11月16日(月)
日本時間の13日に発生したパリの同時多発テロは、ISの犯行ということで、フランスはISの本拠地を空爆したそうです。宗教上の考えがからんでくると、私なんかはどうも理解が追いつかなくなります。
日本もかつては“宗教戦争”と呼んでもいい国内戦がありました。島原の乱や信長対本願寺の戦い、古くは大化の改新だってそういう面が見られます。でも最近はそこまで激しい戦いはありません。オウム真理教のテロが成功していたら、日本の宗教戦戦争に新たな1ページが加わるところでしたが、幸いにもそこまでの傷痕を残すことなく鎮静化しています。
日本人は無宗教ではありませんが、敬虔な信者は少ないです。だから宗教の違いが元で深刻な争いが起こることもあまりありません。でも、それは同時に、こういう事件に対する理解が深まらない、いまひとつ自分のこととは思えず他人事どまりになってしまうということでもあります。私なんか、その典型でしょう。今回の新聞記事を読んでも、亡くなった方々への同情や哀悼の気持ちは湧いてきますが、この人たちが犠牲にならなければならなかった原因については、思考が及びません。
ISがフランスを狙った理由についてもあれこれ言われていますが、どうもよくわからないというのが、私の本音です。イスラム教やキリスト教そのものでなくても、仏教に帰依する心がもっと深ければ、それを通してこういった事件の本質に近づけるのではないかと思います。モスクで祈りをささげる人々を見ればその信仰心に美しさを覚えます。もう30年も昔になりますが、ヨーロッパで見た巨大な宗教画には、その絵を完成させようとしたエネルギーのすさまじさに心を打たれました。しかし、そういった感動を与えるものとその宗教の対立の激しさが、どうしても結びつきません。
宗教心が全体に希薄だから何も起きないことを幸せに思えばいいのでしょうか。最後の最後に心のよりどころがないことに寂しさを感じればいいのでしょうか。私は、仏像にも神殿にもステンドグラスにも素直に感動できるこの曖昧さが、とても好きです。