Category Archives: 自分自身

一人旅は苦手?

1月12日(木)

始業日なのでいろいろな先生がいらっしゃると思ったからでしょうか、授業後の時間帯を狙って、12月に卒業したKさんが来ました。Kさんはお正月休みに関西を旅行し、そのお土産を持ってきてくれました。

Kさんは、京都、奈良、大阪、神戸を回り、姫路城まで足を伸ばしました。姫路城や奈良公園の鹿や北野の異人館や京都で食べた茶そばなど、関西各地に足跡を残してきたことがよくわかる写真を見せてくれました。とても楽しそうな旅行だと思ったのですが、1人旅だったので寂しくてたまらなかったそうです。旅行中、しょっちゅう国のお母さんやM先生に電話をかけていたとか。

私が毎年5月の連休に1人で関西へ行って楽しんできた話を聞いて、Kさんも関西1人旅を試みたそうですが、Kさんとしては失敗だったようです。Kさんはよくしゃべる人ですから、周りに話し相手がいないと張り合いがなく、それで寂しいと感じたのでしょう。そんなKさんに対して、私は1日中全く口を利かなくても平気な人間ですから、1人旅を寂しいとは全く思いません。

私は自分が見たいと思ったところにはじっくり時間をかけて思索にふけりたいし、そこで得た感動は他の人とシェアするより1人で心行くまで味わいたいです。また、私は歩くのが好きですから、関西で言えば琵琶湖畔の浜大津から山科まで、琵琶湖疏水に沿って寄り道しながら歩いてしまうくらい、平気でします。これもひたすら汗を流すだけですから、誰かと一緒にするような旅ではありません。要するに、自分の興味の対象に浸りきるわがまま人間なのです。

Kさんと私とでは、旅に対する姿勢が根本的に違うのであり、Kさんが私のまねをしたら、やっぱり満足できないでしょうね。感激を分かち合うところに旅の真髄を感じようとするのですから。

5月の連休には、また、関西旅行に行きます。その計画を少しずつまとめつつあるところです。

病院にて

1月6日(金)

3か月に1度の目の定期検診のため、病院へ行きました。私が通っている病院は電子化が進んでいて、再診の場合は診察券を機械に通すだけで受付が終わり、その足で眼科の診察室前まで行くと、ほとんど待つことなく名前が呼ばれ、予備検査を受けるという流れになっています。

しかし、診察を受けない月が3か月以上続くと、機械が診察券を受け付けてくれません。前回の診察が9月末でしたから、10・11・12月と診察を受けない月が3か月続いたため、今回は人間のいる受付窓口で手続をしなければなりませんでした。保険証と予約のチェックが済めばOKなんだろうと思っていましたが、一向に名前が呼ばれません。持って行った雑誌を何ページも読んだころに、ようやく名前が呼ばれました。その後はいつものペースで診察が進みましたが、融通が利かない話だなあと思いながらまぶたをひっくり返されたりしていました。

受付が機械化されていなかったら、9月末の次の受診が12月末だろうと1月初めだろうと、待ち時間は、ほどほどに待つという意味においては、変わらなかったはずです。厳密には窓口の方のチェック項目が1つか2つ増えているのかもしれませんが、それが患者の待ち時間に影響を及ぼすほどのことはありません。通常の受付業務が機械化されると人間による受付に比べて待ち時間は短縮されます。しかし、通常ではないと判定された受付は、通常の受付に比べて待ち時間が大きく延びることになります。

大多数の患者が通常の受付ですから、機械化による時間短縮効果は非常に大きいです。私もいつもはその恩恵に浴しています。しかし、通常でなくなると、待ち時間の長さがとてつもなく長く感じられるのです。実際には機械化以前の受付時間と大して変わらないと思いますから、感覚的な問題にすぎません。ですから、病院トータルとしては、患者の待ち時間は大幅に短縮されているはずです。そうは言っても、いや、それだからこそ、通常ではない場合の「待たされた」感が強調されてしまい、そればかりが記憶に残ってしまいます。

通常ではない場合などそう頻繁にあるわけではありませんから、そのときは我慢すればいいのでしょう。でも、それは我慢である限り、機械化の負の側面であることには変わりありません。通常受付ではない患者の犠牲の上に、多くの患者の利便性が図られていると言えないこともありません。

新学期の超級の教材探しをしているからでしょうか、頭の中が理屈っぽくなっています。

名古屋の山

1月4日(水)

年末年始の休みは、名古屋へ。いかにも旅行者然としたいでたちだったのですが、名古屋駅のホームで「すみません。この電車は松本へ行きますか」と聞かれました。まさか、こちらが日本語教師だと気付いて聞いてきたわけではないでしょうが、私は旅先でも不思議と外国人からモノを聞かれます。発音の感じからすると、中国人や韓国人でも、東南アジアの人でもなく、ブラジル人ではないかと思いました。

名古屋の市営地下鉄の主な駅では、日本語、英語のアナウンスに続き、中国語、韓国語、そしてポルトガル語のアナウンスが流れます。それぐらいポルトガル語話者≒ブラジル人が多いのです。いや、愛知県に住んでいる外国人の絶対数で言えば、ブラジル人は中国人や韓国人よりも多いですから、英語の次にポルトガル語が流されてしかるべきなのです。

愛知県は、人口に対する外国人の割合が、東京都についで2番目に高い県です。東京は首都という特殊事情で外国人比率が高い面が見逃せませんから、実質的には愛知県が一番だとも考えられます。元日は泊まったホテルのすぐそばの神社へ初詣に行きました。そこにもブラジル人と思しき人たちが焚き火にあたっていました。この人たちがどんな宗教観を持っているかまではわかりませんが、焚き火に手をかざす姿は周りに溶け込んでいました。

行きの新幹線からはまっ白な富士山が見えました。「幸せの左富士」も見えました。松阪まで足を伸ばしたとき、方角と形から富士山だろうと思われる山の頂上部が見えました。名古屋の街中からは、富士山は見えませんでしたが、御嶽山を始め、木曽の山々が見えました。こういう山々を見て、ブラジル人は故郷の山を思うのでしょうか。それとも、雪をいただいた山など見ても、ブラジルの山とはあまりにも違うので、何も感じないのでしょうか。

推薦書と大掃除

12月27日(火)

仕事納めの日ですが、朝から推薦書を3通書きました。もちろん、推薦書はそう簡単に書けるわけではありませんから、学生の人となりや教室での様子、今学期で言えばBBQ大会などの集団行動での活躍ぶりなどを参考に、書き上げて生きます。志望校や専攻など、これから先のことをどれだけ真剣に考えているかも、当然織り込みます。こういう頭脳労働は、朝の頭がすっきりはっきりしている時間帯に限ります。そして、他の先生方や職員の皆さんがいない静かなときに集中してやります。

そして、大掃除。1年の垢を落として、気持ちよく新年を、新学期を迎える準備をしました。本当は、新学期の準備も多少はしたかったのですが、それは年が明けてから。

さて、私は、明日の今頃は、名古屋です。

寿司屋

12月7日(水)

初級レベルでは、何月何日に授業をどこまで進めるという進度表がかなりがっちり作られています。クラスによって進み方に差があっては、そのレベル全体でテストをすることすらままなりません。学期が終わった時点でクラスごとに習ったことが違っていたら、次の学期のクラス編成ができません。そもそも、授業の品質ということを考えたら、どのクラスも同じように進んでしかるべきです。

中級から上級でも同じような傾向が見られます。進度表どおりに進むのが大原則ですから、いろいろと紆余曲折はあっても、毎学期ゴールは同じです。また、教材が決まっていますから、学期によってクラスによって着地点がばらばらということはありません。

しかし、上級を突き抜けて超級になると、進度表はありますが、担当教師の自由裁量に任されている内容もあります。超級の場合、クラスごとにレベルが違い、また、進路に合わせてクラスを作ることもあり、毎学期判で押したような進度表というわけにはいきません。時事ネタや日本事情的な内容となると、いつ何を取り上げるかは教師が決めることが多いです。

今学期の私は、水曜日の超級クラスが自由演技の日です。教材が決まっていると楽なことは楽ですが、忙しさにかまけて通り一遍の授業に陥ってしまうこともあります。教材も授業内容もすべて自分で決めなければならないとなると、確かに大変ですが、その分頭を使うので、達成感みたいなものが味わえます。

今日は安倍首相の真珠湾訪問についての社説2編を取り上げました。訪問の意義やその背景などはもちろんのこと、新聞社による真珠湾訪問の捕らえ方の違いについてもディスカッションしました。「新聞によって記事の内容に違いがあってもいいんですか」という質問も出ました。事実は正確に伝えなければならないけれども、その事実の解釈は新聞社によって違っていてもかまわないと答えると、とても不思議そうな顔をしていました。

今日はいいネタが得られましたが、来週はどうなっていることでしょう。いいネタの心配をするなんて、寿司屋さんみたいですね。

本当にあと1か月?

12月1日(木)

12月です。毎年思うことですが、1か月後にお正月を迎えているなんて、とても信じられません。クラス授業も選択授業も受験講座も山ほど残っているし、期末テストも作らなきゃならないし、採点もしなきゃならないし、面接練習も志望理由書も続々と襲い掛かってきます。仕事納めの日までに、そんなこんなを処理しきれるんだろうかと、不安を感じずにはいられません。そうそう、少ないながらも年賀状も書きます。それから、学校でもうちでも、大掃除を忘れてはいけません。

でも、毎年曲がりなりにも年末年始の休みに突入し、旅行に出て、旅先で年越しそばをいただき、見知らぬ町のお寺かお社へ初詣に行くのです。そこで手を合わせ、新年の誓いを立てます。

学生たちも、忙しい1か月を過ごします。受験日が迫っていたり、年内に出願を済まさなければならなかったり、間もなく合格発表だったり、既に合格が決まった学生の中には、入学手続の期限が年内だったりします。受験が年明けだとしたら、この12月をあわただしく過ごすだけではいけません。人生を分かつ1か月になるかもしれないのですから。

Yさん、Lさん、Cさん、Hさんもそんな学生たちです。まだ行き先が決まっていませんから、1校確保してもうちょい高いところを狙うっていう学生より感じるプレッシャーも大きいです。親しい友人の合格の知らせを喜びつつも、胸中に焦りの種を宿していることでしょう。クリスマスソングがボリュームを増すともに、風がどんどん冷たくなります。無所属新人の学生には、落ち着かない季節、体調を崩しやすい時期をどうにか乗り越えて、3月には笑えるようになってもらいたいです。

頼りすぎ

11月30日(水)

韓国の朴大統領が、どうやら任期途中でやめそうです。大統領が任期を全うせずにやめるのは、現行の大統領制が確立してから初めてだそうです。支持率が5%にも満たないというのですから、こうなるのも当然かもしれません。でも、どうしてやめなければならないようなことをし続けたのかなあと思わずにはいられません。大きな権力を握ると誰でも清廉潔白でいられなくなるものなのかと、そんな権力を手にしたことのない私は漠然と想像しています。

それとも、自分が握っている権力の大きさが怖くなって、近しい人を必要以上に頼ってしまったのでしょうか。一国の大統領ともなれば、常に大きな決断を迫られます。どんな道を選べばいいかわからなくても、どれか1つを選んで実行に移さなければなりません。迷いたくても迷わせてもらえません。そして、その決断に対する責任は負わなければなりません。だから、自分の権力の大きさに押し潰されそうになることだってあるでしょう。そのときに、相談に乗ってもらうとまでは行かなくても、誰かに背中を押してもらいたいと思うことがあったとしても、不思議はありません。

だから、朴大統領を許してあげたいというわけではありません。自分の大きさと釣り合わない器の人物を、ブレーンとして頼り続けてしまったように思えます。大統領のお父さんの時代は、そういうことが許されたのかもしれませんが、現在はそのころとは比べ物にならないほど、国の規模も大きくなり、国際的地位も高まり、国を取り巻く環境も激変しました。それがわかっていないはずがありませんが、大統領がしたことはそういう意味で前期代的なことです。

翻って自分自身を見ると、私も学生の人生を左右しかねない、学校の将来の明暗を分かちかねない決定を下すことがあります。そういう決断の際には曇りのない目で見極めているか、常に自問自答しいます。

伝わらない

11月26日(土)

今学期の選択授業・身近な科学は、私が80分ぐらいしゃべりまくって、最後にその内容に関するクイズをするという形で進めています。昨年はノートを取らせてそれを提出させたのですが、ひたすらパワポの文字を書き写すばかりで、こちらの伝えたいことが伝わっていなかったようなので、やり方を改めました。

回答を集めてチェックすると、熱心に聞いていた学生はきちんと答えられているとう、当然過ぎる結果が得られました。身近な科学は受験には利さない内容ですから、理科系志望の学生がクイズに有利だとは限りません。授業で聞いた内容を答えるのが主旨ですから、知識を振り回して小難しい答を書くと、かえって減点されてしまいます。

実際、いつもうなずきながらメモを取っている美術系志望のOさんは、毎回好成績です。前回は、理系のGさんは私がしゃべったことを聞き流し、受験の常識に基づいて答えたので、そこは点数になりませんでした。

別にひねくれた問題を出しているわけではありません。このテーマに関しては、これぐらいは知っておいてもらいたいという内容を学生に問うています。授業で強調した項目、印象に残るように話したことについてクイズを作っています。それでも的外れな答えがボロボロ出てくるのです。受験に関係のない授業ですから、学生たちが気楽に受けている面もあるでしょうが、授業で大事なことを伝えることの難しさを思い知らされています。

同じようなことが読解だ文法だというクラスの授業でも起きているとしたら、恐ろしいことです。受験講座でもこんな調子だったら、非常に効率の悪い仕事をしていることになります。気楽な独演会のつもりが、針の筵が敷かれた茨の道を歩むような次第になりそうです。

感じる

10月28日(金)

もうすぐ11月ともなると、早い時期に入試があった大学は合格発表の時期です。私の身の回りでも笑った学生もいれば泣いた学生もいます。

HさんはD大学に受かりました。Hさんの友人たちはすごいと驚いていますが、私はそうでもありません。面接練習をしたときの感触から、受かって当然と思っていました。面接官役をしていると、HさんのD大学への憧れとか学問に対する夢とか、思わず聞き入ってしまうような話が次から次へと出てきました。そういう内容を記した志望理由書も大いに読み応えがありました。それゆえ、受かるに違いないと思えてきたのです。

私のこのビビビッという感覚は、わりとよく当たります。やっぱり、受かる学生はどこか一頭地を抜いています。その部分が私に電波を送ってくるのでしょう。具体的にどういう受け答えのときにビビビを感じるかと聞かれても、口ではうまく説明できません。これが説明できたら、すぐさま面接練習に来た学生たちに教えられるんですけどね。

そんなHさんに対して、残念組の学生の面接には、引き付けられるものがありませんでした。あれこれ指導はしましたが、学生はピンと来なかったのでしょう。私の説明が悪かったのか、学生に私の指導を受け入れる心のゆとりがなかったのか、そこまではわかりません。私は学生の心に響く指導ができず、学生は、もしかすると、落とされて初めてこちらの言いたかったことが胸にすとんと落ちたのかもしれません。

11月は留学生入試の山場で、EJUが終わったら別の忙しさが襲ってきます。1人でも多くの学生からビビビを感じたいものです。

エレベーターと喫煙所

10月27日(木)

私は、都会のマンション住人の典型で、隣にどんな人が住んでいるのか全く知りません。また、エレベーターで誰かと乗り合わせても、せいぜい目礼をする程度です。1階から自分の階までの数十秒間、お互い無言のまま過ごしますが、その雰囲気が息苦しいとも気まずいとも思いません。

たまに、両手に荷物を抱えて、降りる階のボタンが押せない人が乗ってくることがあります。そんなときは、ためらうことなく「何階ですか」と聞き、「すみません、〇×階です」などというやり取りをします。

こんな、会話などとは到底呼べないような言葉を交わしただけでも、そして、その後エレベーターの中で何もしゃべらなくても、エレベーター内の空気がいくらか和らいだように感じます。お互いがお互いを敵ではないと認識できるからでしょう。

言葉はコミュニケーションの道具です。そして、コミュニケーションとは単に情報を伝えるだけでなく、心を通わせ合うことでもあります。英語のcommunicateやcommunicationには後者の意味がないかもしれませんが、“言葉はコミュニケーションの道具”と言ったら、そういう意味も含まれると思います。

学校の近くのタバコ屋さんから、KCPの学生が店の前の喫煙所で外国語で大声でしゃべりながらタバコを吸って困るというクレームが来ました。喫煙所を汚して立ち去るなど、学生たちのマナーもよくないようですが、店の方が一番嫌なのは、外国語で話されてはコミュニケーションが取れない、心の通わせようがないことだと思います。

学生にしたら、休み時間にタバコを吸う時ぐらい日本語から開放されて、友達と国の言葉で思いっきりおしゃべりしたいのでしょう。しかし、それは同時に、タバコを吸う場所を提供してくれている店の方とのコミュニケーションを拒否することも意味するのです。

店の方にしたら、自分の店の軒先で、顔も知らない学生たちに、自分のわからない言葉でしゃべられたら、恐怖感もするでしょうし、店を乗っ取られたようにも思うかもしれません。すなれば、学生の所属する学校に苦情の一つも訴えたくなります。

だから、かたことであっても、学生が真剣に日本語で話しかけようとすれば、店の方も安心できるはずです。お客さんとの心のふれあいが楽しみで店を開いているとすれば、これは喫煙所を使わせてもらうための必須の条件です。こういうことを教えていくのも、学校の役割なのです。