Category Archives: 自分自身

初勉強

1月7日(月)

この仕事をしていると、日本語以外にも勉強させられることが多いです。上級の読解教材を選ぶとなると、かなり広範囲にわたって、論説文、小説、随筆、評論などを読み漁らなければなりません。その中から学生に読ませたい、考えさせたい、入試などの面接での参考になるのではないかといった文章を選びます。作文・小論文でも、「団体旅行と個人旅行とどちらがいいですか」などという、まあ、どうでもいいテーマではなく、「AIとの共存共栄」などという学生たちが自分の人生の中で起こりうる問題について書かせようとすると、教師側も一歩踏み込んだ予習が求められます。

Yさんが研究計画書を送ってきました。出願締め切りが今週末だそうで、急いで目を通さなければなりません。経済学という、私の守備範囲外の専攻について書かれた文章なので、一読しただけでは助詞の間違いなど明らかな文法ミス以外は直しようがありません。私が持っている常識をフル活用し、それでも足りない部分はネットで検索し、付け焼刃かもしれませんがそれなりに勉強してYさんの言わんとしていることを探りました。

こういうのが1年に何回かありますから、法学でも宗教学でも観光学でも、半可通ぐらいのレベルにはなりました。全て、学生のおかげです。是枝裕和監督のすばらしさ有能さを教えてくれたXさん、リーガルマインドに触れるきっかけを与えてくれたLさん、文化財保護の手法を勉強させてくれたQさん、今は当たり前になった3Dプリンターをその最初期に活用法を考えさせてくれたYさん、…挙げていったらきりがありません。授業料ゼロで頭の中身が広がっていくのです。いい商売ですね、日本語教師って。ボケ封じにもいいかもしれません。

さて、今年はこれからどんな勉強ができるのでしょうか。

準備

1月5日(土)

来週から養成講座が始まります。私の担当は文法で、前期まで使ってきたレジュメもありますから、特に準備をする必要はありません。でも、同じ講義の繰り返しでは進歩がないので、そのレジュメに少し手を加えることにしました。そう思って、去年のうちから資料を集めたり個人的に研究を進めたりもしてきました。さらに、講義の際に出てきた質問や学生の誤用や養成講座の教室でひらめいて私がしゃべったことなども、適宜取り込むことにしました。

私のレジュメは、全てを網羅するというよりは、文法を考えるヒントとして使うことを目指しています。普通の日本人が、日本語教師というちょっと変な日本人になるためには、自分の使っている日本語をこんな目で見る必要があるんですよっていう、考え方の見本みたいなつもりで作っています。もちろん、日本語教育能力検定試験は意識していますが、それだけに狙いを定めているわけではありません。

私は文法や言葉の意味をねちこち考えるのが好きですから、養成講座の文法なら今の倍ぐらいの授業時間をいただいても喜んでやっちゃいます。そのために文献を漁ったり用例を探したりという過程にも魅力を感じます。でも、新学期が始まったらやはり通常授業に力を入れざるを得ませんから、こうして養成講座に時間を割けるのも今のうちだけです。

今の受講生の皆さんは、やる気も能力もお持ちの方々ですから、それに堪える講義をしていく義務があります。義務というと苦役のように響きますが、私にとっては楽しみな時間がもうすぐ始まります。

モク拾い

1月4日(金)

2019年の最初の仕事は、タバコの吸殻7本とフィルター1個を拾ったことでした。年末年始の休み中に、1日1本ずつぐらい校舎前の道路に吸殻のポイ捨てがなされたことになります。ここは酔っ払いが歩く道ではありませんから、歩きタバコをした人が何気なく道路の端に捨てたのでしょう。しかし、この「何気なく」が問題なのです。本人には犯意も悪意も何もなく、無意識に近い動作ですから、タバコをやめない限りポイ捨ても止まないでしょう。吸殻が落ちていると道や街が汚く見えること、捨てられた吸殻を見ながら踏み越えて建物に入る人の心、新年早々誰が吸ったかわからない吸殻を拾う人の気持ち、そんなことなど寸毫も考えることなく捨てているに違いありません。

セブンイレブンが店の前に置いてある灰皿を全面的に撤去するという記事が休み中の新聞に載っていました。受動喫煙防止のためだそうで、結構なことだと思ってその記事を読みました。しかし、その代わりにポイ捨てが増えたら意味がありません。全てのとは言いませんが、どうして喫煙者は街の美化に無関心、自分の行いに無自覚、他人の気持ちに無頓着、社会に対して無責任なのでしょう。チコちゃんじゃありませんが、“ボーッと生きてんじゃねーよ!”と言ってやりたくなります。

…というような事件もありましたが、いよいよ2019年が始まりました。本当の意味での初仕事は、入学式で在校生代表として挨拶することになっているBさんの原稿チェックでした。さすがBさん、ほんのちょっといじっただけで立派な原稿になってしまいました。その後、担任クラスの学生へのコメント書きもしました。

寝正月に近かった体が、だんだん戦闘モードになってきました。

災変金進始難老

12月13日(木)

ちょうどうまい具合に、昨日、今年の漢字が発表されましたから、それを上級クラスの授業に使わせていただきました。今年の漢字は「災」です。大阪や北海道の地震や、豪雨で水浸しになったり土砂崩れが起きたりした西日本、毎週のように襲ってきた台風、大きいものでもこのぐらいあります。北海道の地震後のブラックアウトは人「災」だと見る向きもあります。1月の東京の大雪も、自然災害というよりは、雪が降らないことを前提とした都市づくりという意味で人災かもしれません。学生たちも「災」には納得していました。

で、毎年恒例になりつつありますが、学生各人の今年の漢字を書いてもらいました。留学生活が思ったより大変だったから「変」、初めての一人暮らしでお金のありがたみがわかったら「金」、ひたすら進学のために使った1年だったから「進」、留学していろいろなことを始めたから「始」、難しい問題にいっぱい直面したから「難」など、同じ漢字がぜんぜん出てこない、まさに十人十色の回答でした。

全体を通して見渡すと、学生たちにとって新しく始まった留学生活は環境の激変をもたらし、相当に苦労していることがよくわかりました。上級の学生たちですから、日本語でそれなりに意志の疎通はできるはずですが、それでもこうなのですから、日本語がゼロに近い状態で来日した学生の苦労はいかほどでしょう。改めて考えさせられました。

これまた恒例、「先生の今年の漢字は何ですか」という質問には「老」と答えました。毎年老いていくのですが、今年はそれを強く感じました。老眼が進み、腰痛の頻度が高まり、睡眠不足がこたえるようになりました。お昼抜きでもあまり空腹を感じなくなり、夕食すら面倒くさくて抜いてしまうこともあります。何が何でも食べたいという食欲がなくなったのも、「老」の一現象でしょう。

早くも12月半ば。残り少ない2018年を少しでも充実させたいです。

懐かしい香り

11月30日(金)

上級の読解テキストに、“鰹節削り”という単語が出てきました。私は親の手伝いで鰹節を削った世代ですから、当然どんな物かわかります。学生は無理だろうなと思いながら、「鰹節は何ですか」と聞いてみると、「お好み焼きにかけます」「ふわふわ」という声がすぐに上がりました。彼らが思い浮かべたのは、“鰹節”ではなく“削り節”です。

鰹節を口で説明するのは難しいので、インターネットの画像検索に引っかかった写真を見せました。「鰹節」で画像検索しても、真っ先に出てくるのは「削り節」です。画面を何回かスクロールして「鰹節」を発見し、それを教室のモニターに映し出すと、クラス全員が「エーッ!!!」となりました。だれも本物を知らなかったようです。「これを鰹節削り」で削ったのが、みんなの知っている『鰹節』だよ」と説明すると、一様に驚いた顔をしていました。

私は、こんなふうに、学生が知らなさそうな物事に当たると、検索してあっさり画面を見せてしまいます。百聞は一見にしかずだし、学生に各自スマホで調べられるとみんな下を向いてしまうし、よけいな話をせずに学生の注意をひきつけたままにできますから。せっかく便利なものがあるのですから、使わなければ損です。

鰹節削りを見せて、「さっきの鰹節をこれで薄く削ったのがみなさんの知っている鰹節です」と説明を付け加えると、みんな感心しつつ納得していました。そんな学生の顔を眺めつつ、“削りたての鰹節は香りが立っておいしいんだよなあ”なんて、半世紀近く昔の子ども時代を思い出していました。

55年ぶり

11月24日(土)

大阪で2025年に再び万博が開かれることになりました。前回が1970年でしたから、55年ぶりの開催となります。東京オリンピックの56年ぶりとちょうど同じくらいの間隔となります。

70年の万博は、当時京都に住んでいた親戚のうちに泊まって見に行きました。夏休みの真っ最中で60万人以上も入場した日だったので、米国館の月の石をはじめ“目玉”はすべて長蛇の列で、数時間待ちと聞き、見るのをあっさりあきらめました。だから、本当に会場に入ったというだけで、人ごみを見て帰ってきたというに等しく、万博に対する思い出はこれといってありません。でも、国全体が万博の熱気で盛り上がっていたことははっきり覚えています。幼心にとにかく万博を見なければと思い、また、親戚も是非見に来いと言ってくれたので、夏休みの京都行きとなったのです。まだ若かった両親も、好奇心満杯で見に行きました。

さて、25年の万博は何が目玉になるのでしょう。AIが何かするのでしょうか。そうだとしても、ちょっとやそこらのことでは、私たちは驚きません。見学者の耳目を引くには、相当なことができなければなりません。私なら、そうですねえ、AI搭載ロボットが頭のてっぺんから足の裏まで、文字通りツボを押さえたマッサージをして快感に浸らせてくれたら、驚いてあげてもいいでしょう。

日本語学校の教師としては、2025年に向けて日本語学習者が増えるかどうかが気になるところです。世界中で日本に興味を持つ人が増え、その一部でもこちらに回ってきてくれたらありがたいところです。通訳は機械がするようになっているでしょうから、外国人を引き付けるだけの魅力がこの国にあるかどうかが問われます。7年後、どんな答えが返ってきているのでしょうか。

手紙はいくら?

11月15日(木)

中間・期末テストの日は、学生の登校時間は早まり、教師の出勤時間は遅くなります。学生はラウンジで教科書を開いて最終チェックをしようと思い、いつもより早く学校へ来ます。教師は前日までに準備した試験問題を粛々とさせるだけで、授業準備が不要なので、のんびりとお出ましになります。定期試験日は、普段とはちょっと違う空気が流れる朝のKCPです。

試験監督は、いつもと違うクラス・レベルの教室に入るので、何かと刺激になります。私はレベル1のクラスの監督でした。監督中に学生が取り組んでいる試験問題をのぞいてみると、“80円の切手を5枚ください”という文を書かせる問題がありました。あれ、今、手紙って80円じゃなかったよねえ…と思いましたが、ちょっと自信がありません。消費税率が8%に上がった時に端数がついたはずだけど、最近郵便料金がまた上がったような話も聞いたし…。つい先日、年賀状を買った時、62円になっていましたからねえ、はがきが。

はがきと封書の郵便料金は、昔は常識でしたが、今はどのくらいの人が知っているのでしょう。先週あたりかなあ、クラスで「電話とメールとどちらが好きか」という話題になり、今はメールよりもLINEだとか、スカイプは電話なのかとかと話が広がりました。そのとき、「先生は手紙を書きますか」と聞かれました。振り返れば、ここ何年も、年賀状以外の手紙は書いていないような気がして、「年賀状だけですね」答えました。学生たちは笑っていました。

その学生たちにしても、出願書類を送る時になって初めて郵便局のお世話になったという例が多いと思います。郵便局という単語はレベル1で勉強しますが、実は学生にとっては縁の薄い存在のようです。そういえば、私も郵便貯金の口座があるはずですが、どうなっているのでしょう。

ネットで調べたら、封書は82円でした。

束の間の好天

9月28日(金)

通勤電車から、わずかにオレンジ色に染まった東の空が見えました。学校に着いたら、青空。1日中快晴で、久しぶりに明るく伸びやかな気持ちになりました。午前中病院へ行きましたが、このままピクニックでもしたくなるような陽気でした。最高気温は26度でしたが、湿度が低くてさわやかでした。きのうとおとといは最高気温が20度を割り、9月に2日連続で最高気温20度未満というのは10年ぶりだったとか。秋らしさの復活といったところでしょうか。

今朝の最低気温は14.1度でした。私が家を出た頃この気温を記録したはずですが、明日はお休みの私にとって夏装束最終日ですから半袖で出勤しました。肌寒さは感じましたが、我慢できないほどではなく、むしろ気持ちがピリッとして、眠気が覚めました。でも、14度といえば3月ぐらいならコートを着ているかもしれません。人間の感覚って、いい加減なものですね。

ただ、この好天も明日の未明までで、その先は台風の接近にともなって雨模様となるようです。なんだか信じられないというか、信じたくないというか、名残惜しいというか、もう少しこのきれいな青空を見ていたいです。それにしても、今年は台風が多いですね。この台風も含めて、異常気象が定番になりつつあるような気もします。長期予報によると暖冬だということですが、暖冬にもすっかり慣れてしまいました。

病院から戻って来て、午後は期末テストの作文の添削をしました。進歩を感じさせてくれる学生もいれば、同じミスを繰り返している学生もいます。そういうことを最後のコメントで指摘しようと思っています。

活力源

9月14日(金)

今週は異常に忙しかったです。連日午前午後みっちり予定が詰まっていて、そのわずかな隙間にスポットのあれこれが入り込み、毎日夕方には精根尽き果てた状態でした。受験の山場はこれからなのにこんな状況では、先が思いやられます。

1人1人の学生は、先生には、例えば自分の書類を作るぐらいの時間はあるだろうと思っているでしょう。実際、本当に1人の書類だけならそれを作る時間は捻出できます。しかし、ちりも積もれば山となるとはよく言ったもので、そういうのが集まると、めまいがするほどの仕事量になります。でも、これを確実に処理していかないと、学生が進学できなくなったり学校全体の仕事が滞ったりしてしまいます。

そんな中、金曜日のレベル1の授業は貴重な息抜きです。いや、授業を息抜きだなどと称してはいけないのですが、学生の力の伸びを肌で感じられるのは何と言ってもレベル1であり、それが快感につながるのです。学生のほうも授業前まではできなかったことが授業後にはできるようになったと実感できるので、その喜びを味わおうと授業に集中するのです。こちらも、今勉強している文法や言葉はこんなところにまで使われているんだよ、これがわかればこんなこともできようになるんだよということを伝え、学生の顔に達成感が浮かぶのを見ると、力が湧いてきます。

しかし、学生たちから得た力を説教に費やすことほどむなしく、同時に力を与えてくれた学生たちに申し訳なく思うことはありません。幸いにも今週はそういうことはありませんでしたが、これからどうなるかまだまだ予断を許しません。無事平穏を祈るばかりです。

逝く

9月1日(土)

今週一番ショックだったニュースは、やっぱりさくらももこさんが亡くなっていたことがわかったというニュースです。サザエさん同様、ちびまるこちゃんも作者が亡くなってもアニメ放送自体は続くでしょうが、どこからともなく寂しさが湧き上がってきます。

さくらももこさんは私より少し若いですが、だいたい同じ世代と言えます。それゆえ、ちびまるこちゃんの1つ1つの場面やエピソードには、非常に強い共感を覚えます。そういう、懐かしさを共有できる人が亡くなったこと、子どものころの思い出を掘り起こしてその中に浸らせてくれる人がいなくなってしまったことが、寂しさの源だと思います。

サザエさんもドラえもんもクレヨンしんちゃんもかつての日本の家族や暮らしを描いていますが、私の世代にドンピシャリなのは、やはりちびまるこちゃんです。舞台設定が、1970年代の清水という、大都会でもド田舎でもない、ほどほどに田舎で人の温かみがあって子どもが街と自然の境目ぐらいで遊んでいてという、私が子供のころに過ごした環境に近いのです。上述のようにちびまるこちゃんは不滅でしょうが、なんだかちびまるこちゃんにも永遠に会えなくなり、郷愁を覚える街も一緒に消え去ってしまったような気がしてなりません。

日本のアニメにあこがれて来日する学生も多いですが、物心ついたのは21世紀という彼らにとっての“さくらももこ”はいったい誰でしょう。彼らが私の年代くらいになったときに子どものころの香りを呼び起こされる作品って何でしょう。そんなことを考えた一週間でした。