Category Archives: 授業

鋭く

12月7日(木)

「〇〇についてどう思いますか」とクラス全体に聞いたとき反応してくれる学生、指名したときに必ず何か答えてくれる学生は、教師にとってありがたいものです。その学生の答えを軸にして、授業を進めていけます。

Yさんはそんな学生の1人です。頭の回転も速く、うがった物の見方もできます。クラスメートもYさんには一目置いていて、Yさんが話す時はみんな耳を澄まして聞いています。

ところが、小論文となると、Yさんはとたんに歯切れが悪くなります。舌鋒鋭く切り込んでいたのが、筆鋒は鈍ってしまい、毎回焦点のぼやけた文章になってしまいます。Yさんの文章には「~とおもう」「~かもしれない」のような、断定を避ける表現が多すぎるのです。誤解が生じないようにというつもりなのでしょうが、1つのことを述べるのに留保条件が多く、文を読んでもYさんの言わんとしていることが頭にスッと入ってきません。

文だと証拠に残ますから、間違ったことを書かないようにと腕が縮こまっているような気がしてなりません。口から発する言葉では言い切ることができても、文だとそこまでの勇気が湧かないのでしょう。でも、これでは小論文の読み手の心には響きません。

それから、抜け落ちがないようにと、たかだか数百字の文章に何でも盛り込もうとするきらいがあります。すると、課題に対して広く浅く全体をなでるような小論文になり、散漫な印象しか残せません。どれか1つに絞って突っ込んで書いてくれたほうが、読み手からすると議論のしがいがあります。

要するに八方美人過ぎるのです。自分の手で自分の角を矯めて、個性を殺しています。向こう傷を覚悟の上で相手に切り込んでいく気概がほしいです。クラスにいるときの尖ったYさんのほうが、らしさがあふれているんですよ。

400ppm

12月1日(金)

英国で18世紀後半に始まった産業革命は、人類が化石燃料を大量に消費するきっかけともなりました。化石燃料を燃やすと二酸化炭素が大気中に放出されます。それ以前は約280ppmで一定していた大気中の二酸化炭素濃度はじわじわ上がりだし、50年ほど昔の私の子ども時代には300ppmになりました。理科の時間に、地球温暖化とは関係なく(その頃、そんな言葉はありませんでした)純粋に知識として、そう教えられました。今は、どの教科書も400ppmと記し、温暖化効果ガスをどうにかしなければという流れになっています。この大気中の二酸化濃度変化の曲線を外挿すると、学生たちが私の年齢になることには500ppmになっているかもしれません。

このところ、なぜかこんな話を立て続けに数回しました。すると、何だか歴史の生き証人みたいな気分になるんですねえ。100ppmの変化を日々少しずつ実感してきたわけではありませんが、50年分をまとめて振り返ると、霜柱が少なくなったなあとかって感じることもあります。ベルリンの壁のあっち側とこっち側の話をしても、学生たちにとっては歴史の教科書の写真でしか知らない物を見て触って越えてきているんですから、半分英雄みたいなものです。社会人になる直前、無理してヨーロッパ旅行をし、度胸を決めて東ベルリンに踏み出したおかげで、今の私が形作られているのです。

今上天皇退位の日が2019年4月30日と決まりました。翌日から新しい元号となり、私は昭和平成そして新元号の三代を生き抜くことになります。それから10年もすると、私が明治生まれの祖父母を見ていたような目で、新元号時代生まれの子供から見られるようになるのでしょう。それまでに、祖父母たちのように威厳を備えた人物になっていたいなあと思います。

話す力

11月20日(月)

EJU以降の受験講座の理科は、口頭試問の練習をしています。口頭試問は知識を持っているだけでは通用しません。その知識を聞き手である面接官に正確に伝えられて初めて点数になります。また、ちょっとひねった出題によって、応用力が試されることもあります。

この講座を受けている学生たちは、EJUではそこそこの成績が挙げられているはずです。もちろん、まだ正式な結果は出ていませんから断言はできませんが、それだけの実力は持っていると私は見ています。しかし、一部の大学は、受験のテクニックが通用してしまうEJUの成績だけで理科の実力を判定することはせず、科学的な発想ができ、論理的に推論でき、合理的な結論を導き出す力を、口頭試問によって見極めようとします。同時に、頭で考えたことを日本語で伝える力も見てしまおうと、一石二鳥か三鳥をもくろんでいます。

私が出題すると、学生たちは惜しいところまではいくのですが、なかなかこちらの思ったところまで到達してくれません。もう一歩、踏み込んでほしいところなのですが、二の矢が次げずに口ごもってしまうことが多かったです。学生たち自身も、きっともどかしく感じているのでしょうね。

EJUのような選択肢の問題は、大学の勉強にはなじみません。やはり論述問題です。また、最近は理科系学部でも授業での口頭発表が増えていると聞いています。その基礎が、こういった口頭試問にあると思います。日本人学生に比べて日本語にハンデがある留学生が、今からその面を鍛えておくことには意義があります。

今学期の終わりには、模擬口頭試問にも堪えられるくらいの実力を付けさせたいと思っています。

川面から東京を見る

11月17日(金)

隅田川を下る水上バスの船乗り場は浅草ですが、私はもう4.5キロほど上流から川下りを始めました。そうです、自宅のすぐそばから隅田川遊歩道を歩いて、水上バスの旅の集合場所まで来たのです。晩秋を感じさせるススキの穂を見ながら、朝の冷気を頬に感じつつ、でも集合場所に着いたらうっすら汗をかいていました。

学生たちの集まりは結構よかったのですが、それだけに遅れてきた学生が目立ちました。やっぱりねと言いたくなる学生たちが定刻過ぎに駆け込んでクラスの列の後ろにつきました。

水上バスは満席と言ってよく、それだけに活気が感じられました。私のクラスは2階席で、椅子がたくさん並んでいるだけでしたが、1階席はテーブルを挟んで向かい合う座席配置のため、テーブルの上に食べ物や飲み物を広げて談笑するクラスもありました。

隅田川の遊歩道は、月に1回ぐらい、清洲橋か永代橋、調子に乗ると勝鬨橋まで歩き通すことがあります。右岸も左岸も歩いたことがありますが、川の真ん中を通り抜けるのは初めてです。でも、学生の様子を見に船の中をあちこち動いていると、景色どころではなく、気がついたら右手に浜離宮が見えていました。

「あ、豊洲の新市場だ」と、水上バスには何度も乗ったことがあるLさんの声にそちらを向くと、それらしい建物が建ち並んでいました。すると、程なくレインボーブリッジをくぐって終点のお台場海浜公園到着。もっとあれこれ景色を楽しみたかったなあというのが、正直な感想です。学生たちも、アトラクションで騒いでいるうちに着いちゃったというのが本音かもしれません。

お台場はいろいろな名所がありますから広く感じるかもしれませんが、せいぜい1.5キロ×2.5キロ程度です。ゆりかもめの駅がいくつもありますが、ゆりかもめ自体都電を高架線に上げたようなものですから、2つ先の駅ぐらいなら歩いていけちゃいますし、ブーツのような路線ですから、お台場海浜公園―青海など、駅は4つめですが、直線距離は600mに過ぎません。小ぶりな県庁所在地の中心街といったところでしょう。

私のクラスはそんなお台場を、約4.5キロ、ちょうど私のうちから浅草までと同じくらい歩きました。学生たちの中にはブーブー言っていたのもいましたが、若いうちから足腰を鍛えておかなきゃ年取ってから歩けなくなっちゃいますよ。

解散してから、私はレインボーブリッジを歩いて渡って帰りました。見学か所内や船内を歩いた距離を加えると、20キロぐらい歩いたかもしれません。心地よい疲れが襲ってきました。

手が震えていませんか

11月10日(金)

来週の中間テストに備えて文法の復習問題をしていると、下を向いて盛んに右手の指をリズミカルに動かしているLさんが目に入りました。私がじっと見つめているのも気付かず、スマホの画面に熱中しています。無言でじっと待つこと1分ほど、隣の学生につつかれてようやく顔を上げ、決まり悪そうにスマホをノートの下に隠しました。そんなところに隠したって、もうバレバレじゃないですか。なんと無意味なことをと思いながら、「Lさん、スマホはかばんの中にしまってください」と注意して、次の問題を指名して答えさせました。もちろん、答えられるわけがありません。

Lさんは机の上にスマホを出してゲームにいそしんでいましたが、机の物入れの際にスマホを載せて何かしている学生は、どのクラスにも何名かはいます。本人たちは先生に気付かれていないと信じているのでしょうが、教壇に立っていると、意識がスマホに向いている学生は一見してわかります。そういう学生を指名すると、中には「今一番面白いところなのに」とばかりに、不満そうにこちらを見やる学生もいます。友達に教えてもらってでも答えると、またもとの姿勢に戻ろうとします。そこでもう一度指名すると、さらに不満そうに「どうして私ばかり指すんですか」と口を尖らせる学生もいます。

そんなこんなでばりばり注意しても、こちらのわずかな隙を突いてスマホをいじろうとする学生が必ずいます。今週の選択授業・小論文でも、Eさんは私がよそ見をしている間にスマホから“いい例文”を見つけてきたようです。前後はEさんの話し方そのものの文章の中に、妙にこなれた文章が挟まっているのです。

LさんもEさんもスマホ依存症なんだと思います。アルコール依存症患者が周りに隠れてお酒を飲もうとするのと何ら変わりがありません。たかだか90分でもスマホなしでは過ごせないに違いありません。私の常識ではそれではまともな人生が送れないとなってしまいますが、今の世の中ないしはこれからの世の中では、スマホを握りしめ続けるほうが常識なのでしょうか。

少ない

11月6日(月)

今朝、教室に入ると、やけに学生が少なく、寂しい雰囲気が漂っていました。いつもより少し早く教室に入ったせいかなとも思いましたが、始業のチャイムと同時ぐらいに駆け込んできた学生を加えても、教室はいつもより空間が広かったです。

休んだ面々を見ると、今度の日曜日のEJUに備えて自室にこもっていそうな学生たちでした。毎回こういう学生が出現しますから、いつものことかと思う反面、そんなことしたってどうにかなるわけでもないのにとも思います。本人たちはぎりぎりのところでの追い込みのつもりなのでしょうが、そういう効果が現れるのは、規則正しい生活が送れる強い意志を持ったごくわずかな学生だけです。

まず、朝寝坊するでしょうから、そこで効果が半減。そして、自分の部屋という緊張感のない環境だと、勉強の密度も下がります。せめて近くの図書館へでも行けば自室ほどいい加減にはなりませんが、それだったら学校の図書室だって同じです。悪友の誘惑がないだけ図書館のほうが有利だというかもしれませんが、良友からのプラスの刺激もありません。

何より、試験の直前に夜更かし・朝寝坊の生活を送ると、本番の日の朝にすっきり目が覚めず、いわば時差ボケ状態で試験を受けることになります。当然、好成績は望めません。ふだんの生活リズムを崩さず、朝9時に頭の芯からシャキッとしているような生活が、試験の直前だからこそ必要なのです。去年の11月のEJUで満点を取ったJさんは、無遅刻無欠席でした。

幸い、私の受験講座の学生は、みんな顔を揃えていました。こちらの学生たちに期待を寄せることにしましょう。

無難な線

11月4日(土)

朝からずっと、火曜日の選択授業で学生が書いた小論文を読んでいます。自分の志望する学部学科専攻に関する最近のニュースについての意見を書いてもらいました。超級の学生たちですから、解読不能な文章はありませんが、平凡な内容が多くて疲れてきました。

入試の小論文となると、学生たちは安全運転に走りたくなるのでしょうか。「この問題に関してはAだと思う」とはっきり述べず、「Bの可能性もある」と結論をぼやかしてしまう学生が多いです。こういう八方美人型がもっとも嫌われるのに、敵を作らないようにしているつもりなのでしょう。

また、何かの受け売りっぽい結論も目立ちました。そういう意見に至る過程や理由に独自のものがあれば評価できますが、そこにも何もないとなれば、これまたいかんともしようがありません。

しかし、読んでいくうちに、学生は自由を与えられすぎて何をどう書いていいのかわからず、書きやすそうな話題について議論してみたら、あいまいな結論になったり、どこかで読んだり聞いたりしたことのある意見になってしまったりしたのではないかと思えてきました。でも、自分がこれから学ぼうとしていることについてですよ。常にアンテナを広げて、そこに引っかかってきたことに対して自分なりの考えは持っていてほしいですね。

ことに、学部入試の学生は、思い切ったことを書いてほしいものです。大学院の受験生は専門教育を受けてきていますから、それに基づいたまっとうな回答が求められますが、学部入試は、非常識でさえなければ専門的に見て多少おかしくても、向こう傷と見てもらえるものです。私が読んだ文章には、そういう生きのよさが感じられるものが少なかったです。

来週の火曜日にこれを返して、新しい課題で書かせて、それを添削して…。入試が迫っていますから、私もプレッシャーを感じます。

沈黙は錆

11月1日(水)

水曜日のクラスはおとなしいクラスです。テストの成績が悪いわけではありませんが、教師がクラス全体に問いかけても、反応があまりないのです。誰かが答えるのを待っている、教師が説明してくれるのを待っている、指名されたら答えるけれども指名されなかったら黙っている、そういう学生が集まってしまったようです。

口を開かせるにはプレッシャーをかけるしかありません。指名した学生がたまたま間違った答えを言った時、「問1はアでいいですか」「…」「特に意見がなければアということで、次にいきます」「(蚊の鳴くような声で)あ、先生、イ……」「いそいでください? じゃ、急ぎましょう」「いいえ、問1はイだと思います」なんていう感じで、無理やりしゃべらざるをえない状況を作ります。それでもこんな程度ですから、ほうっておいたら教師の独演会になってしまいます。

このクラスの学生は全然しゃべれないのかというと決してそんなことはありません。1対1だと単語ではなく、複文で論理的にきちんと答えられる学生もたくさんいます。性格的に引っ込み思案、恥ずかしがりやなだけなのかもしれません。また、国での勉強の方法が、教師の話を聞くだけで、学生は一言も口を利かなくてもよかったという話も聞いたことがあります。

いずれにしても、語学の習得において、受身の姿勢というか、棚ぼたを待っているようでは、実践的な力はつかないでしょう。N1には受かってもさっぱり話せないというのは、こういう人たちです。進学したら、プレゼンが山ほどあるんですよ。入試はどうにかごまかしきって合格できたとしても、話せなかったら卒業できません。

大学・大学院は、日本語「で」勉強するところです。日本語「を」じっくり勉強できるのは、KCPにいるうちだけです。このチャンスを逃さず、実りある留学の基礎を築いてほしいです。

インフルエンザウィルス

10月27日(金)

選択授業・身近な科学では、授業の最後にその日の授業の内容に関するテストをしています。私が話したことを書かないと正解とは認めませんから、授業中に聞き落としたことをこっそりスマホで調べてそれを書き写しても、たいてい×となります。だからかどうかはわかりませんが、今学期のこの授業の受講者は、みんな一生懸命メモを取っています。

昨日の身近な科学も同じように授業を進めてテストを行いました。みんな、概していい点数だったのですが、その数少ない間違いが、「インフルエンザの特徴を書きなさい」という問題に集中しました。テストの直前に、パワポのスライドで大いに強調して示したのですが、ウィルス一般の特徴を答えた学生が少なくありませんでした。

間違えた学生は、よく言えば自分のペースを守って勉強を進めるタイプ、その実はスライドの文字を写すのに精一杯だったように思えます。そして、スライドを写したところで一安心して、教師の話に耳を傾けるまでいかなかったのでしょう。私の話をきちんと聞いていれば、インフルエンザとウィルスを混同することはありません。

確かに「インフルエンザウィルス」という言葉も使いました。でも、この授業は超級の学生たちばかりですよ。超級の実力をもってすれば、この2つを区別することなど、どうということないはずです。問題文中のカタカナ言葉を見て(運悪く、カタカナ言葉はインフルエンザだけ)、自分のノートの目立つところに書いてあったウィルスということばに反応して、それを答えてしまったのかもしれません。

真の意味で超級ではなかったといってしまえばそれまでですが、こういう学生も進学したら身近な科学など足元にも及ばないような厳しい授業を受けなければなりません。果たしてやっていけるのかなあと、一抹の不安を抱かずにはいられませんでした。

伝える伝わる

10月3日(火)

この学期休み中は、通常授業はありませんが、養成講座の講義が何回かあります。通常授業とは違って日本人相手ですから、言葉が通じない心配はありません。でも、私が担当している文法の場合、受講生が小さい頃からずっと勉強してきた学校文法の枠組みを一度壊して、日本語文法として再構築していきますから、聞き手にとって新たな何事かを理解させていくという点においては、通常授業と変わるところがありません。

そうすると、やはりただ単に知識を垂れ流ししていくだけでは仕事をしたことにはなりません。私が有している知識や経験を、いかに生き生きとした形で伝えていくかを考えねばなりません。そのためにはどんな論理構成で話すのが一番わかりやすいかを考え、どんな資料を用意すれば効果的か頭をひねり、どんな問いかけをすれば受講生の刺激になるか作戦を練り、ようやく1つの講義を作り上げます。

ところが、こうして作り上げた講義を、当日あっさり壊してしまうことがよくあります。迷った末にこの方法でいこうと決めたのに、受講生とやり取りしているうちにまた気が変わって、没にしたのが復活させたり全く予定外の進め方をしたりすることも一再ならずあります。自分の作った台本にとらわれていては、受講生の要求に応えていることにはなりません。臨機応変というか、行き当たりばったりというか、こういう思い切りの良さみたいなものが、何が起きてもびくつかないところが、私の特徴じゃないかと思っています。

受講生には、こういうところも盗んでほしいものです。私があと30年この仕事を続けることは考えられませんが、今の受講生が30年後も日本語教師をしていることは十分ありえます。30年後に、今の私のように後進に何事か伝えているかもしれません。その時に、今の私の言葉をほんの一部でも思い出してくれたら、私の知識や経験がその人に伝わっていくことになります。そんなこともちょっぴり考えながら、講義をしています。