Monthly Archives: 1月 2017

なんて言ったらいい?

1月19日(木)

「先生、ちょっと相談があるんですが…」「何?」「今度アイドルKの握手会があるんです。その時、Kと3秒だけ話すことができるんですが、何を話せばいいですか。『頑張って』とか、そういう普通なのはいやなんです。かっこいいこと言って、私のこと、覚えてもらいたいんです」「じゃあ、国の言葉で『頑張って』とか『応援してます』とか言ってあげたらいいんじゃない」「ダメダメ。それもよくあります。3秒、一言でKに覚えてもらえるような…」

と、Hさんから頼まれたのですが、3秒でアイドルの心をつかむような言葉など、急に聞かれたって思いつくわけがありません。かといって、よく考えたところでそんな気の利いたフレーズが湧いてくるとも思えません。実際、こういう時って、ファンの人たちはどんな言葉をかけているのでしょう。Hさんのように覚えてもらおうなどと意気込んで握手会に臨むのでしょうか。私は経験がありませんから、よくわかりません。

3秒で人の心を捕らえるには、どんなことをすればいいでしょうか。何も答えてあげられないままHさんが去った後も、しばらくそんなことを考えていました。寸鉄人を刺すような激励か愛情表現かはたまたギャグか、そんなうまい言葉はないものでしょうか。小説やドラマの中のように、一瞬にして聞き手の顔色が変わるような言葉は、そうそう転がってはいません。

教師の言葉に瞬発力を伴うのは、説教の時が多いように思います。学生を黙らせたりぎゃふんと言わせたり、その状況に応じたセリフが浮かんでくることもあります。しかし、その応用でアイドルにかける言葉を考えるのは、無理があります。自分の想像力のなさに肩を落とすしかないようです。

理科の先生

1月18日(水)

金原先生は日本語も教えますか――受験講座・物理の授業終了直後、Sさんに聞かれました。受験講座でも教えていることを驚かれたことはありますが、日本語教師だとして驚かれたのは初めてです。Sさんは先学期から物理と化学の受験講座に出ていますが、私はSさんの日本語のクラスは担当していません。それゆえ、Sさんの目には、私は日本語教師として映らなかったのでしょう。

受験講座が始まってから10年以上、その前身の特別講座・数学を起点とすると15年以上にわたって受験科目に携わってきました。でも、あくまでも日本語教師が主で、理科や数学の教師は従という位置づけでした。また、校長として学校行事などでわりと目立つ仕事をしていましたから、私を理科の教師として認識している学生がいるとは思いませんでした。

日本語に関しては、初級から超級までどこでも教えます。初級のクラスで、「私はレベル1、2、3、4、5、6、7、その上のMSレベルの先生です」と言うと、ぽかんと口を開けて雲の上の学生を教える先生はどれだけすごいのだろうと、尊敬のまなざしで見つめられてしまいます。超級クラスで今学期は初級も教えると言うと、私が初級を教える姿なんて想像もつかないとか、初級を教えるときはとどんなことをするんですかとか、不思議そうな顔をされます。

日本語学校に勤めていますから、広い枠組みでは日本語教師ですが、私は幅広くやらせてもらっています。初級と超級では、授業の進め方も授業に対する心構えも学生への接し方も、みんな違います。また、日本語を教えるのと理科を教えるのとでは、使う脳ミソが違います。おかげで、波乱万丈の教師生活を送らせてもらっています。

寒くなくはない

1月17日(火)

今朝、マンションの外に出ると、「おっ、あったかいじゃん」って感じました。もちろん、本当に暖かかったわけではありません。ここ数日の氷点下の寒さに比べればです。また、今朝は風も弱かったですから、体感温度が下がらずにすんだこともあるでしょう。東京の最低気温は0.7度で、昨日やおとといより2~3度ほど高かったです。

Hさんは、金曜日に東北地方の大学を受けます。今回の寒波でだいぶ雪が降り積もった土地へ行きますから、試験前々日、すなわち明日東京発の夜行バスを予約しました。時刻表上では翌日(=試験前日)朝に着きますから、バスが遅れたとしても木曜日中にはどうにかなるだろうという読みです。明日の午後は、そのHさんの面接練習をします。

Hさんだけではなく、ここにきて面接練習が目白押しです。既に何校か受けている学生もいますが、本番の経験があっても面接練習は緊張すると、Sさんなんかは言っています。

Wさんは、発音、イントネーションなど話し方は自然なのですが、話す内容が若干飛んでいて、面接官がついてきてくれるかどうか心配です。その発想の豊かさ、常人とは違う視点が面接官に認めてもらえれば合格も夢ではありませんが、“???”となってしまったら、涙を呑むことにもなりかねません。

Xさんは頭の回転が速い学生で、しかも話したいことがたくさんあるため、ほうっておくといろいろなことを次から次へと早口でしゃべり続けてしまいます。コミュニケーションが好きだといいつつ、聞き手のキャパを超えて語ってしまうので、本当にコミュニケーションが成り立つか不安なところがあります。

WさんもXさんも、私が常識的な線でこうしろと命じれば、そうするでしょう。でも、それではWさんやXさんのとがった部分を削り取ってしまうように思えます。とがった部分をそのまま受け入れて育ててくれる大学に入って、ぐんぐん伸びてもらいたいのです。それゆえ、最小限の修正にとどめたアドバイスを2人に与えました。

国立の入試が本格化すると、こんな話がまだまだどんどん出てくるでしょう。そういう学生をうまく指導して満足の行く結果に結びつけるのが、今学期の上級を担当する教師の役割です。

プレゼン

1月16日(月)

超級クラスでは、パワーポイントを使ったプレゼンテーションをしています。今日はGさんとEさんがしました。

Gさんはよく通る声で話してくれて学生の目を引き付けていたのですが、Gさん自身の意見が聞けなかったのが残念でした。単なる物事の紹介だけでは、超級のプレゼンとしては物足りません。Eさんは今の社会問題を取り上げて考えさせられる内容でしたが、パワーポイントの文字が小さくて、読みにくかったです。スライドが発表の補助資料になりきれていなかったきらいがあります。

今の時代、どこの大学・大学院でも、授業で学生がプレゼンテーションをするのが当たり前になっています。パワーポイントを使えば手軽に発表用の図表が作れます。聞き手を引き付けるアニメーションなどもちょこちょこっとクリックするだけで導入できます。だから、発表のネタや、ストーリーの組み立てや話し方、そういったことがプレゼンの上手下手を分ける分水嶺となります。それゆえ、進学を控えた学生たちにはがんがん口頭発表をさせているのです。

それから、2人ともスマホに入れてきた原稿を読むような話し方だったのが気になりました。発表原稿をちゃんと考えてきたのは偉いですが、それを読み上げるような発表では、せっかくの原稿も台無しです。要点をメモするだけにとどめ、そのメモをもとに聞き手の反応も見ながら、話を膨らませていくことができるようになってもらいたいです。これができたら、日本語教師が務まってしまいますがね。

今学期のプレゼンは今日が第1回で、これから卒業式直前まで続きます。来週はどんな発表が聞けるでしょうか。今から楽しみです。

何を感じた?

1月14日(土)

昨日超級クラスで書いてもらった卒業文集の下書きを読みました。気取った文章もありましたが、KCPに入学してからの行事の思い出を書いた学生が少なくありませんでした。クラス全体でスピーチコンテストの応援を仕上げていったり、バス旅行やバーベキューで自分の国以外の友達と料理の交換をしたり、運動会というものを初めて経験したり、学生たちにとって、KCPの行事は驚きの連続だったようです。

こういった行事は、異質なものとのふれあいを促進します。異文化の実体験と言ってもいいでしょう。もちろん、教室の中の活動でも、同質な友達に囲まれていたのでは味わえない感覚に浸れます。しかし、ことばのやり取りだけとか抽象概念とかにとどまらず、実際にモノを見たり体を動かしたりすることで、印象が強烈になります。文集に行事の思い出を書いた学生たちは、この印象を素直に受け止めて、自分の殻を打ち破ったのではないでしょうか。

昨日のクラスはみんな黙々と文集を書いていましたが、さっぱり筆が進まない学生がいることもあります。そういう学生は、自分を保とうという意識が強すぎて、思い出を見逃しているのです。大人になりたくないのか、いい子のままでいたいのか、日本の悪習(?)に染まってはいけないと思っているのか、変わることを恐れているという面も感じられます。

留学とは、表面的には学問をするために外に出ることですが、学問とは違った次元において頭脳や肉体や精神を刺激することも忘れてはいけません。そういった刺激を受けたと文集に書ける学生たちは、KCPで日本語とともに留学の本質も学んだと思います。ここでえたことを、進学先でも大いに発揮して、自分の将来を形作ってもらいたいものです。

大人になる

1月13日(金)

卒業文集の下書きがまだ完成していない学生を図書室へと追い出し、職員室に駆け下り、荷物を置いて、学生に捕まる前に6階講堂へ急ぎました、講堂には新成人が三々五々集まってきていて、友だちとおしゃべりしていました。定刻から数分遅れて、成人を祝う会が始まりました。

私の成人式は30年以上も前のことで、来賓の祝辞の際に聞き手である新成人がざわざわとおしゃべりを続けていたため、来賓が起こって話を途中でやめてしまいました。子供っぽい成人のさきがけだったのかもしれません。

これに比べれば、KCPの新成人たちは実に礼儀正しかったです。私の話の時も、ずっと耳を傾け、真剣なまなざしでこちらを見つめていました。私の成人式の新成人たちよりも、ずっと大人の態度でした。まあ、私の成人式の来賓氏よりも、私のほうが聴衆との距離が近いということもあるでしょうが。

私は大学入学とともに家族のもとを離れましたが、同じ国内でしたから、その気になればいくらでも会えました。私と同じ成人式に出ていた新成人の多くは、親元にいました。親元から海を越えて来ているKCPの新成人たちよりも、ずっと子供だったと思います。今は情報機器によって海の向こうにいる家族の顔は見られるでしょうが、生身で見られない心細さは決して消え去ることはないでしょう。何でも自分でしなければというプレッシャーが、成長の原動力になっているのです。

大人になることとすれっからしになることは違います。行動や考え方は大人になっても、歓談の時間に見せていたみずみずしい笑顔をいつまでも忘れてほしくはありません。

一人旅は苦手?

1月12日(木)

始業日なのでいろいろな先生がいらっしゃると思ったからでしょうか、授業後の時間帯を狙って、12月に卒業したKさんが来ました。Kさんはお正月休みに関西を旅行し、そのお土産を持ってきてくれました。

Kさんは、京都、奈良、大阪、神戸を回り、姫路城まで足を伸ばしました。姫路城や奈良公園の鹿や北野の異人館や京都で食べた茶そばなど、関西各地に足跡を残してきたことがよくわかる写真を見せてくれました。とても楽しそうな旅行だと思ったのですが、1人旅だったので寂しくてたまらなかったそうです。旅行中、しょっちゅう国のお母さんやM先生に電話をかけていたとか。

私が毎年5月の連休に1人で関西へ行って楽しんできた話を聞いて、Kさんも関西1人旅を試みたそうですが、Kさんとしては失敗だったようです。Kさんはよくしゃべる人ですから、周りに話し相手がいないと張り合いがなく、それで寂しいと感じたのでしょう。そんなKさんに対して、私は1日中全く口を利かなくても平気な人間ですから、1人旅を寂しいとは全く思いません。

私は自分が見たいと思ったところにはじっくり時間をかけて思索にふけりたいし、そこで得た感動は他の人とシェアするより1人で心行くまで味わいたいです。また、私は歩くのが好きですから、関西で言えば琵琶湖畔の浜大津から山科まで、琵琶湖疏水に沿って寄り道しながら歩いてしまうくらい、平気でします。これもひたすら汗を流すだけですから、誰かと一緒にするような旅ではありません。要するに、自分の興味の対象に浸りきるわがまま人間なのです。

Kさんと私とでは、旅に対する姿勢が根本的に違うのであり、Kさんが私のまねをしたら、やっぱり満足できないでしょうね。感激を分かち合うところに旅の真髄を感じようとするのですから。

5月の連休には、また、関西旅行に行きます。その計画を少しずつまとめつつあるところです。

就職したKさん

1月11日(水)

先学期末で退学し、日本で就職したKさんが書類を取りに学校へ来ました。早速若い力として頼りにされているそうです。何事にも前向きな学生だったKさんなら、社会人としてもきっと立派にやっていけるでしょう。

さて、そのKさんですが、どんな経緯で就職が決まったかというと、アルバイト先でしっかりした人物だと見込まれたからです。普通の大学生がするような、エントリーシートを送って、会社訪問をして、面接を受けて、…という就職活動とは全く別コースです。Kさんの就職した会社がそういう通常の採用活動をしているかどうかまではわかりませんが、通常の就職活動を経ていたら、Kさんは採用されたかどうかわかりません。Kさんは非常に長い面接かインターンシップを通過して採用されたようなものです。

外国人が日本語学校から就職するというのは、法律上は不可能ではありませんが、実際には非常に難しいものがあります。日本語学校卒業は「学歴」にはなりませんし、「KCP」という名前には学歴を乗り越えるほどのブランド力もありません。それゆえ、就職を志す学生たちは、自分の腕や頭脳や人間性だけで勝負しなければなりません。

日本の会社が学生のそういう本質を正確に見極めてくれるのなら、KCPは、例えばN1を取る道場として機能すればいいでしょう。ブランド力のある大学や専門学校を出ることによって、その学生の技術や知識や社会人としての基礎力に保証が与えられるのです。

Kさんはその保証を自分の手で勝ち取ったのですから、感心するほかありません。しかし、日本で就職したいと思って日本語学校に入った学生たち全員にKさんと同じような足取りをたどることを要求するのには無理があります。私たちができることと、歩み寄ってもらわなければならないことと、今年はそんなことも考えていきたいです。

明日から、新学期が始まります。今学期は卒業の学期ですから、学生の送り出し方を考えるにはいい時期かもしれません。

入学式挨拶

1月10日(火)

皆さん、ご入学おめでとうございます。世界の各地からこのように多くの若者がこのKCPに入学してくださったことをうれしく思います。

昨年末のことです。ある学生(仮にAさんとします)の大学入試の面接練習をしました。その質問の一つとして、「あなたの国と日本とで一番違っていることは何ですか」と聞きました。Aさんは「日本人は映画のクレジットを最後まで見ます。私の国ではクレジットを見る人はほとんどいません」と答えました。日本で映画を勉強したいというAさんらしい観点からの答えだと思いました。そこで、さらに、「では、どうして日本人は映画のクレジットを最後まで見るのだと思いますか」と突っ込んでみました。Aさんは、胸を張って、「それがマナーですから」と答えました。

私はこの答えを聞いてがっかりしました。おそらくAさんの頭の中では、日本人はマナーやルールをよく守る国民性を持っていて、それが映画鑑賞の場面でも発揮されたというストーリーができあがっていたのでしょう。Aさんは来日してから約9か月、日本で映画を何本も見て研究に励んできたそうです。そんなに映画をたくさん見てきたのに、君の目には日本人はマナーを守るためにクレジットを最後まで見ているとしか映らなかったのかと言いたくなりました。しかも、それで日本や日本人を理解したかのような答えっぷりが、とても気に障りました。Aさんの志望校は相当レベルの高い大学ですから、この程度の答えなら、面接官はニヤリと笑ってAさんの名前に×を付けるだけでしょう。

私はAさんの日本に対する見方は底が浅いと思います。表面から見えるものだけを見て、触れるものだけを触って、それで日本や日本人を理解したかのように思ってほしくはありません。潜在成長率が0.5%もないと言われている日本において、世界に売り出していけるものといったら、文化ぐらいしかないかもしれません。しかし、その文化は、決して浅薄なものではなく、汲めども尽きぬ井戸のごとく、一朝一夕で理解が及ぶものではありません。私はAさんにそういうことを伝え、映画を含めた日本や日本文化をもう一度捕らえ直すようアドバイスしました。

今日、ここにいらっしゃる皆さんは、短い人でも3か月、長い人はこれから進学先を卒業するまで何年もの間、あるいはその後日本で就職するのなら何十年もの間、日本で暮らしていくことになります。ツアーで日本に立ち寄ったのなら、映画のクレジットを最後まで見る日本人はなんとマナーがいいのでしょう、で十分です。しかし、日本で生活する、生きていく、日本人と何かをしていくつもりなら、映画のクレジットを最後まで見る日本人の心性を追究していく必要があります。

今、この入学式の場においては、日本人がなぜ映画のクレジットを最後まで見るのかの答えは申し上げません。それは、皆さんがこの学校を卒業するときまでの宿題です。私たち教職員一同は、皆さんとこういう議論を日本語でするのを楽しみに待っています。そして、卒業の日に、皆さん自身が見つけたその答えを私にささやいてください。その答えが正鵠を射ていることを祈ってやみません。

本日は、ご入学、本当におめでとうございました。

書けない話せない

1月7日(土)

教師の新学期の打ち合わせがありました。その中で出てきた話に、まとまったことを話す力と、文章を書く力が弱い学生が増えてきたというものがありました。私にも大いに思い当たる節があります。

一読しただけでは内容がさっぱりわからないという作文は、枚挙に暇がありません。文法の例文は作れても、作文となるとからっきしダメなのです。考えや思いを読み手に伝わるように書くことは、文法の穴埋めや漢字の書き取りとは違う能力が要求されます。国でJLPT対策の塾に通っていたりすると、こういうアンバランスな力の付き方になることがあります。

話すほうも同様で、日本語教師ならどうにか理解できても、普通の日本人には理解してもらえないだろうなという学生がよくいます。発音やイントネーションが悪いというのもありますが、論旨が追えないこともよくあります。一生懸命話してくれるのですが、聞き手は理解できる断片をつなぎ合わせて、想像力をたくましくして、話の趣旨をおぼろげながら思い浮かべているに過ぎません。

こういった学生は、文と文の接続がうまくできません。そして、自分の頭に浮かんだことを加工せずにそのまま書いたり話したりしようとします。だから、作文を読んでいると、あたかもその学生に話しかけられているかのような錯覚に捕らわれてしまいます。相手が同じ思考回路を持っていれば理解してもらえるかもしれませんが、そんなことはほとんどありません。思考回路間の橋渡しをするのが接続表現なのですが、それがないとなると、読み手や聞き手は理解の糸口も手がかりも見つけられなくなります。

何より問題なのは、話せなかったり書けなかったりしても、本人がそれを重大な問題だとは感じていないということです。研究計画書や志望理由書を書いたり面接練習をしたりする時に及んで初めて、自分の能力の欠如に気づくのです。そして、何度か痛い目にあって鍛えられて、どうにか進学にこぎつけるというわけです。

そういうことにならないように、初級や中級の作文でみっちり鍛えようとするのですが、教師の気持ちは学生にはなかなか伝わりません。話すことや書くことは、それまでの勉強の集大成だと思います。習った語彙や文法を駆使し、読解のテキストで読んだ文章の構成を思い出し、そういったものを組み合わせて自分の頭や心を表現していくのです。それができなかったら、真にそのレベルを修了したとは言えないと思います。