Category Archives: 授業

座布団をかぶって

9月22日(金)

今月はメキシコで2回大きな地震があり、多くの方が亡くなりました、がれきの山の中には、まだ生存者がいるかもしれないと報じられています、そういう方々の無事を祈るばかりです。

課外授業で北区防災センターへ行ってきました。私たちの直前のグループが長引いていたため、入口のところでしばらく待つことになりました。あたりを眺め回していると、日本の断層地図をはじめ、興味深い資料が張り出されているではありませんか。学生そっちのけで思わず読みふけっていると、「金原先生、学生たちに地震についてちょっと話してもらえますか」とO先生。あなたたちの故郷は地震が少ないのに、どうしてこんなに地震が多い日本へわざわざ来てしまったのかと、プレート境界に震源が集中している図を指差しながら、力説してしまいました。

前のグループが終わると、私のクラスは地震体験から。震度3の揺れでも結構驚いていたのですから、5強となったら目の焦点が合わなくなってきた学生もいました。6強では、一緒に体験していた小学1年生の男の子が泣き出してしまい、そこでギブアップ。学生たちだって、クラスのみんなと一緒だから笑ってもいられますが、自分のうちで1人きりだったら、パニックに陥るかもしれません。さらに、震度7となると、伏せの姿勢が保てず、転がりだす学生もいました。私も、2、3年前に花園小学校で起震車に乗ったときのことを思い出しました。7の揺れが終わっても、頭の中が真っ白でした。

このあと、煙の充満した部屋から脱出する訓練、家庭用消火器を扱う訓練を受けました。煙訓練のためにふだんは持ってこないハンカチやタオルを持ってきた学生も、それが大いに役立つことが実感できたでしょう。消火器の存在など気に留めたこともなかったでしょうが、自分の手でホースの口から水を出した学生は、消火器を見るたびにみんなで「火事だ」と叫びながらピンを抜いてハンドルを握った体験を思い出すことでしょう。

北区防災センターは、学生引率などという仕事抜きでもう一度訪れて、中の資料や展示物などをじっくり味わいたい所でした。メキシコにもこんな体験ができるところがあるのでしょうか。

デジタルネイティブの実力

9月20日(水)

今学期は、毎週水曜日に学生のプレゼンテーションの時間がありました。クラスの半分ぐらいの学生のプレゼンテーションを見てきましたが、学生間にかなりの差を感じました。

できる学生は、聞き手の目をモニターの画面に引き付けるスライドを見せて、話が終わった後の質疑応答も盛り上がりました。そういう学生もいる一方で、自分が見つけたネットのページをそのまま貼り付けて見せているだけ、発表原稿をそのまんまスライドにしているだけという学生もいました。聞いている学生のほうも、話の内容がつかみにくいため、発表者が話した内容を改めて聞き返したり的外れな質問をしてしまったりすることが少なくありませんでした。質問が出てこないことすらありました。そんなときは、私が誘導尋問のような形で、プレゼン内容を補わせるような質問をして、学生の理解の手助けをしました。

こういう学生は、聞き手のことを一切考えていないか、考えが及ばないかなんだろうなと思いながら聞いていました。彼らが近い将来に迎える面接試験のことを思うと、暗澹たる気持ちになります。ペーパーテストでは他人に自慢ができるほどの成績が挙げられても、自分が一方的にしゃべるだけでは面接官の心証はよくないでしょう。そういうのを直していくのがこの授業のひとつの目的でもあるのですが、お手本となるプレゼンの翌週ぐらいに箸にも棒にもかからない原稿棒読みを聞かせられると、こいつは他人から学ぶ能力にも事欠いているのかと、がっかりしてきます。

私が学生のころはパワーポイントなどという便利なプレゼンテーションツールなんかありませんでしたから、レジュメをいかにわかりやすく作るかが通常の発表(プレゼンテーションという言葉自体、私の学生時代にはなかったように思います)でのポイントでした。でも、そのレジュメを使って、発表内容をいかにわかりやすく伝えるかはずいぶん訓練されたものです。

デジタルネイティブである学生たちは、私なんかよりもそういう訓練を受けてきていると思うんですが、実際はそうでもないんでしょうか。案外、こういうところに日本語学校が果たすべき役割があるのかもしれません。

また同じ

9月15日(金)

来学期中級に上がる(つもりの)学生たちのクラスで授業をしました。自動詞と他動詞という、日本語学習者が一番苦しむテーマで、初級を「卒業」する(ことになっている)学生たちにはぴったりのテーマでした。しかし、授業の手応えは、中級に進むどころか1つ下のレベルに戻ったほうがいいのではないかという感じでした。

習ったはずの語彙をすっかり忘れていたり、覚えていても自動詞・他動詞の区別がつかなかったり、区別がついてもどこでどちらを使うのか忘れていたりと、散々な結果でした。先学期、この学生たちを担当なさった先生がご覧になったら、さぞかしがっかりされたでしょうね。自分たちのあまりのできなさ加減に学生たちもふがいなく思ったのでしょうか、だんだん声も小さくなってしまいました。

学生たちは、「いすが並んでいます」と「いすが並べてあります」の違いも教わっているはすですが、私の説明をとても新鮮そうに聞いていました。でも、私は悲観していません。学生たちは、何か月か前、同じ説明を初めて聞いたときは、今とは比べ物にならないくらい日本語が未熟でした。それゆえ、文法を理屈で覚えるより体で覚える、口にしみこませるという感じだったと思います。ところが、今は理屈も多少は理解できるくらいの日本語力になっています。だから、口頭練習を繰り返した文法項目の裏側にはこんな論理があったのかと、感心していたのかもしれません。

自動詞・他動詞はこれで終わりではありません。次の学期、新しいことを学ぶ際にまた復習します。生身の人間に文法を教えるのは、AIに文法を仕込むのとは違って、繰り返しが必要です。その説明と練習の繰り返しが、人間味ある言葉の使い方を生み出していくのです。

暗雲

8月23日(水)

初級のクラスに入ると、こちらの指示がうまく伝わらないことがよくあります。口頭による指示にとどまらず、文字で書いて示しても、こちらの意図したこととは全く違う行動に走ってしまう学生を毎日のように目にします。「あなたは、先生になったとしたら、学生にどんなことをさせたいですか」という質問なのに、「私は学生を早く帰らせます」「私は学生に宿題をさせました」などという答えが続出しました。というか、そういう答えのほうが「私は学生に本をたくさん読ませたいです」などというまともな答えより多かったです。

学生たちは、習慣的に習った文法を使わねばならないと思い、反射的に習ったばかりの使役動詞を使ってしまったのでしょう。そういうときの学生は、指示は目にも耳にも入らないに違いありません。初級では何事にも余裕がなく、頭がある方向に向いてしまったら、指示を読んだり聞いたりなどできないのです。

ところが、超級クラスでもこれと同じ現象を見てしまったのです。例文を作らせて類義語の意味の違いを説明させようと思ったのですが、例文しか作らない学生やいきなり意味の違いの解説を始める学生が1人2人ではありませんでした。EJUの日本語で満点に近い成績をとっても、こんな指示すら理解できないのなら、日本語でのコミュニケーションが全くとれないということです。その好成績は実力を伴ったものではなく、砂上の楼閣に過ぎません。

もちろん、私も周りの人からの指示を取り違えることがあります。でも、指示を読み取る、言われた通りに行動するというのは、受験生にとって基本中の基本ではないでしょうか。一抹の不安を覚えずにはいられません。

休むそうです

8月22日(火)

みんなの日本語49課の会話は、ハンス君のお母さんが学校に電話をかけて、ハンス君は熱を出したので休むと伝える話です。クラスの先生がまだ出勤していないので、電話に出た先生に伝言を頼むというストーリーです。教科書では、その先生に「よろしくお願いします」と言って終わっていますが、私はクラスの学生に「この先生はハンス君の先生が学校へ来た時にどう言いますか」と聞いてみました。

「ハンス・シュミットの母はゆうべ熱を出して、今朝もまだ下がらないですから休みますと言っていました」

「ハンス・シュミットはゆうべ熱を出しまして、今朝もまだ下がらないんですから休ませていただけませんか」

など、全然意味不明ではありませんが空振り気味の答えが続いたので、「ハンス君はゆうべ熱を出して…」とヒントを板書しました。それからも紆余曲折があり、どうにかこうにか「ハンス君はゆうべ熱を出して、今朝もまだ下がりませんから休…」までたどり着きました。しかし、ここからも大きな山がありました。「休みました」「休んでしまいます」「休んでくださいませんか」「休むつもりです」「休むと思います」「休むようです」「休むはずです」…習った文法をとりあえず言ってみるみたいな大乱戦になりましたが、私が望んでいる答えだけ出てきません。

ついにブチ切れて、「お前ら全員、もう一度同じレベルだあ」と言った直後、「休むそうです」と誰かが小さい声で答えてくれました。「君たち、今学期、何を勉強してきたんだ!」と叫んでしまいました。

とはいえ、こうなるんじゃないかと予想していたことでもあります。単に事実や状況を描写するだけではなく、それに対する話者の態度を盛り込む文末表現を勉強してきました。しかし、それが十分に整理されていません。

でも、私は焦っていません。中級でその辺をがっちり訓練し、聞いてわかる、読んでわかるだけでなく、書いたり話したりできるようになっていくのです。

名札

8月19日(土)

特に授業のない土曜日の朝、K先生が「この名札、見てください。私がKCPに入ったときのですよ。物持ちがいいでしょう」と、少し誇らしげに見せびらかしました。そういえば昔は初級、中級、上級って色分けして名札にラインを入れていたっけなあと、K先生の名札を見て懐かしく思い出しました。私も名札を持っていますが、K先生のよりは新しいバージョンで、ラインは入っていません。私が名札を使うのは、新入生のプレースメントテストのときだけです。名札を指差して、名前を解答用紙の所定欄に書くようにと指示するのです。

K先生は授業がありませんでしたが、私は受験講座の授業がありました。学生たちにEJUの模擬試験をさせましたが、Tさんはなぜかなかなか解答用紙に名前を書こうとしません。「あと5分です」と残り時間を告げてもまだ書きません。Tさんはもう1年以上もKCPで勉強していますから、わざわざ名札を持ち出すまでもなく、最後には名前を書くでしょう。でも、本番の試験の時にはしてほしくないですね。集めた解答用紙には、「はい、やめてください」というのと同時ぐらいに大急ぎで書いたと思われるくしゃくしゃの名前がありました。

名札といえば、最初に勤めた会社を辞めたとき、本当は返さなければならない名札を記念にこっそり持ち出したのですが、あれは今どこにあるのでしょう。その時は、この会社に勤めたことを一生の思い出にしようと思っていたに違いありません。でも、今は、今朝K先生の名札を見せられるまで、その存在すら忘れていました。うち中の荷物をひっくり返して探せば見つかるかもしれませんが、そこまでする気力も時間もありません。ま、要するに、私はK先生より物持ちが悪く、淡白なのだということなのでしょう。

脳づくり

7月18日(火)

理科の受験講座が始まりました。前半は先学期以前から勉強してきた学生が対象ですから、EJUそのものからちょっと離れた内容にトライしました。穴埋め問題でも選択肢ではない形式や、簡単な論述問題です。選択肢があると知識や記憶が多少いい加減でも正解を選べてしまうこともありますが、純粋な穴埋めだとそうはいきません。論述ともなれば、いくつかの知識を組み合わせ、それを採点官にわかってもらえる文章にする必要があります。

また、問題文が結構長いですから、読解力も必要です。また、漢字で書かれた専門用語も理解しなければなりません。これは、単語帳を作って覚えるという手もありますが、問題を解くことを通して、問題文をたくさん読むことによって、文脈ごと意味を感じ取ってもらいたいところです。こうすると、専門用語同士の連関も見えてきますから、知識体系が築かれていきます。

学生たちの勉強はEJUで終わりではありません。進学後に今までの勉強や知識をいかに活用していくかが、学問上の勝敗の分かれ目です。それゆえ、丸暗記とか断片的な知識の寄せ集めとかではなく、有機的なつながりのある、1本も2本も筋の通った理科的な頭脳を作り上げていってもらいたいです。

こういう学生に比べると、今学期からの学生が主力のクラスは「まだまだ」という感じが否めません。それだけに鍛え甲斐があるとも言えますが、11月までにそれなりのレベルに持っていかねばならないとなると、プレッシャーも感じます。

授業の最中、教室内にも音が響くほどの雨が降りました。都内には雹だったところもあるそうです。嵐を呼ぶ授業には程遠いですが、学生たちを目覚めさせる授業をしたいです。

いいものはいい

7月13日(木)

スピーチコンテストのクラス内予選をしました。昨日原稿を書かせたクラスとは別の上級のクラスでしたから、どんな話が飛び出してくるか楽しみでした。

昨日のクラスは最上級レベルでしたから、自分の日本語を駆使して社会的な問題に切り込んでいましたが、このクラスはそれより少し下のレベルですから、その分自分の身の回りに寄った話題が多かったです。抽象性が低くなったと言ってもいいでしょう。もう少し正確に言うと、独自の思考によって抽象性を高められた学生が少なかったです。参考にしたネットのページなどに振り回されて、十分に咀嚼せずに文を並べているので、スピーチが聞き手の心に響かないのです。

一方、独自の思考で帰納的に議論を深めていった発表は、聞き手の学生たちの顔つきが違っていました。スピーチにひきつけられ、スピーチを聞くことに知的な喜びを感じていることがわかりました。私自身、なるほどと思わせられ、そこまで自分や社会を掘り下げていったその学生に敬意を払いました。

また、発音の良し悪しの差が明瞭に現れました。きれいな発音の学生は、その辺を歩いているバカ高校生よりよっぽどきれいな日本語を話します。その一方で、上級の端くれなのに日本語教師も理解に苦しむ発音しかできない学生もいます。それに加え、原稿の内容を十分に理解しないままスピーチしたとあれば、聞くに堪えるとか堪えないとかの次元ではありません。

私が「これは!」と思ったスピーチは学生も高い評価を与え、発音の悪いスピーチは学生の評価も散々なものでした。学生たちがここまで真贋を見抜く目をもっているとなると、私など学生たちの前で毎日スピーチしているようなもんですから、何だか背筋が寒くなります。

趣味はスポーツです

7月5日(水)

先週から、アメリカの大学のプログラムで来ている学生たちが勉強しています。お昼を食べて、午後の仕事に取り掛かろうとしていたころ、その中で一番下のクラスの学生たちが、インタビューに来ました。習いたて、覚えたての日本語を駆使して職員室にいる教師に話を聞くというタスクはどこのレベルでもやりますが、一番下のクラスはようやくインタビューできるだけの日本語をどうにか覚えたという段階です。

「はじめまして。〇〇です。どうぞよろしく。失礼ですが、お名前は?」という学生の挨拶で始まります。この挨拶がスムーズに言えるかどうかが最初のチェックポイントですが、「私は金原です」と答えて、“きんばら”、せめて“kinbara”とメモできないようだと、実力的にかなり怪しいと覚悟しなければなりません。

ここまでである程度(かなりの程度?)学生の実力を判断し、次の質問を待ちます。「趣味は何ですか」ときたら、実力に応じて、「スポーツ」「音楽」「旅行」などと答えます。間違っても「特殊な地層を見て歩くことです」などと口走ってはいけません。話がそこで終わってしまいますから。

趣味はスポーツと答えると、次は「どんなスポーツが好きですか」ときます。これまた実力に応じてゴルフ、サッカー、ジョギング、バスケットボール、野球などという答えを用意しておきます。でも、今回の学生は、なぜか「私はスイミングが好きです」と自己主張する人が多く、その中の1人は乏しい語彙とジェスチャーを織り交ぜて、自分は何千メートルも泳げるんだと訴えてきました。

そして、準備した質問を聞き終わっても所定の時間にならないとなると、苦し紛れの質問が出てきます。趣味の話の後、突然、「昨日の夜、何を食べましたか」ときかれました。「トマトとヨーグルトを食べました」は聞き取れないでしょうから、「ラーメンを食べました」。そうすると、「私もラーメンが好きです。ラーメンはおいしいです」と、会話が続きます。「冷やし中華」じゃ、こうはいかないでしょうね。

そんなこんなをしているうちに、時間が来ました。学生たちはほっとした表情で「ありがとうございました」と言い、次のインタビューターゲットへと向かいました。

いいとこ取り

7月4日(火)

養成講座の授業をしました。今学期と来学期は養成講座と日本語の通常授業と受験講座の3種類の授業を並行して進めることになります。使う脳みその場所が少しずつ違うので、忙しくもありますが、気分転換にもなります。

私はいろんな職場で働きましたが、どこへ行ってもつぶしが利くというか何でもこなすというか、何か1つをどこまでも深く追究するという仕事のしかたをすることがありませんでした。それはそれで面白いのですが、元研究者の端くれとしては、心のどこかに1つの分野を掘り進みたいという気持ちはあります。

私が養成講座で担当しているのは文法を中心とする科目で、掘り下げようと思えばいくらでも掘り下げられる分野です。独自の文法理論を打ち立てようなどとは思っていませんが、自分なりに日本語文法を矛盾なく理解したいとは思っています。私にとって日本語教師養成講座は、その成果の発表の場でもあるのです。

ですから、私の授業は、諸先生の理論のいいとこ取りをして、さらに私の実感を加え、それらを私の独断で組み合わせて、1つの体系っぽく仕上げたものです。ある先生の理論に沿って教えていこうと思っても、どこかに納得のいかない部分が生まれ、それを何らかの形で補っていくうちに、こんな形になってしまいました。

じゃあ、すべてのことが丸く収まっているのかといわれると、そうでもありません。疑問に思いつつ教えている部分もあります。日本語がわからない学習者に教えていく分には大きな問題は生じないだろうと頬かむりをしている項目も、実はあります。それがどこかは、学生には秘密ですけどね。

明日も授業です。授業を楽しみたいです。