Category Archives: 作文

引っ張られる

12月11日(月)

先月募集した読書感想文コンクールの審査をしました。出足が悪く、一時はどうなることかと思いましたが、先月末の締め切り直前に大勢からの提出があり、むしろ読むのが大変になったくらいでした。

先週のうちに原稿を渡され、ひと通り目を通してみました。数名は読書感想文というよりは読んだ本の要約で終わっており、「感想」は書かれずじまいでした。また、書評っぽい作品もありましたが、自分の心の動きをきちんと書き留めた感想文らしい感想文をたくさん読むことができました。

また、字数制限を設けたのですが、多くの学生がそれを上回る分量を書いてくれました。その字数では自分の思いを書ききることはできなかったのでしょう。冗長ではなく、中身が詰まった文章で字数を超えていたのですから、感服しました。まあ、中には自分の世界に入り込んでしまい、こちらからはどうすることもできない学生もいましたが…。

審査委員の先生方それぞれにいいと思った作品を選んでもらいました。優秀作品については、おおむね意見が一致しました。初級なのに原稿用紙4枚も、しかも、読み手の先生にその作品を読んでみたくさせる感想文を書いたAさん、審査員だれもがうまい構成だとほめたBさん、学生の気持ちを代弁しているような書きっぷりのCさん、みんな順当に選ばれました。

読書感想文なんか書かせるのは日本だけかもしれないと不安に思ったりもしましたが、それは杞憂でした。思わず引っ張り込まれてしまうような文章を書いてきた学生が多く、KCPの学生の意外な才能を見た思いがしました。

鋭く

12月7日(木)

「〇〇についてどう思いますか」とクラス全体に聞いたとき反応してくれる学生、指名したときに必ず何か答えてくれる学生は、教師にとってありがたいものです。その学生の答えを軸にして、授業を進めていけます。

Yさんはそんな学生の1人です。頭の回転も速く、うがった物の見方もできます。クラスメートもYさんには一目置いていて、Yさんが話す時はみんな耳を澄まして聞いています。

ところが、小論文となると、Yさんはとたんに歯切れが悪くなります。舌鋒鋭く切り込んでいたのが、筆鋒は鈍ってしまい、毎回焦点のぼやけた文章になってしまいます。Yさんの文章には「~とおもう」「~かもしれない」のような、断定を避ける表現が多すぎるのです。誤解が生じないようにというつもりなのでしょうが、1つのことを述べるのに留保条件が多く、文を読んでもYさんの言わんとしていることが頭にスッと入ってきません。

文だと証拠に残ますから、間違ったことを書かないようにと腕が縮こまっているような気がしてなりません。口から発する言葉では言い切ることができても、文だとそこまでの勇気が湧かないのでしょう。でも、これでは小論文の読み手の心には響きません。

それから、抜け落ちがないようにと、たかだか数百字の文章に何でも盛り込もうとするきらいがあります。すると、課題に対して広く浅く全体をなでるような小論文になり、散漫な印象しか残せません。どれか1つに絞って突っ込んで書いてくれたほうが、読み手からすると議論のしがいがあります。

要するに八方美人過ぎるのです。自分の手で自分の角を矯めて、個性を殺しています。向こう傷を覚悟の上で相手に切り込んでいく気概がほしいです。クラスにいるときの尖ったYさんのほうが、らしさがあふれているんですよ。

万里の波濤

12月2日(土)

毎週火曜日に選択授業の小論文がありますが、火曜日と水曜日は受験講座が目一杯入っており、木金は、今週は面接が入っておりという具合で、読むのが土曜日になってしまいました。

私のクラスは、大学進学希望の学生が主力ですが、大学院進学希望の学生も数名います。この大学院進学組が、結構光る文章を書くんですねえ。4年間長く鍛えられたのは伊達じゃないなと感じさせられます。

どこが違うかというと、大学進学組は自分の視点が課題の中に埋没しがちなのに対して、大学院進学組は課題を俯瞰してもう一回り大きな世界での位置づけを書くことができる点です。読んでみて、採点者の立場を忘れて感心させられたことも、一再ならずあります。大学院進学組は、独自の視点が確立しているのに対して、大学進学組はそこまで至らず、ありきたりの捕らえ方にとどまっていることが多いようです。

大学院進学組が確固たる自分の視座を持つに至ったのは、大学4年間のうちにそういう訓練を受けてきたからではないでしょうか。これは、彼らが国の大学でしっかり勉強してきた証左でもあります。

大学院での研究計画書を作成するには、独自の物の見方が要求されます。同時に、それを日本語で表現できなければ意味がありません。KCP入学以来、もしかすると国にいたときから、この両者を追求してきたのです。また、彼らの年代で年が4つ違うことは、相当大きな成熟度の差をもたらします。それが文章の上に表れていると考えることもできます。

大学進学組も、進学したら日本人の大学1年生に比べると1~2歳、あるいはもっと年上です。しかも、幾多の困難を克服して入学しているのです。今度は、彼らが日本人の同級生に差をつける番です。

無難な線

11月4日(土)

朝からずっと、火曜日の選択授業で学生が書いた小論文を読んでいます。自分の志望する学部学科専攻に関する最近のニュースについての意見を書いてもらいました。超級の学生たちですから、解読不能な文章はありませんが、平凡な内容が多くて疲れてきました。

入試の小論文となると、学生たちは安全運転に走りたくなるのでしょうか。「この問題に関してはAだと思う」とはっきり述べず、「Bの可能性もある」と結論をぼやかしてしまう学生が多いです。こういう八方美人型がもっとも嫌われるのに、敵を作らないようにしているつもりなのでしょう。

また、何かの受け売りっぽい結論も目立ちました。そういう意見に至る過程や理由に独自のものがあれば評価できますが、そこにも何もないとなれば、これまたいかんともしようがありません。

しかし、読んでいくうちに、学生は自由を与えられすぎて何をどう書いていいのかわからず、書きやすそうな話題について議論してみたら、あいまいな結論になったり、どこかで読んだり聞いたりしたことのある意見になってしまったりしたのではないかと思えてきました。でも、自分がこれから学ぼうとしていることについてですよ。常にアンテナを広げて、そこに引っかかってきたことに対して自分なりの考えは持っていてほしいですね。

ことに、学部入試の学生は、思い切ったことを書いてほしいものです。大学院の受験生は専門教育を受けてきていますから、それに基づいたまっとうな回答が求められますが、学部入試は、非常識でさえなければ専門的に見て多少おかしくても、向こう傷と見てもらえるものです。私が読んだ文章には、そういう生きのよさが感じられるものが少なかったです。

来週の火曜日にこれを返して、新しい課題で書かせて、それを添削して…。入試が迫っていますから、私もプレッシャーを感じます。

一喜一憂

10月26日(木)

私のクラスの学生2人が、それぞれ先日受験した大学に合格しました。実力的に受かって当然でしたが、だからといって喜びが減じるわけではありません。改めて合格の知らせを聞くと、思わず顔がほころんでしまいます。

「受かって当然」というのは、あくまで教師目線の話であり、受験した当人は、発表まで気が気でなかったことでしょう。試験は水物とはよく言ったもので、今までに喜ばしい方向の奇跡も、残念な結果の奇跡も、少なからず見てきました。だからこそ、ほっと一息つけるのであり、「よくやった」と言ってやりたくもなるのです。

この2人は、おそらくこの大学に進学するでしょうから、これで受験は打ち止めになると思われます。しかし、この2人以外のクラスの面々は、いまだ無所属新人状態であり、これからが山場です。先月、志望理由書を書くのを手伝ったSさんがゆうべ面接練習を申し込んできたので、明日の授業後にすることにしました。Lさんは来週締め切りの志望理由書を持ってきたので、思いっきりダメ出しをして書き直しを命じました。

受験講座はあと2週間あまりに迫ったEJUに向けて、日々訓練中です。この時期になると、正攻法の解き方だけではなく、とにかく答えをあぶりだすずるいテクニックも教えます(こういう真の実力につながらない怪しい道筋があるので、理系のマークシートは好きになれないのですが…)。

今学期は入試の小論文の授業も担当しています。今週の小論文を半分ぐらい読みました。さすがに超級の学生たちだけあって、文法の間違いは少ないのですが、内容があまり伴っていません。学生たちの世界は狭いなあと思わずにはいられません。

だからこそ、KCP読書週間なのです。

テーブルの上の暦

9月25日(月)

漢字の教科書に「暦(こよみ)」が出てきたので、この「暦」を使った例文を作ってくるようにという宿題を出しました。その中に、「テーブルの上にいつも暦が置いてある」という文がありました。この例文は〇にしますか、×にしますか。

確かに、辞書には「暦」の意味として「カレンダー」も書かれています。学生が辞書で調べて一番ピンと来た意味を選んで例文を作ったら、上述のような例文となっても不思議はありません。でも、テーブルの上においてあるのはカレンダーでしょうね。暦が置いてあるとしたら、お寺か神社か田舎の旧家か商家の文机か座卓か帳場じゃないでしょうか。

暦と言ったら、大安仏滅のような吉凶はもとより、日の出日の入り月齢日食月食のような天文学的データ、各地のサクラの平年開花日のような自然観測、各種記念日などまで載っているようなイメージです。高島易断のあの本ですよ。カレンダーは、上半分に気の利いた写真があり、日付欄には予定が書き込めるような感じがします。暦はめくり、カレンダーは破るといったら、言いすぎでしょうか。

こういうのは、意味というより語感の問題かもしれません。私の語感は上記のようなものですが、違う語感の人がいてもおかしくはありません。暦の意味を広く取る人でも、普通の文脈においては、暦はテーブルの上にはないんじゃないかな。

冒頭の例文を作ってきた学生は、よくできる学生です。文法なんかでは一を聞いて十を知るようなところがあり、ちょっと説明しただけで実に要点を心得た例文を作ります。その学生をもってしても、なおこういう例文を作り出してしまうのです。言葉を教えるのは、本当に難しいものです。

白ご飯

9月12日(火)

ちょっと白ご飯を食べただけなのに体重が1kgも増えてしまった――これは初級のWさんが文法テストの短文作成の問題に書いた答えです。“ちょっと遅刻しただけなのにひどく叱られた”みたいな答えを想定していたのですが、教師の貧困な発想をはるかに超越したすばらしい例文です。「だけなのに」の意味や機能を実によく捕らえていて、5点の問題ですが10点ぐらいあげたい答えです。

Wさんのような気の利いた例文が作れるようになる学生がいる一方で、今までかろうじてボーダーライン上に残っていた学生の明暗が分かれるのもこの時期です。期末テストまであと2週間ほどともなると、各レベルの授業は最後の大きな山場を迎えます。この山を越えられないと、上のレベルには進めません。まさに胸突き八丁です。先学期、私が持ったクラスの学生たちは、みんなこの胸突き八丁を越えて無事進級してくれました。しかし、今学期のクラスは危ないです。Lさん、Nさん、Cさん、Yさんあたりは、今からよほど奮起しないと、来学期もう一度同じレベルということになりかねません。

じゃあ、WさんとLさんたちはいったい何が違うのでしょうか。ひとつは想像力だと思います。Lさんたちも、四択問題だったらどうにか点が取れるんじゃないかと思います。でも、何もヒントがないところで「だけなのに」を使って例文を作れといわれても、「だけなのに」の辞書的意味以上に想像の翼が広がらないのです。

また、生活の単調さが想像力の妨げになっていることも考えられます。今朝は「食べてみたい食べ物」というお題で話をしてもらいましたが、「特にありません」などと言っている学生の作る例文は、面白みに欠けます。せっかく留学しているんだから、多少は刺激を求めようよと言ってやりたいです。刺激を求めすぎてもらっても困るのですが…。

Lさんたちが期末テストで逆転勝ちを収めることを祈ってやみません。

読ませられる

7月12日(水)

先学期は初級クラスの担当でしたが、今学期は超級クラスにも入ることになりました。そして、今学期はスピーチコンテストがあり、今日は超級クラスの学生にその原稿を書いてもらいました。

なにせ、このところ超級の学生の文章を読んでいませんでしたから、ちょっと調子が狂ってしまいました。まず、文章がしっかりしていることに驚かされました。もちろん、文法や語彙のミスはありますが、でも、初級の学生のように、文字は日本語だけど文は日本語ではないという作文はありませんでした。たくさん赤を入れた原稿もありましたが、どうにも直しようがない、いくら考えても意味不明という“名作”はありませんでした。

それから、原稿に書ける意欲も立派なものでした。1時間あれば書けるだろうと思っていましたが、授業時間内に書き終えた学生はクラスの半分もいませんでした。ところが、授業後、図書室かどこかで書いてきた学生が続々と提出してきました。一番遅い学生が出してきたのは、まさに日が暮れるころでしたから、5時間ぐらい頭を悩ませていた計算になります。時間をかければいいという問題ではありませんが、それだけ考え続け、彼らにとっては外国語である日本語でその考えを著した努力には、素直に頭を下げたいです。

そして、社会派の内容が独自の視点で書かれている原稿が多く、これまた立派なものです。さすが超級と感心させられました。この原稿の中から1つだけを選ぶのは至難の業です。でも、スピーチは原稿だけで決まるものではありません。その考えをいかに訴え、そして聴衆の心をいかに捕らえるか、これこそがスピーチの醍醐味です。

クラス予選は、激戦になりそうです。

要注意人物

6月23日(金)

昨日の期末テストの作文の採点をしました。将来の自分について書いてもらいましたが、読み応えのある文章とそうでないのとの差がかなりありました。ある先生は、学生の夢のあるなしが如実に現れたとおっしゃっていましたが、確かにそうだと思いました。

私のような年寄りはともかく、学生たちの年代なら誰でも将来の夢を持っているはずです。夢があるからこそ、わざわざ日本という外国で勉強しようとしているのだと思います。しかし、その夢がどれだけ具体的か、夢に向かっての道のりがどれだけ明確かは、それぞれの学生によって違っています。具体的な夢の実現のためには何をすればいいか見えている学生にとっては、昨日の作文は難しい課題ではなかったと思います。それに対して、漠然とした夢しか描けていない学生にとっては、非常に書きにくかったでしょう。

「お金持ちになりたいです」などという話は初級の入口の学生でも書けます。「将来のためにもっと頑張ります」「一生懸命勉強していい大学に入りたいです」だけじゃ、面白くも何ともありません。こんな程度の学生は、これから数か月後に待ち受けている大学や大学院の面接試験で苦労することでしょう。図らずして、進路指導をしていく上での要注意人物が浮かび上がりました。

Gさんはその要注意人物の1人です。決して頭が悪いわけではありませんが、作文を読む限り、進学までに大きな壁がありそうです。来学期は、おそらく、私のクラスにはならないでしょうから、新しい先生に引き継がねばなりません。そうです。私たちの頭の中では、もう新学期が始まっているのです。

大丈夫は大丈夫じゃない

6月19日(月)

瞬間、私は目を開けた。そうだ。これは全部夢だったのだ。もったいない気持ちだが大丈夫だ。

先週の作文の時間は、創作的な文章を書かせました。Mさんの作品は後半に入るまで非常にテンポよく進んで、思わず引き込まれました。最後が「夢」というのもベタな終わり方ですが、私はそれ以上に「大丈夫」に引っかかりました。この「大丈夫」が気の利いた言葉だったら、ベタな終わり方を補うこともできたはずです。しかし、最後の最後で「大丈夫」という安易な言葉を選んでしまったため、なんともやりきれない、もって行き場のない中途半端さが残る結末となってしまいました。

このように、安易な言葉を使うと安易な結論となり、文章全体を安っぽくします。「いい」とか「大丈夫」とかはその典型です。話す時でもこういう言葉を多用されると、何だか雑な感じがしてきて、話している人自体の人格を疑いたくすらなります。

そういう意味で、私は、中級以上では、自分のクラスの学生には「いい」とか「大丈夫」のような、便利すぎる言葉気安く使うなと言っています。こういう言葉は意味が広いですから、なんとなくプラスの意味だということを示すのには適していますが、ピンポイントで鋭く描写するには向きません。

ところが、町を歩くと「大丈夫」が氾濫しています。街まで出ずとも、学校の中も「大丈夫」だらけです。語彙が乏しい初級の学生との意思疎通においては、「大丈夫」は有力な武器です。サバイバルジャパニーズとしての「大丈夫」まで否定するつもりはありません。しかし、そうじゃない場面においてまでも多用するのはいかがなものかと思います。私は「大丈夫」以外に表す言葉がないかどうかよく考えて(聞き手の日本語力も勘案して)、どうしてもという場合以外、「大丈夫」は使わないようにしています。

Mさんは次の学期は中級に進級するでしょう。中級の教室で会ったときにこのような文章を出してきたら、遠慮なくガバッと減点してやります。