何を学んだ?

3月11日(金)

あの年も、3月10日(木)が卒業式でした。あの日は、前夜多くの卒業生と語り合ったので、若干疲れ気味の体を引きずって出勤しました。8時ごろ、授業の準備をしていたら、午後の便で帰国するという学生が挨拶に来てくれました。「元気でね」と言って、手を振って見送りました。卒業生がごそっと抜けた午前クラスは、大半がクラス消滅です。私は残った数少ないクラスの1つの授業をしました。

朝の授業に遅刻して文法テストを受けられなかった学生の追試をしていた時です、揺れが始まったのは。その学生は机の下にもぐり込んだものの、腰が抜けてしまったのか、揺れが収まっても立ち上がれず、ただ泣くばかりでした。朝の学生は、おそらくきわどいタイミングで日本を離れられたのではないでしょうか。成田あたりで足止めを食らっていたら、きっと困り果てて学校に電話をかけてきたでしょうから。

伊勢丹のレストランの招待券がありましたから、早めに仕事を終えておいしいものを食べようと思っていましたが、そんな予定は吹っ飛んでしまいました。津波の映像を見ながら、帰宅できなくなった午後クラスの学生とともに、学校で夜を明かしました。

その後の日本がどうなったかは、皆さんご存じのとおりです。東京であの日の傷跡を見つけるのは難しいですが、東北地方にはあの日から手つかずのままのところもあれば、大改造を施されて以前の姿が想像もできなくなっているところもあります。「塗炭」などという生易しい言葉では済まされないほどの苦しみを、今も味わっている方たちがいることを忘れてはなりません。

世界はどうでしょう。あの後、世界中から温かい支援の手が差し伸べられる一方で、日本全土が放射線で汚染されているかのような報道もなされました。そういった誤解も、だいぶ解けてきたように思えます。それだけに、原発に攻撃を加えようとしている大国のリーダーには怒りを禁じえません。彼は、FUKUSHIMAから、原発は据え置き型の核兵器だということを学び取ってしまったのでしょうか。

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