Category Archives: 作文

記述

6月15日(木)

木曜日は作文の授業があります。EJU前の最後の授業でしたから、EJU記述対策の仕上げをしたクラスも多かったようです。

Mさんも18日に本番を迎えますが、今日の授業での出来がよくなくて、先生にどこがいけないのか説明してもらっていました。どうやら、「〇〇の長所と短所を述べよ」という設問に対して、自分の意見をとうとうと述べてしまったみたいです。その点を先生から指摘されたのですが、Mさんは承服できない様子でした。自分の意見を書いてどこが悪いという気持ちが、表情にありありと浮かんでいました。

私がEJUの記述対策の授業を担当していたときは、EJUの記述はゲームだと思って割り切って書けと指示したこともあります。2万人からの受験生の文章を一定の基準で採点するのですから、課題について熱く語るよりも、淡々と論理的に述べたほうが高く評価されます。ですから、極端に言えば、自分の考えとは違っても、規定字数以内で論理的な文章になりやすい意見を書いたほうが安全なのです。

大勢の文章を公平に評価するには、ある枠をはめてその中でどれだけ内容のある文章が書けるかとするのがやりやすいと思います。でも、そういう方法に慣れていない学生、枠からはみ出してしまう学生は、すばらしいものを持っていても評価してもらえないこともありえます。Mさんはどうやら自分を枠の中に収めることを是としない、ないしは枠の存在が意識できないようです。だから、一生懸命書いたのに認めてもらえない不満を感じたのだと思います。

センター試験の改良案には小論文も含まれていますが、EJUよりもさらに1桁多い受験生数ですから、どうなることでしょうか…。

あなたはすばらしい学生です

6月3日(土)

今週はずっと運動会に時間を取られていたので、火曜日の作文の採点があまり進んでいませんでした。来週の火曜日に返さなければなりませんから、授業のない土曜日に集中してどうにかしようと考えました。

「自分をほめたいこと」というテーマで書いてもらいました。中には、前に勉強した救急法を使ってけが人の応急処置をしたことをほめたいとか、「人間は誰かにほめられるために生きている」などと哲学めいたことを書いてきた学生などもいましたが、頑張っている自分をほめたいという内容が多かったです。

各人各様のほめたい自分を挙げてきましたが、そういうことをしているカッコいい自分、理想的な姿の自分を、教師じゃなくてもいいですから、誰かに認めてもらいたいんだろうなと強く思いました。「ほめて伸ばす」とはよく言われますが、おざなりのほめ言葉ではなく、心の底から感心して声をかけることが肝心なのです。それには、装わずにほめられる箇所を各学生から見つけなければなりません。私はそれに耐えうるほどの鋭い観察眼があるかなあと、思わず自分を振り返ってしまいました。

私がこのテーマで作文を書けといわれたら、何を書くでしょう。一つのことを続けていける点かもしれません。でも、それはバカの一つ覚えでもあります。諦めが悪いと言い換えてもいいでしょう。

「初級から超級までどこのレベルでも教えられる」といっても、プロですからそれぐらいしなきゃ。「日本語教師なのに理科も教えられる」のは確かにそうですが、受けてきた教育訓練がそういうものですから、これすらできなかったらまさに無駄な学歴・経歴になってしまいます。

こうして考えると、自分をほめるのは案外難しいものです。学生の作文がいつもより短めだったのも、致し方ないところかもしれません。この作文を参考にして、各学生を見つめる角度を変え、ちゃんと見ているよというメッセージを送り、学生に自信を持たせて進級させてあげたいです。

希少価値

5月13日(土)

私の出勤時間帯はまだ降っていませんでしたが、受験講座の学生が登校してくるころは降ったりやんだり、授業を終えて学生たちが帰ることは結構な降りっぷりになっていました。気温もあまり上がらず、スーツの上着がありがたいくらいのうすら寒さでした。ニュースによると、沖縄・奄美地方が梅雨入りしたそうです。実況天気図を見ると、梅雨前線が本州南岸まで迫っています。週間予報によると、週明けには前線は南下するようですが、雨の季節が近いことを感じさせられる雨空です。

雨のたくさん降る町で勉強したいと今週の作文に書いていたのがJさんです。日本人的には???となってしまう感覚ですが、Jさんにとっては雨が多いのは好ましい気候のようです。こんなふうに、Jさんの作文は、読み手の気持ちをがっちりつかみ、一気に読ませてしまう力を持っています。もちろん、変な文やおかしな言葉遣いはありますが、そういたものを乗り越えてこちらに訴えかけ、こちらの心を捕らえています。

今学期は、毎週30名近くの作文を読んで添削していますが、Jさんのように気持ちよく読める文章を書く学生もいれば、何回読み返しても真意が理解できない作文を提出してくる学生もいます。同じテーマでどうしてここまで差がつくのだろうと思わずにはいられません。また、作文以外の科目の成績に比例しているわけでもありません。MさんやTさんなんかは優秀な学生のはずなのですが、作文だけはどうしようもありません。2人に比べると授業の時はさっぱりのSさんが、読ませる文章を書いてしまうんですねえ。

才能と言ってしまえばそれまでですが、文法や語彙に対するセンスというよりは、構成力が物を言っています。原稿用紙1枚かそこらに起承転結を盛り込み、与えられたテーマの中で自分の世界を繰り広げる――JさんもSさんも、この稀有な能力を大切に育てていってくださいね。

倍増期

4月20日(木)

昨日採点した学生たちより2学期分上のレベルの学生たちが書いた作文を採点しました。さすがですね。読みやすさが全然違います。そりゃあ、助詞や漢字や文法の間違いはありますよ。でも文の構造が崩れていないってところが立派なところです。主語と述語がかみ合わないねじれ文が少ないのです。

2つのレベルの学生たちに頭脳的な差があるとは思えません。要するに、頭で考えたことを日本語の文章にする力の差だと思います。語彙力の差もあるでしょうが、長い文になったときに文全体が見渡せるかどうかによるところが大きいように思えます。初級の段階では単語レベルを見張るのがやっとなのに対して、もうすぐ上級という学生たちは複文になっても前後の関係が見えてくるようになっているのだと思います。

午後は、今学期から理科の勉強を始めた学生たちの受験講座をしました。初回ですからオリエンテーションが中心でした。入試の口頭試問の例として、半減期を説明しろと学生に聞いてみました。すると、目や手は動くのですが、口はさっぱり動きません。国の言葉でなら説明できますが、それを日本語で表現できず、もどかしい思いをしているのが手に取るように思いました。私が学生たちの知っている範囲の文法や語彙で説明すると、ノートにメモする学生もいました。

上級の学生なら、半減期程度のことは自分の手持ちの言葉で強引にでも説明しきってしまうでしょう。3月に卒業していった面々を思い浮かべても、そんな気がします。今、口をもごもごするしかない学生たちが、そこまであつかましくたくましく育っていくのでしょうか。彼らの日本語力の倍増期はいつでしょう。

実験台

4月19日(水)

先学期は卒業クラスばかり担当していましたから無しで済ませてしまいましたが、今学期はこれから中級に上がろうかという学生たちのクラスですから、作文は逃げて通れません。私にとって辛い季節が始まりました。

午前中は、昨日書かせた作文を採点しました。幸いにも今学期のクラスには“文字は日本語だけど文章は日本語ではない”というほどひどい作文の書き手はいませんでしたが、何回読んでも理解不能な文はいくつかありました。前後の文を読んでみても、その文だけ浮き上がっていて、どうしてもパズルのピースをはめ込むことができません。書いた本人の頭を解剖して、思考回路をトレースしたいです。

習った文法や語彙を使うというルールも、重荷に感じた学生がいたようです。上手に使って文章を小気味よくまとめている学生がいる一方で、取って付けたような使い方をして文の流れを滞らせてしまった学生もいました。4、5か月前に勉強しているはずの文法をすっかり忘れていて、思い切り減点された学生も。

午後は初級のクラスに入りました。ここでは、習った文法を使って質問に答える練習をしました。安易に下のレベルの文法で答えた学生には、遠慮会釈なしに「はい、レベル1」などと冷たくダメ出しをしました。

授業での文法の練習は、その文法を使うことが明らかなので、動詞などの形さえ間違えなければどうにか乗り越えられます。しかし、何をどこでどう使うかわからない状況で使えと言われても、習ってきたいろいろなツールのなかからふさわしいものを選んで使うのは、学生にとっては厳しいかもしれません。

使って間違えて笑われて悔しい思いをして…。学校はそういう場です。学校にいる間に一生分の間違いをし尽くして、その代わり学校を出たら絶対に間違えないようにしてくれたら、私は喜んで添削もダメだしもします。

何を感じた?

1月14日(土)

昨日超級クラスで書いてもらった卒業文集の下書きを読みました。気取った文章もありましたが、KCPに入学してからの行事の思い出を書いた学生が少なくありませんでした。クラス全体でスピーチコンテストの応援を仕上げていったり、バス旅行やバーベキューで自分の国以外の友達と料理の交換をしたり、運動会というものを初めて経験したり、学生たちにとって、KCPの行事は驚きの連続だったようです。

こういった行事は、異質なものとのふれあいを促進します。異文化の実体験と言ってもいいでしょう。もちろん、教室の中の活動でも、同質な友達に囲まれていたのでは味わえない感覚に浸れます。しかし、ことばのやり取りだけとか抽象概念とかにとどまらず、実際にモノを見たり体を動かしたりすることで、印象が強烈になります。文集に行事の思い出を書いた学生たちは、この印象を素直に受け止めて、自分の殻を打ち破ったのではないでしょうか。

昨日のクラスはみんな黙々と文集を書いていましたが、さっぱり筆が進まない学生がいることもあります。そういう学生は、自分を保とうという意識が強すぎて、思い出を見逃しているのです。大人になりたくないのか、いい子のままでいたいのか、日本の悪習(?)に染まってはいけないと思っているのか、変わることを恐れているという面も感じられます。

留学とは、表面的には学問をするために外に出ることですが、学問とは違った次元において頭脳や肉体や精神を刺激することも忘れてはいけません。そういった刺激を受けたと文集に書ける学生たちは、KCPで日本語とともに留学の本質も学んだと思います。ここでえたことを、進学先でも大いに発揮して、自分の将来を形作ってもらいたいものです。

書けない話せない

1月7日(土)

教師の新学期の打ち合わせがありました。その中で出てきた話に、まとまったことを話す力と、文章を書く力が弱い学生が増えてきたというものがありました。私にも大いに思い当たる節があります。

一読しただけでは内容がさっぱりわからないという作文は、枚挙に暇がありません。文法の例文は作れても、作文となるとからっきしダメなのです。考えや思いを読み手に伝わるように書くことは、文法の穴埋めや漢字の書き取りとは違う能力が要求されます。国でJLPT対策の塾に通っていたりすると、こういうアンバランスな力の付き方になることがあります。

話すほうも同様で、日本語教師ならどうにか理解できても、普通の日本人には理解してもらえないだろうなという学生がよくいます。発音やイントネーションが悪いというのもありますが、論旨が追えないこともよくあります。一生懸命話してくれるのですが、聞き手は理解できる断片をつなぎ合わせて、想像力をたくましくして、話の趣旨をおぼろげながら思い浮かべているに過ぎません。

こういった学生は、文と文の接続がうまくできません。そして、自分の頭に浮かんだことを加工せずにそのまま書いたり話したりしようとします。だから、作文を読んでいると、あたかもその学生に話しかけられているかのような錯覚に捕らわれてしまいます。相手が同じ思考回路を持っていれば理解してもらえるかもしれませんが、そんなことはほとんどありません。思考回路間の橋渡しをするのが接続表現なのですが、それがないとなると、読み手や聞き手は理解の糸口も手がかりも見つけられなくなります。

何より問題なのは、話せなかったり書けなかったりしても、本人がそれを重大な問題だとは感じていないということです。研究計画書や志望理由書を書いたり面接練習をしたりする時に及んで初めて、自分の能力の欠如に気づくのです。そして、何度か痛い目にあって鍛えられて、どうにか進学にこぎつけるというわけです。

そういうことにならないように、初級や中級の作文でみっちり鍛えようとするのですが、教師の気持ちは学生にはなかなか伝わりません。話すことや書くことは、それまでの勉強の集大成だと思います。習った語彙や文法を駆使し、読解のテキストで読んだ文章の構成を思い出し、そういったものを組み合わせて自分の頭や心を表現していくのです。それができなかったら、真にそのレベルを修了したとは言えないと思います。

推理は人なり

12月13日(火)

選択授業の「小説を読む」の時間に、ミステリを読ませ、犯人探しをさせました。犯人がわかる部分を切り取った課題の小説を与えると、学生たちは水を打ったように静かになり、真剣に推理力を働かせている様子でした。推理がまとまった学生は原稿用紙に向かい、自分の推理を書き表し始めました。

時間が来て、学生たちから原稿用紙を受け取り、ざっと見てみると、犯行の方法も含めて犯人をピタリと当てた学生も何名かいました。逆に、完全にギブアップという学生も何名か。

Sさんは、文法や語彙の間違いはありますが、作者が提示した材料をすべて使い切り、犯人を見つけ出しました。そこに至るまでの推理も、作者が考えたとおりでした。授業では抜けているところがありそうな感じなのですが、なかなか緻密な頭脳を持っていることがわかりました。

これに対し、Gさんは、ふだんの授業では論理的な考えを披露することが多いのですが、この犯人探しはからっきしダメでした。かろうじて解読可能な、メモというに等しい内容を書きつけた原稿用紙を提出しました。想像力が欠けているはずはないのですが、この手の文章の読み解きは不得手なのでしょうか。

Oさんは、犯人は当てましたが、推理というよりはカンのたまもののようです。Sさんに比べると、論理の荒さが目立ちました。KさんとLさんは、読むのにも推理するのにも飽きてしまったようでした。出てきた原稿用紙も、やる気が感じられないものでした。

文は人なりといいますが、推理の要素が加わると、さらに複雑な様相を示し始めます。来学期も同じ授業を受け持つとしたら、この点を掘り下げてみたいです。

書くのはちょっと‥‥

12月5日(月)

Hさんは、面接のように話して答える問題や、EJUのように記号で答える問題は強いのですが、文で答える問題となると、さっぱり振るいません。読解の筆答問題は言うに及ばず、語彙や文法の書き換え問題や短文作成ですら、四苦八苦したあげく、ほとんど何も書けずに終わってしまうのが常です。

Hさんの話は内容も伴っているし、論理的だし、日本語を使いこなしている感じがします。その話をそのまま文字化すればいいじゃないかと思ってしまうのですが、本人にとってはそれが至難の業なのです。Hさんの場合、話し言葉と書き言葉の間には、容易に越え難い高い壁がそびえ立っているようです。

誰しも、多かれ少なかれ、話し言葉と書き言葉とにはギャップがあるものです。弁が立つ人と筆が立つ人とがいます。口下手だけど達意の文章を書く人もいれば、Hさんのように鋭い舌鋒と鈍い筆鋒をあわせ持つ人もいます。私が見るに、Hさんは文を書くことに対する苦手意識が強すぎるか、自分の文章が評価されることに恐れを抱きすぎているところが感じられます。

志望校は独自試験に筆記試験がないところを選び、面接では好感触を得ているようです。でも、このままでは、たとえ受かって入学したとしても、大学ではレポートをさんざん書かせられるので、進級も覚束ないでしょう。ですから、卒業までわずかな期間ですが、KCPにいるうちに文章を書くことに対する苦手意識を少しでもなくしてもらいたいです。多少手荒なことをしてでも、Hさんに文章を書かせるようにして鍛えることが、Hさんへの真のはなむけになるのではと考えています。

これも日本文化

11月5日(土)

火曜日の選択授業で学生に書かせた作文の採点をしました。作文と言っても、ある小説を読んでその書評を書くというものですから、EJUの記述試験や小論文対策のクラスとはずいぶん毛色が違います。

さて、その書評ですが、つまらないとか平凡だとかという否定的な意見が大半を占めました。そんなどうしようもない小説を読ませたのかと言えば、もちろん違います。ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、学生たちは“夏の甲子園”という要素に気がついていませんから、教材の小説が表している主人公の心の美しさが見えてこなかったのです。

この授業は超級の学生向けで、日本語や日本文化に通じていると自他共に認める学生たちが集まっています。それでも、日本人だったら絶対に見逃すはずのない、必ず何らかの反応を示す“夏の甲子園”をほとんどスルーしてしまっています。私もこの“夏の甲子園”があるからこそ、この小説は光っていると思い、学生たちに読んでその輝きを感じてもらおうと思ったのです。

彼らと同じ年頃の日本人の高校生や大学生は20回近く夏の甲子園を肌で感じてきています。これに対して、このクラスの学生たちが日本で暮らしてきた期間は、長くて2年弱です。夏の甲子園はせいぜい2回。初級で入学した学生は、去年の夏はわけのわからぬうちに過ぎ去ってしまったことでしょう。2年目の今年の夏にしたって、学生たちにとっては夏の甲子園など他人事であり、注意も感心も払わなかったことでしょう。

夏の甲子園は、もはや日本の伝統文化と言ってもいいでしょう。秋でも冬でも、あの熱狂を思い浮かべることは容易にできます。選手1人1人の一挙手一投足に一喜一憂し、感動を覚えたことは誰にでもあるはずです。しかし、学生たちにはその感覚がなかったということなのです。学生たちが気付いていない日本の文化、日本人のメンタリティーだとも言えます。

来週の火曜日に、この作文を返します。そのときにどんなことを伝えようか、明日と明後日で考えます。