に物見やぐらを建てたり、そんなことが自由にできます。それが魅力なのです。
今回は行きませんでしたが、国分寺跡にもそんな魅力があります。礎石から伽藍を想像したり、五重塔を見上げたつもりになったり、そこで修業をしている僧を思い浮かべたりする自由があります。法隆寺も中尊寺も心惹かれるものがあります。しかし想像の広がり具合は豊後国分寺跡や但馬国分寺跡の方が壮大です。
さて、今朝のクラス。学生たちに夏休みの様子を聞いたら、ずっと引きこもっていたとか、毎日15時間ゲームしたとか、ろくな答えが返ってきませんでした。みんな、私の日焼けした腕と顔を不思議そうに見ていました。
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