Category Archives: 作文

テーブルの上の暦

9月25日(月)

漢字の教科書に「暦(こよみ)」が出てきたので、この「暦」を使った例文を作ってくるようにという宿題を出しました。その中に、「テーブルの上にいつも暦が置いてある」という文がありました。この例文は〇にしますか、×にしますか。

確かに、辞書には「暦」の意味として「カレンダー」も書かれています。学生が辞書で調べて一番ピンと来た意味を選んで例文を作ったら、上述のような例文となっても不思議はありません。でも、テーブルの上においてあるのはカレンダーでしょうね。暦が置いてあるとしたら、お寺か神社か田舎の旧家か商家の文机か座卓か帳場じゃないでしょうか。

暦と言ったら、大安仏滅のような吉凶はもとより、日の出日の入り月齢日食月食のような天文学的データ、各地のサクラの平年開花日のような自然観測、各種記念日などまで載っているようなイメージです。高島易断のあの本ですよ。カレンダーは、上半分に気の利いた写真があり、日付欄には予定が書き込めるような感じがします。暦はめくり、カレンダーは破るといったら、言いすぎでしょうか。

こういうのは、意味というより語感の問題かもしれません。私の語感は上記のようなものですが、違う語感の人がいてもおかしくはありません。暦の意味を広く取る人でも、普通の文脈においては、暦はテーブルの上にはないんじゃないかな。

冒頭の例文を作ってきた学生は、よくできる学生です。文法なんかでは一を聞いて十を知るようなところがあり、ちょっと説明しただけで実に要点を心得た例文を作ります。その学生をもってしても、なおこういう例文を作り出してしまうのです。言葉を教えるのは、本当に難しいものです。

白ご飯

9月12日(火)

ちょっと白ご飯を食べただけなのに体重が1kgも増えてしまった――これは初級のWさんが文法テストの短文作成の問題に書いた答えです。“ちょっと遅刻しただけなのにひどく叱られた”みたいな答えを想定していたのですが、教師の貧困な発想をはるかに超越したすばらしい例文です。「だけなのに」の意味や機能を実によく捕らえていて、5点の問題ですが10点ぐらいあげたい答えです。

Wさんのような気の利いた例文が作れるようになる学生がいる一方で、今までかろうじてボーダーライン上に残っていた学生の明暗が分かれるのもこの時期です。期末テストまであと2週間ほどともなると、各レベルの授業は最後の大きな山場を迎えます。この山を越えられないと、上のレベルには進めません。まさに胸突き八丁です。先学期、私が持ったクラスの学生たちは、みんなこの胸突き八丁を越えて無事進級してくれました。しかし、今学期のクラスは危ないです。Lさん、Nさん、Cさん、Yさんあたりは、今からよほど奮起しないと、来学期もう一度同じレベルということになりかねません。

じゃあ、WさんとLさんたちはいったい何が違うのでしょうか。ひとつは想像力だと思います。Lさんたちも、四択問題だったらどうにか点が取れるんじゃないかと思います。でも、何もヒントがないところで「だけなのに」を使って例文を作れといわれても、「だけなのに」の辞書的意味以上に想像の翼が広がらないのです。

また、生活の単調さが想像力の妨げになっていることも考えられます。今朝は「食べてみたい食べ物」というお題で話をしてもらいましたが、「特にありません」などと言っている学生の作る例文は、面白みに欠けます。せっかく留学しているんだから、多少は刺激を求めようよと言ってやりたいです。刺激を求めすぎてもらっても困るのですが…。

Lさんたちが期末テストで逆転勝ちを収めることを祈ってやみません。

読ませられる

7月12日(水)

先学期は初級クラスの担当でしたが、今学期は超級クラスにも入ることになりました。そして、今学期はスピーチコンテストがあり、今日は超級クラスの学生にその原稿を書いてもらいました。

なにせ、このところ超級の学生の文章を読んでいませんでしたから、ちょっと調子が狂ってしまいました。まず、文章がしっかりしていることに驚かされました。もちろん、文法や語彙のミスはありますが、でも、初級の学生のように、文字は日本語だけど文は日本語ではないという作文はありませんでした。たくさん赤を入れた原稿もありましたが、どうにも直しようがない、いくら考えても意味不明という“名作”はありませんでした。

それから、原稿に書ける意欲も立派なものでした。1時間あれば書けるだろうと思っていましたが、授業時間内に書き終えた学生はクラスの半分もいませんでした。ところが、授業後、図書室かどこかで書いてきた学生が続々と提出してきました。一番遅い学生が出してきたのは、まさに日が暮れるころでしたから、5時間ぐらい頭を悩ませていた計算になります。時間をかければいいという問題ではありませんが、それだけ考え続け、彼らにとっては外国語である日本語でその考えを著した努力には、素直に頭を下げたいです。

そして、社会派の内容が独自の視点で書かれている原稿が多く、これまた立派なものです。さすが超級と感心させられました。この原稿の中から1つだけを選ぶのは至難の業です。でも、スピーチは原稿だけで決まるものではありません。その考えをいかに訴え、そして聴衆の心をいかに捕らえるか、これこそがスピーチの醍醐味です。

クラス予選は、激戦になりそうです。

要注意人物

6月23日(金)

昨日の期末テストの作文の採点をしました。将来の自分について書いてもらいましたが、読み応えのある文章とそうでないのとの差がかなりありました。ある先生は、学生の夢のあるなしが如実に現れたとおっしゃっていましたが、確かにそうだと思いました。

私のような年寄りはともかく、学生たちの年代なら誰でも将来の夢を持っているはずです。夢があるからこそ、わざわざ日本という外国で勉強しようとしているのだと思います。しかし、その夢がどれだけ具体的か、夢に向かっての道のりがどれだけ明確かは、それぞれの学生によって違っています。具体的な夢の実現のためには何をすればいいか見えている学生にとっては、昨日の作文は難しい課題ではなかったと思います。それに対して、漠然とした夢しか描けていない学生にとっては、非常に書きにくかったでしょう。

「お金持ちになりたいです」などという話は初級の入口の学生でも書けます。「将来のためにもっと頑張ります」「一生懸命勉強していい大学に入りたいです」だけじゃ、面白くも何ともありません。こんな程度の学生は、これから数か月後に待ち受けている大学や大学院の面接試験で苦労することでしょう。図らずして、進路指導をしていく上での要注意人物が浮かび上がりました。

Gさんはその要注意人物の1人です。決して頭が悪いわけではありませんが、作文を読む限り、進学までに大きな壁がありそうです。来学期は、おそらく、私のクラスにはならないでしょうから、新しい先生に引き継がねばなりません。そうです。私たちの頭の中では、もう新学期が始まっているのです。

大丈夫は大丈夫じゃない

6月19日(月)

瞬間、私は目を開けた。そうだ。これは全部夢だったのだ。もったいない気持ちだが大丈夫だ。

先週の作文の時間は、創作的な文章を書かせました。Mさんの作品は後半に入るまで非常にテンポよく進んで、思わず引き込まれました。最後が「夢」というのもベタな終わり方ですが、私はそれ以上に「大丈夫」に引っかかりました。この「大丈夫」が気の利いた言葉だったら、ベタな終わり方を補うこともできたはずです。しかし、最後の最後で「大丈夫」という安易な言葉を選んでしまったため、なんともやりきれない、もって行き場のない中途半端さが残る結末となってしまいました。

このように、安易な言葉を使うと安易な結論となり、文章全体を安っぽくします。「いい」とか「大丈夫」とかはその典型です。話す時でもこういう言葉を多用されると、何だか雑な感じがしてきて、話している人自体の人格を疑いたくすらなります。

そういう意味で、私は、中級以上では、自分のクラスの学生には「いい」とか「大丈夫」のような、便利すぎる言葉気安く使うなと言っています。こういう言葉は意味が広いですから、なんとなくプラスの意味だということを示すのには適していますが、ピンポイントで鋭く描写するには向きません。

ところが、町を歩くと「大丈夫」が氾濫しています。街まで出ずとも、学校の中も「大丈夫」だらけです。語彙が乏しい初級の学生との意思疎通においては、「大丈夫」は有力な武器です。サバイバルジャパニーズとしての「大丈夫」まで否定するつもりはありません。しかし、そうじゃない場面においてまでも多用するのはいかがなものかと思います。私は「大丈夫」以外に表す言葉がないかどうかよく考えて(聞き手の日本語力も勘案して)、どうしてもという場合以外、「大丈夫」は使わないようにしています。

Mさんは次の学期は中級に進級するでしょう。中級の教室で会ったときにこのような文章を出してきたら、遠慮なくガバッと減点してやります。

記述

6月15日(木)

木曜日は作文の授業があります。EJU前の最後の授業でしたから、EJU記述対策の仕上げをしたクラスも多かったようです。

Mさんも18日に本番を迎えますが、今日の授業での出来がよくなくて、先生にどこがいけないのか説明してもらっていました。どうやら、「〇〇の長所と短所を述べよ」という設問に対して、自分の意見をとうとうと述べてしまったみたいです。その点を先生から指摘されたのですが、Mさんは承服できない様子でした。自分の意見を書いてどこが悪いという気持ちが、表情にありありと浮かんでいました。

私がEJUの記述対策の授業を担当していたときは、EJUの記述はゲームだと思って割り切って書けと指示したこともあります。2万人からの受験生の文章を一定の基準で採点するのですから、課題について熱く語るよりも、淡々と論理的に述べたほうが高く評価されます。ですから、極端に言えば、自分の考えとは違っても、規定字数以内で論理的な文章になりやすい意見を書いたほうが安全なのです。

大勢の文章を公平に評価するには、ある枠をはめてその中でどれだけ内容のある文章が書けるかとするのがやりやすいと思います。でも、そういう方法に慣れていない学生、枠からはみ出してしまう学生は、すばらしいものを持っていても評価してもらえないこともありえます。Mさんはどうやら自分を枠の中に収めることを是としない、ないしは枠の存在が意識できないようです。だから、一生懸命書いたのに認めてもらえない不満を感じたのだと思います。

センター試験の改良案には小論文も含まれていますが、EJUよりもさらに1桁多い受験生数ですから、どうなることでしょうか…。

あなたはすばらしい学生です

6月3日(土)

今週はずっと運動会に時間を取られていたので、火曜日の作文の採点があまり進んでいませんでした。来週の火曜日に返さなければなりませんから、授業のない土曜日に集中してどうにかしようと考えました。

「自分をほめたいこと」というテーマで書いてもらいました。中には、前に勉強した救急法を使ってけが人の応急処置をしたことをほめたいとか、「人間は誰かにほめられるために生きている」などと哲学めいたことを書いてきた学生などもいましたが、頑張っている自分をほめたいという内容が多かったです。

各人各様のほめたい自分を挙げてきましたが、そういうことをしているカッコいい自分、理想的な姿の自分を、教師じゃなくてもいいですから、誰かに認めてもらいたいんだろうなと強く思いました。「ほめて伸ばす」とはよく言われますが、おざなりのほめ言葉ではなく、心の底から感心して声をかけることが肝心なのです。それには、装わずにほめられる箇所を各学生から見つけなければなりません。私はそれに耐えうるほどの鋭い観察眼があるかなあと、思わず自分を振り返ってしまいました。

私がこのテーマで作文を書けといわれたら、何を書くでしょう。一つのことを続けていける点かもしれません。でも、それはバカの一つ覚えでもあります。諦めが悪いと言い換えてもいいでしょう。

「初級から超級までどこのレベルでも教えられる」といっても、プロですからそれぐらいしなきゃ。「日本語教師なのに理科も教えられる」のは確かにそうですが、受けてきた教育訓練がそういうものですから、これすらできなかったらまさに無駄な学歴・経歴になってしまいます。

こうして考えると、自分をほめるのは案外難しいものです。学生の作文がいつもより短めだったのも、致し方ないところかもしれません。この作文を参考にして、各学生を見つめる角度を変え、ちゃんと見ているよというメッセージを送り、学生に自信を持たせて進級させてあげたいです。

希少価値

5月13日(土)

私の出勤時間帯はまだ降っていませんでしたが、受験講座の学生が登校してくるころは降ったりやんだり、授業を終えて学生たちが帰ることは結構な降りっぷりになっていました。気温もあまり上がらず、スーツの上着がありがたいくらいのうすら寒さでした。ニュースによると、沖縄・奄美地方が梅雨入りしたそうです。実況天気図を見ると、梅雨前線が本州南岸まで迫っています。週間予報によると、週明けには前線は南下するようですが、雨の季節が近いことを感じさせられる雨空です。

雨のたくさん降る町で勉強したいと今週の作文に書いていたのがJさんです。日本人的には???となってしまう感覚ですが、Jさんにとっては雨が多いのは好ましい気候のようです。こんなふうに、Jさんの作文は、読み手の気持ちをがっちりつかみ、一気に読ませてしまう力を持っています。もちろん、変な文やおかしな言葉遣いはありますが、そういたものを乗り越えてこちらに訴えかけ、こちらの心を捕らえています。

今学期は、毎週30名近くの作文を読んで添削していますが、Jさんのように気持ちよく読める文章を書く学生もいれば、何回読み返しても真意が理解できない作文を提出してくる学生もいます。同じテーマでどうしてここまで差がつくのだろうと思わずにはいられません。また、作文以外の科目の成績に比例しているわけでもありません。MさんやTさんなんかは優秀な学生のはずなのですが、作文だけはどうしようもありません。2人に比べると授業の時はさっぱりのSさんが、読ませる文章を書いてしまうんですねえ。

才能と言ってしまえばそれまでですが、文法や語彙に対するセンスというよりは、構成力が物を言っています。原稿用紙1枚かそこらに起承転結を盛り込み、与えられたテーマの中で自分の世界を繰り広げる――JさんもSさんも、この稀有な能力を大切に育てていってくださいね。

倍増期

4月20日(木)

昨日採点した学生たちより2学期分上のレベルの学生たちが書いた作文を採点しました。さすがですね。読みやすさが全然違います。そりゃあ、助詞や漢字や文法の間違いはありますよ。でも文の構造が崩れていないってところが立派なところです。主語と述語がかみ合わないねじれ文が少ないのです。

2つのレベルの学生たちに頭脳的な差があるとは思えません。要するに、頭で考えたことを日本語の文章にする力の差だと思います。語彙力の差もあるでしょうが、長い文になったときに文全体が見渡せるかどうかによるところが大きいように思えます。初級の段階では単語レベルを見張るのがやっとなのに対して、もうすぐ上級という学生たちは複文になっても前後の関係が見えてくるようになっているのだと思います。

午後は、今学期から理科の勉強を始めた学生たちの受験講座をしました。初回ですからオリエンテーションが中心でした。入試の口頭試問の例として、半減期を説明しろと学生に聞いてみました。すると、目や手は動くのですが、口はさっぱり動きません。国の言葉でなら説明できますが、それを日本語で表現できず、もどかしい思いをしているのが手に取るように思いました。私が学生たちの知っている範囲の文法や語彙で説明すると、ノートにメモする学生もいました。

上級の学生なら、半減期程度のことは自分の手持ちの言葉で強引にでも説明しきってしまうでしょう。3月に卒業していった面々を思い浮かべても、そんな気がします。今、口をもごもごするしかない学生たちが、そこまであつかましくたくましく育っていくのでしょうか。彼らの日本語力の倍増期はいつでしょう。

実験台

4月19日(水)

先学期は卒業クラスばかり担当していましたから無しで済ませてしまいましたが、今学期はこれから中級に上がろうかという学生たちのクラスですから、作文は逃げて通れません。私にとって辛い季節が始まりました。

午前中は、昨日書かせた作文を採点しました。幸いにも今学期のクラスには“文字は日本語だけど文章は日本語ではない”というほどひどい作文の書き手はいませんでしたが、何回読んでも理解不能な文はいくつかありました。前後の文を読んでみても、その文だけ浮き上がっていて、どうしてもパズルのピースをはめ込むことができません。書いた本人の頭を解剖して、思考回路をトレースしたいです。

習った文法や語彙を使うというルールも、重荷に感じた学生がいたようです。上手に使って文章を小気味よくまとめている学生がいる一方で、取って付けたような使い方をして文の流れを滞らせてしまった学生もいました。4、5か月前に勉強しているはずの文法をすっかり忘れていて、思い切り減点された学生も。

午後は初級のクラスに入りました。ここでは、習った文法を使って質問に答える練習をしました。安易に下のレベルの文法で答えた学生には、遠慮会釈なしに「はい、レベル1」などと冷たくダメ出しをしました。

授業での文法の練習は、その文法を使うことが明らかなので、動詞などの形さえ間違えなければどうにか乗り越えられます。しかし、何をどこでどう使うかわからない状況で使えと言われても、習ってきたいろいろなツールのなかからふさわしいものを選んで使うのは、学生にとっては厳しいかもしれません。

使って間違えて笑われて悔しい思いをして…。学校はそういう場です。学校にいる間に一生分の間違いをし尽くして、その代わり学校を出たら絶対に間違えないようにしてくれたら、私は喜んで添削もダメだしもします。