与太話

5月24日(水)

N先生が急病のため、超級のクラスの代講に入りました。今学期はこれまで代講も含めて初級ばかりで、先学期末以来約2か月ぶりの超級クラスでした。

私はその場のひらめき(思いつき?)で授業を進めることがままあります。たとえば文法を教える例文で、予定していたのより面白そうなのが突然思い浮かんだら、それを使ってしまうこともあります。ある単語に関連した語彙に急に思い当たったら、それも紹介してしまうこともあります。また、ついでに触れておきたい日本社会の一面なんかも、授業の最中によく出現します。

しかし、初級ではそれをそのまま学生に披露したら混乱を招きかねません。ですから、ひらめきの大半は涙ながらに葬り去ることになります。それでも何のためにもならない無駄話を1日に何回かはしています。

それに対し、超級ではひらめきをそのまま利用しても、どうにかなってしまうことが多いです。ですから、授業があらぬ方向に進み、話の中の要点を聞き逃さずにつかみ取る訓練と化していることもあります。こちらは好き勝手なことをしゃべってボケ倒すだけですから気楽なものですが、それを聞かされている学生は、つられて笑っているだけでは済まされませんから、苦労が多いことでしょう。今日も、大坂城を造ったのは豊臣秀吉とされるが、秀吉の大坂城は徳川家によってつぶされて、今の大阪城は徳川が諸大名に造らせた城を元にしている…という、どうでもいいにも程がある話題に進んでしまいました。

初級の既習文法で上記のような話をするのは無理ですから、こういう話をしたくなっても自動停止装置が働き、おとなしく教科書に戻ります。でも、可能な限りそのラインを追求し、習った文法や語彙でこんなことまでできるんだ、こんな難しい話もわかるんだという自信を植え付けようと思っています。

勝つために

5月23日(火)

インターネットの報道によると、韓国の最強棋士イ・セドル九段を破ったAIのアルファ碁が、中国の最強棋士カ・ケツ九段を破ったそうです。日本でも、先月、将棋のコンピューターソフトPONANZAが佐藤名人を破りました。つい数年前までは、囲碁や将棋の世界でコンピューターが人間に勝つのは不可能に近いか、遠い将来のことだと言われていましたが、あっという間に人間を負かす実力を備えるまでに成長してしまいました。囲碁でも将棋でも、もうトップ棋士といえども、AIには勝てないでしょう。

将棋の世界では、14歳の中学3年生の棋士藤井四段がデビュー以来18連勝を飾っていて、まだまだ記録を伸ばしそうな勢いです。非公式戦ですが、第一人者の羽生三冠をも破ってもいます。このまま進めばタイトル戦の挑戦者となることも夢ではなく、挑戦者となったらタイトル保持者を破り、タイトルを奪取することも十分ありうるという意見も聞かれるようになりました。

この2つは、どちらも新鋭が強豪を破った「事件」ですが、藤井四段のほうは明るい論調で報じられているのに対し、アルファ碁やPONANZAのほうは何がしかの恐怖とともに語られているように感じられます。人間が人間に敗れるのは新旧交代の一環であり、新しい王者への賞賛がどこかにあります。ところが、人間がAIに負けたとなると、人間の人間たる所以である頭脳が否定されたとも受け取れます。また、藤井四段は目に見える生身の人間ですからどこかに安心感がありますが、AIは目に見えない存在ですから漠然とした恐怖感があるのかもしれません。まあ、コンピューターソフトなんて、われわれ一般庶民にとっては幽霊みたいなものですからね。

幽霊に人間の尊厳が侵されると考えると、背筋に寒気を感じます。今、KCPで勉強している学生たちは、これからこういうヌエみたいな存在と戦い続けていくことになります。私たちの世代までは“協調”で済ませられましたが、シンギュラリティが具体的に日程に上りつつある今は、時には正面から立ち向かわなければなりません。そのとき、日本語は学生たちにとって武器になるのでしょうか。私は、日本語という学生たちにとっては外国語をマスターした経験こそが、この戦いにおける矛にも盾にもなると思っています。

のどがかわきました

5月22日(月)

一番下のレベルの代講をしました。自分が担当しているレベルとは違うレベルを教えるときには、代講で自分が教えるべき項目をしっかり頭に入れておくことはもちろん最重要ですが、これまでに何を勉強しているかの確認も怠ってはいけません。初級では未習の単語や文法は使ってはいけませんから、自分の言語中枢をそのレベルに調節しておくことが欠かせません。

今学期は初級クラスを担当していますが、そのクラスはもうすぐ中級というレベルですから、一番下のレベルとは日本語力がかなり違います。いつもの調子でしゃべったら、“???”となってしまいます。ですから、頭のねじを思いっきり戻して、「のどがかわきました」なんていうのを、説明というよりは実演するわけです。

「激しい運動をした後などで、水分が非常にほしくなった状態」とかって言っても、そもそも「激しい」がわかりませんから、無意味です。せいぜい、「たくさんスポーツをしましたから、とてもとてもとても水がほしいです」ぐらいまででしょうね、言葉で説明するとしたら。今学期の私の担当クラスなら、スポーツの最中も熱中症予防にために水を飲めとかって付け加えられるでしょう。上級なら、「のどがかわく」の「かわく」は漢字でどう書くかなんて小ネタも織り交ぜるでしょう。

上級なら、「教師の言葉がわからないのは、お前の勉強不足のせいだ」と言い切ってしまうこともできますが、初級では、教師の言葉がわからないのは教師の力不足にほかなりません。ここでの力不足とは、語彙コントロールの未熟さでもあり、理解させる手段を考え出す発想力不足でもあり、学習者の側に立つ思いやりの欠如でもあります。こういう方面にも頭や心を使わなければなりませんから、初級の授業は気疲れがするのです。

私は、初級の授業は頭の体操になるので好きです。確かに疲れますが、授業中は楽しいものです。

東京一極集中

5月20日(土)

「東京の人口は増えていますか」「はい、最近のデータによると増えているそうです」――というやり取りをする練習が教科書にありました。この練習をした後、私が「今、日本の人口は増えていますか」と聞くと、学生たちは「いいえ、最近のデータによると減っているそうです」と模範的な答えをしてくれました。

そこで、「本当に、今、日本の人口は減っているのに、東京の人口は増えています。じゃあ、人も東京に集まる、お金も東京に集まる、何でも東京に集まることを何というか知っていますか」と聞いてみると、「……」。学生を黙らせるのはいい授業ではありませんが、私はここで“東京一極集中”という言葉を覚えてもらいたかったのです。このクラスは受験生が多いですから、これくらいは知っておいたって損はありません。また、教科書だけでいっぱいいっぱいの学生たちばかりじゃありませんから、余計なことも入れてみました。

こんなふうに、私の授業は教科書を離れてふらふらすることがよくあります。一番下のレベルの授業でも、クラスの様子を見ながら、それまでに勉強した日本語で理解できる“日本の社会”を入れます。この学校に入る前は、ビジネスパーソンが相手だったこともあり、“毎朝6時に起きます”程度の日本語力でも学習者は日本について知りたがりました。そして、それに答える授業をすると、とても喜ばれました。

ですから、私は教科書を読んだだけではわからない、インターネットでもなかなか調べがつかない、学校で勉強しているからこそ手に入れられる何かを付け加えたいのです。これが、私の授業の色だと思っています。

おいしいそうです、おいしいようです

5月19日(金)

中間テストが終わり、今学期もあっという間に後半戦です。その初日、私のクラスでは伝聞の「そうです」と推量の「ようです」を扱いました。中間テストの前に様態の「そうです」を勉強していますから、ここは学生たちの頭が混乱しかねない今学期の山場です。

ひと通り導入し、練習した後、やはり学生から質問がありました。ここで勉強していることは、要するにモダリティですから、そこにウェイトを置いて、学生たちが思い浮かべやすい状況を与え、違いを強調します。理屈をこねて説明しても、学生たちは理解してくれません。話し手がその「そうです」や「ようです」に込めている思いや、言葉の表面に出てこない意味を感じ取ってもらうのです。

一発で学生に正しい使い方を定着させられたら、それはすばらしい教師ですが、私はそんな力もありませんから、失敗しながら身に付けていってもらうという作戦を採ります。授業中に間違え、作文で誤用を犯し、そのたびに直されることで、学生の頭に正しい語感が堆積されていくのです。

同時に、私たち教師がふだん何気なく発している言葉の中から、“なるほど、こうやって使うんだ”という生きた例文を、自分の耳で発掘してもらいたいと思っています。こういう発見が多いと早く上達しますが、意味しか受け取っていないと、努力のわりに進歩が遅いという結果にもなってしまいます。

初級を担当すると日ごとに既習の範囲が広がっていき、それに伴って教師の語彙コントロールもどんどん緩やかになっていきます。そんなことを通して学生の力の伸びを感じるのが、密かな楽しみです。今学期も、「のに」とか「ばかり」とか「そうです」とか「にくい」とかが使えるようになったというか、意識して使って学生に手本を示さなければならない時期になりました。

夕立

5月18日(木)

中間テストの午後の試験監督をしていたら、急に空が暗くなり、にわか雨が襲い掛かってきました。教室内には雨音は聞こえてきませんでしたが、外階段は雨粒が屋根にぶつかる音で会話が成り立たないほどでした。

こういうときは、職員室は傘を借りに来る学生たちでにぎわいます。

「かさ、ください」――いちばん下のレベルの学生なら、しかたないところでしょう。“ください”が言えただけでも多としなければなりません。

「すみません。傘、借りてください」――“わしゃあ、あんたから傘借りんでも、折り畳みはいつも持っちょるんじゃがのお”。生半可に動詞を覚えると、こうなってしまいます。初級だからこそ、正確さが肝心です。

「あのー、傘、貸してもいいですか」――“じゃけえ、傘はあるって言うちょろうがね”。貸し借りは方向性がありますから、使い方を間違えると変なことになってしまうのです。“てもいいですか”を使った点は褒めてあげてもいいですが、中級の学生がこれだとがっかりですね。

「すみませんが、傘を貸してもらいませんか」――惜しいなあ。でも、私はあんたと一緒に傘を借りる気はないんだよねえ…。

「失礼します。傘を貸してくれていただけませんか」――知ってる文法を全部たたき込めば丁寧になるってわけじゃないんだよ。

「お忙しいところすみません。雨が降ってきたので傘をお借りしたいのですが…」――2年前だったかなあ、1度だけ上級の学生にこう声を掛けられたことがあります。この学生は、KCPの学生なら誰もがあこがれる国立大学に進学しました。

テストが終わる頃には雨が上がり、青空が広がりました。この雨の降り方はまさに夕立じゃありませんか。天気予報によると、明日から暑くなるそうです…。

謎解き

5月17日(水)

他の専任の先生方は明日の中間テストの問題作りや印刷などに忙しい中、私は、今学期はどこかのレベルの責任者ではないため、そういったことはしません。時間が少しあったので、上級の教材作りをしました。10月期か1月期にはきっと必要になるでしょうから、今のうちから少しずつ作りだめをしておこうというわけです。ちょっとした謎解きの文章で、これをお読みの皆さんにも是非挑戦していただきたいところですが、この教材を使うことになりそうな学生の中にもこれを読んでいる人がいますから、ここでそれを紹介することは控えておきます。なぞを解いて頭の体操をしたいという方は、個人的に私のところへお越しください。学生の皆さんは、あと半年ほどお待ちください。

KCPの超級は、市販の留学生向け教材では手応えがなさ過ぎて学生の力が伸ばせませんから、新聞記事やエッセイや小説などの生教材や、教師がない知恵を振り絞って生み出した文章や、日本人の高校生向けの問題なんかまでも総動員して、教材を作り上げていきます。時には思い入れが強すぎて教師の意欲が空回りすることもありますが、こうして鍛えられた学生は進学先で十分に日本人学生に伍していけるだけの日本語力を身に付けて卒業していくのです。

読書は私の趣味であり娯楽でありますが、頭のどこかでは「教材」ということを考えています。新聞も情報を得るためだけではなく、半年後に振り返っても学生の心をつかめそうかという目でも読んでいます。息苦しそうに聞こえるかもしれませんが、日々是教材探しという生活も、結構楽しいものです。

錦を飾る

5月16日(火)

入管が日本語学校の入学者に対して1年3か月のビザを出すようになってから、毎年今ぐらいの時期は、4月に進学した卒業生が、ビザ更新に必要な書類の申請に来たりそれを受け取りに来たりするようになりました。インターネットでも書類申請はできますが、敢えて学校まで足を運ぶというのは、卒業生にしてみると、母校に錦を飾るような気持ちもいくらかあるのではないでしょうか。それは私たちにとってもうれしくありがたいことです。進学先の大学・大学院・専門学校などの意外な側面を知るきっかけにもなりますし、何より、わずかな間にグンと成長した卒業生を見て励まされることが大きな喜びです。

日々の授業は、来年のこの時期にまためぐってくる収穫のための種まきみたいなものです。4月の新入生もKCPでの生活に慣れ、来年進学の主力メンバーをどう育てていくかがだんだん見えてき始めるのが、5月の中ごろです。その筋書き通りにはなかなか進まないものですが、進学予定の学生の個性がつかめてきて、その個性に合わせてどんなふうに引っ張っていくかを考えるのは、案外と楽しいものです。

もちろん、順調に育つ学生たちばかりではありません。私のクラスの学生にも、早くも夢に黄信号が点ってしまった学生もいます。その大きすぎる夢を妥当なサイズに変えていくのも私たちの役割です。錦を飾りに来ている卒業生も、初志貫徹よりは紆余曲折のほうがこの1年間を表す言葉としてふさわしい人が多いです。衝突、葛藤、妥協、挫折、反撃、そこには人生の縮図あるようにも思えます。

東京を離れた卒業生はどうしているでしょうか。もし、これを読んでいたら、夏休みにでも錦を飾りに来てください。

逃げを打つ

5月15日(月)

今年のKCPのクールビズ初日で、張り切って半袖でうちを出たら何だか肌寒く、駅のホームにはコートを着ている人すらいました。ちょっと失敗したなと思いつつも、伊達の薄着で通しました。2か月前の3月15日はコートにマフラー、4月15日はスーツ姿、5月15日は曲がりなりにも半袖と、この2か月で季節が一気に進みました。同様に、9月15日は半袖でも汗を流し、10月15日はスーツがちょうどよく、11月15日はコートを羽織っているのではないでしょうか。このところ、春と秋が駆け足で通り過ぎていくような気がしてなりません。

季節はどんどん進む一方で、学生たちの中には勉強がさっぱり進まない困り者もいます。Hさんもその1人で、また受験講座を休み始めました。毎学期、最初のころはちゃんと出席するのですが、途中からパタッと来なくなるのです。ですから、実力が積み上がりません。受験講座には出なくても、塾かうちかで勉強していてくれればいいのですが、そういう気配も見られません。去年は“来年があるさ”と言っていられましたが、今年はそういうわけにはいきません。今の時点で“11月があるさ”なんて1ミリでも思っているようでは、お先真っ暗です。

あるいは、実力のない自分を直視できないのかもしれません。去年の11月のHさんの成績は、ひいき目に見て「悪くはない」という程度に過ぎません。Hさんが考えていた進学先のボーダーラインには及ばず、6月のEJUに捲土重来を図るわけですが、果たしてどうでしょう。1対1で話すと決して悪い学生ではないのですが、どこか線の細さを感じさえられます。

残念ながら、“Hさん”は1人ではありません。私が思いつく範囲で4人ぐらいいます。多少肌寒くても半袖で通すくらいの気概がほしい……などという結論は、牽強付会かな。

希少価値

5月13日(土)

私の出勤時間帯はまだ降っていませんでしたが、受験講座の学生が登校してくるころは降ったりやんだり、授業を終えて学生たちが帰ることは結構な降りっぷりになっていました。気温もあまり上がらず、スーツの上着がありがたいくらいのうすら寒さでした。ニュースによると、沖縄・奄美地方が梅雨入りしたそうです。実況天気図を見ると、梅雨前線が本州南岸まで迫っています。週間予報によると、週明けには前線は南下するようですが、雨の季節が近いことを感じさせられる雨空です。

雨のたくさん降る町で勉強したいと今週の作文に書いていたのがJさんです。日本人的には???となってしまう感覚ですが、Jさんにとっては雨が多いのは好ましい気候のようです。こんなふうに、Jさんの作文は、読み手の気持ちをがっちりつかみ、一気に読ませてしまう力を持っています。もちろん、変な文やおかしな言葉遣いはありますが、そういたものを乗り越えてこちらに訴えかけ、こちらの心を捕らえています。

今学期は、毎週30名近くの作文を読んで添削していますが、Jさんのように気持ちよく読める文章を書く学生もいれば、何回読み返しても真意が理解できない作文を提出してくる学生もいます。同じテーマでどうしてここまで差がつくのだろうと思わずにはいられません。また、作文以外の科目の成績に比例しているわけでもありません。MさんやTさんなんかは優秀な学生のはずなのですが、作文だけはどうしようもありません。2人に比べると授業の時はさっぱりのSさんが、読ませる文章を書いてしまうんですねえ。

才能と言ってしまえばそれまでですが、文法や語彙に対するセンスというよりは、構成力が物を言っています。原稿用紙1枚かそこらに起承転結を盛り込み、与えられたテーマの中で自分の世界を繰り広げる――JさんもSさんも、この稀有な能力を大切に育てていってくださいね。