Category Archives: 教師

復活なるか

12月6日(月)

文法のテストの日でした。ですから、朝、教室でオンライン授業のセッティングをしていると、教室に入ってきた学生は挨拶もそこそこに、教科書を開いてテスト範囲の勉強内容を確認していました。

テストそのものは何事もなく終わりましたが、文法テストの日の大仕事は、その採点です。漢字のテストはほぼ○×で採点できますが、文法のテストはそうはいきません。助詞を入れる問題や動詞の形を変える問題は〇×でもいいでしょう。しかし、例文を書かせる問題は、どこまでを許容とし、どんなミスを何点減点するかに悩まされます。

採点の初めの頃は、格調高くいこうと思っていますから、遠慮なく×をつけます。一読して文意が理解できなかったら、ばっさり切り捨てます。しかし、そうしていると、×の学生ばかりになってきます。すると、だんだん気弱になってきて、“よく考えればこういう場合もあるかな”と思うようになります。許容範囲が少しずつ広がります。3点減点の間違いが2点減点になります。マイナス1としていた答えが〇になります。いつの間にか、ずぶずぶの採点基準になってしまいます。採点済みの答案用紙を見直して、最後の頃の〇×に合わせると、最初の数枚はかなり点数が上がることもあります。私はこれを、密かに“復活折衝”と呼んでいます。

でも、学生の点が低いのは、学生の勉強不足がその主因であることは確かですが、一部は我々教師にも原因があります。説明が明確でなかったとか、練習が足りなかったとか、授業の進め方に何か欠陥があったからこそ、点が伸びなかったのです。そこは素直に反省して、テストを返却するときにフィードバックします。

学生たちの答案は、明日の朝、もう一度読み返します。そこで復活折衝をします。

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三線の音

11月18日(木)

授業の休み時間に職員室に下りると、ちょうどO先生がいらっしゃったところでした。わずかな時間しかありませんでしたから、軽く会釈して教室に戻りました。O先生はつい先日まで、数か月沖縄にいました。授業が終わってから、その話をたっぷり聞かせてもらいました。

沖縄と言っても、O先生がいたのは、本島ではなく、西表島でした。沖縄本島でも十分に東京とは違う空気を吸えますが、西表島ともなると、完全に文化の違いを感じるそうです。東京から直線距離で2000キロ、本島からでも500キロ近くあります。気候風土が大幅に違いますから、そこから紡ぎ出される文化も違って当然です。

マングローブや海に沈む夕日は、もう見飽きたと言っていました。街灯がないため、満月の明るさが存分に感じられるそうです。月明かりだけを頼りに歩くって、小説の中でしか知りません。前世紀末、まだこの仕事を始める前、中国の砂漠の端っこで満点の星を見上げましたが、それとはまたひと味違うのでしょうね。

O先生は持ち前のコミュ力を生かして、島の人と自然と社会から多くのことを吸収しました。島は人口が少ないため誰もが顔見知りなこと、よそ者のO先生にも気安く声をかけてくること、島外から運ばれるものは非常に高いこと、イリオモテヤマネコがヒトを含めた生態系の頂点に立っていることなど、興味深い話をたくさんしてくださいました。そして、島で覚えた三線を披露してくれました。「まだまだ」とのことでしたが、素人の私は、たっぷり沖縄情緒に浸れました。

話を聞いているうちに、うらやましくなりました。私は、旅行者として西表島を訪れることはあるかもしれませんが、O先生のように長期間滞在してこんなにも多くの得難い経験を手にすることはないでしょう。年齢とバイタリティーの差は、いかんともしがたいものがあります。せめて来年の夏休みこそは、3年ぶりに有意義に過ごしたいものです。これも感染状況次第ですが…。

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観察眼

11月16日(火)

中間テスト。いつものレベルより1つ上のレベルの試験監督に入りました。名簿をざっと見渡すと、半分ぐらいの学生が1月期にちょっとだけ関わっています。3名が奨学金の面接で顔を合わせ、4名が受験講座で私の授業を受けています。その他、職員室で何かと話題になる有名人が何名かいました。

“こいつが出席不良でよく名前が挙がっているAか”“出願の時にひと悶着あったBって、わりとおとなしそうな顔をしてるな”“Cって、もしかすると、うちのクラスのDの恋人?”“東大を目指してるEって…なぁんだ、読解の問題、できてないじゃない”

学生を見て回る以外することがないというか、それが唯一最大の仕事である試験監督中は、学生観察が楽しみです。そんなわけで、教室内をうろうろしていたら、Fさんに呼び止められました。「先生、すみません。答えが書ききれないときは下に書いてもいいですか」と、ひそひそ声で、丁寧な物言いで聞いてきました。1月期のFさんはぶっきらぼうな口のきき方しかできず、内心しょっちゅうカチンと来ていました。それを思うと、ずいぶん成長したなと感じさせられました。

Gさんが試験の最中にトイレに行きたいと言い出しました。顔色が悪そうだったので、特別に認めました。しかし、何分経っても帰ってこず、ついに試験終了時刻となりました。そして次の科目の試験が始まるとき、ワクチンの副反応で具合が悪いと言いますから、早退を認めました。

試験終了後、担任のH先生が言うには、「ああ、I大学の発表を見ていたんですよ。私のところに何も報告がないということは、落ちたんですね。副反応じゃなくてショックで帰ったんですよ」。どうやら、だまされたようです。

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11月12日(金)

午前中、職員室で仕事をしていたら、宅配便屋さんが大きな段ボール箱の荷物を運んできました。「あっ」と言って、F先生が受け取りました。F先生のお父様からの、毎年この時期に届く荷物でした。「お世話になっている先生方へ」ということで、地元・長野のりんごを送ってくださるのです。

箱を開けると、ほのかな香りを放ちながら、真っ赤なりんごが並んでいました。今年はいつもの年より熟れているようです。去年あたりはうちへ持って帰ってから1週間ぐらい置いたような記憶がありますが、今年のりんごは今晩食べてもよさそうです。

私にりんごを見る目がないのか、単に安物だからいけないのか、毎年F先生のご実家からのに勝るりんごは食べていません。適度な歯ごたえと独特な舌触りと甘さだけではない味覚と、幾重にも楽しめます。年に1回のお祭りみたいなものですね。

私は東京生まれなので、Fさんにとってのりんごのような物がありません。東京バナナや雷おこしじゃ季節感が漂いませんしね。大昔なら浅草海苔という手もあったかもしれません。そういう意味で、誰もが納得する絶対の切り札を持っているのはうらやましいです。

そういう長野も油断はできません。温暖化が進むと、長野はりんごではなくみかんの産地になってしまうのだそうです。長野県は教育県ですから、いざとなったら栽培法の研究を進め、みかんを現在のりんごの地位にしてしまうことでしょう。愛媛みかんにも勝ってしまうかもしれません。でも、やっぱり、「長野みかん」ではなく「長野りんご」を食べ続けたいです。

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作文はきれいな字で

11月10日(水)

中級の作文ともなると、日本語の文章が書ければいいという問題ではありません。主張が明確かどうかが採点のポイントとなります。ここで言っている主張とは、“消費税増税に賛成か反対か”といった賛否を問うものばかりでなく、“来年挑戦してみたいこと”などという事柄を答える場合もあります。いずれにしても、テーマに対してきちんとした結論を出しているかが重要です。主張が明確な文章は構成がしっかりしていますから、書かせるときにその点を強調し、採点もそこを見ます。

同じ説明を聞いたはずなのに、提出された作文にはかなりの差が生じます。訴えたいことがすっと頭に入ってくる作文もあれば、何回読んでも“何が言いたいの?”と聞き返したくなる作文もあります。いや、作文などと言ってはいけません。日本語の文字の羅列です。文法や語彙の誤用が主張をぼやかすことはよくありますが、慣れてくるとそういうファクターを取り除いて、主張の明確さを見ることができるようになります。

ところが、私の採点には1つの傾向があります。それは、字のきれいな作文の点数が高いことです。見た目で作文を評価しているわけではありませんが、字がきれいだと一読して主張が理解できた気になってしまうようです。逆に、字が汚いと嫌悪感が先立ってしまいます。原稿用紙から無言の圧力を感じて心を閉ざしてしまい、主張を感じ取りにくくなっているのかもしれません。

これでは公平な評価とは言えません。そうはいっても、きれいな字を見て和んでしまう私の心を抑えることは、容易ではありません。入試の小論文を採点する先生方はどうなのでしょう。私ほどではないにしても、多少はそういう面があるのでしょうか。だからAIに採点を任せるという動きにつながっているんじゃないかな。

いまさら手遅れかもしれませんが、学生にはそんなことも伝えたいです。

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カッコつけない

10月26日(火)

私が火曜と金曜に受け持っているクラスに、今週から大学の日本語学科の実習生が2名入っています。授業を見てもらうのですが、果たして私の授業の進め方が役に立つのやら。

大学や養成講座の方に授業をお見せするのは今までに何回もあり、特別なことではありません。初めの頃は多少なりともお手本にある授業をしようなどと思ってもいましたが、今はそんなことは全く意識しません。反面教師も教師のうちと、開き直っています。

でも、見てもらいたい、気付いてほしいポイントはあります。“ここだよ”と心の中で叫びながら授業をすることもまれではありません。実習生の書いた実習ノートにこちらの伝えたかった思いが記されていると、思わずニンマリしてしまいます。それについて何も書かれていないと少し寂しくなりますが、だからと言ってその方の評価を落とすわけでもありません。教師だって十人十色です。私のカラーに近い人もいれば、対照的な人もいます。

さて、今回の実習生は大学生。若いうえに、理論を学んだばかりですから、教科書をいかに教え切るかが発想の中心ではないでしょうか。私のスタイルは、特に中級以上では、教科書をガイドブック代わりにそぞろ歩くように授業を進めていきます。授業が終わった時に帳尻が合っていればいいという発想です。実習ノートを見ると、戸惑っていた様子が感じられました。学生に文法の例文を読ませた後に、突然発音指導が始まっちゃうんだもんね。漢字の時間に「ワシントン条約って何?」とか聞いちゃうんだもんね。

実習は来週まで続きます。今度、このクラスに入るときは、この2名、どのくらい成長しているでしょうか。目の付け所を観察したいです。

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変心

10月21日(木)

「はい、じゃあ、15分休みましょう」と休憩を宣言するや否や、Sさんがやって来て、「先生、昨日の漢字テスト、今受けてもいいですか」と、追試を受けさせてくれと言うではありませんか。他の学生なら驚くほどのことではありませんが、Sさんが自ら進んでテストを受けようとするなんて、にわかに信じがたいことでした。

先学期のSさんは、興味のあることしかしようとしませんでした。その興味とは進学であり、進学に直接かかわりのあること、例えばEJUの勉強以外は、無視を決め込んでいたのです。平常テストは、まともに勉強したとは思えないような成績でした。オンライン授業中は、出席を取るとき以外、指名してもろくな反応が返ってきませんでした。おそらく授業とは無関係な問題集か何かに取り組んでいたのでしょう。ブレイクアウトセッションには、参加したためしがありませんでした。授業で扱うような話題について話す気などなく、グループ内に存在しているだけというありさまでした。

それが、先学期は一言もしゃべらなかった自己紹介で、ホワイトボードの前に立って1分ぐらい自分を語っていました。指名されても、的外れな答えをすることがなくなりました。ペアの会話練習では、ちゃんと相手の目を見て話していました。そして、“テストを受けてもいいですか”です。確かに、テストの日に欠席したのは褒められたことではありませんが、自分でその後始末をしようとしたのですから、大躍進です。

何がSさんをそうさせたのかよくわかりませんが、この前向きな精神状態をキープしたまま受験に臨んでもらいたいです。教師としては、うれしいやら、どこでこけるか気が気ではないやら、おっかなびっくり対処しています。この前向きな精神状態のままで、合格まで突っ走ってほしいと切に願っています。

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彼女は悲しげな表情で去っていく彼に手を振った

10月20日(水)

文法の例文に、“彼女は悲しげな表情で、去っていく彼に手を振った”というのがありました。学生にコーラスさせた後、「悲しげな表情の人は誰ですか」と聞きました。「彼女」という声が多かったですが、「彼」と言った学生もある程度いました。

最初、「かれぇ? なーに考えてんだ、こら!」と反応してしまいましたが、よく考えたらそれもあり得るのです。教科書には“彼女は悲しげな表情で、去っていく彼に手を振った”と書かれていますが、読点の位置をちょっとずらして、“彼女は、悲しげな表情で去っていく彼に手を振った”としたらどうでしょう。悲しい人は彼になってしまいます。

文字にすれば両者の違いは明らかですが、音声だけだったらどちらにも受け取れるのです。もちろん、授業の場合は教科書がありますから、この例文からは悲しげなのは彼女だという結論にしかなりません。しかし、教科書を読まない、ないしは読点に頓着しない学生が、彼は悲しげだと受け取ったとしても、不思議ではありません。

学生と教師の間に誤解が生じることがよくあります。多くの場合が、学生の理解力不足、教師の説明力不足に起因しますが、こんな読点の位置の食い違いが原因となっているケースもあるのではないでしょうか。話し言葉の場合、話し手は自身の頭の中で組み立てた文を音声として発信し、聞き手は受信した音声を自身の頭の中で再構築し理解します。教師は“彼女は悲しげな表情で、去っていく彼に手を振った”のつもりで言っても、学生は“彼女は、悲しげな表情で去っていく彼に手を振った”と受け取ることだって、十分にあり得ます。その差は、ほんのちょっとした間の置き方の違いにすぎないのですから。しかし、教師は学生の理解力不足を信じて疑いません。

音声言語は証拠が残りませんから検証のしようがありませんが、こういう行き違いがなかったか、胸に手を当てた次第です。

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手応え

9月28日(火)

Dさんは理科系の難関大学を目指しています。先学期から受験講座でも勉強しています。しかし、教える立場からすると、あまり手ごたえが感じられませんでした。ZOOMを通しての表情は乏しく、わかっているのかいないのか、難しすぎるのか易しすぎるのか、どうもつかめません。

そのDさん、今学期の受験講座の最終日にして、やっと質問してきました。その内容も的を射ており、単なる聞き逃しの確認ではありませんでした。「けっこうやるじゃない」と思いました。目指している大学が大学ですからこれで安心するわけにはいきませんが、手の施しようがないわけでもなさそうです。

Dさんの例に限らず、教師は発せられた質問から、その学生やクラスなどの力を推し測ります。理解が進んでいれば質問のレベルが上がります。これは難しいだろうからと触れるのを控えていた事柄について聞かれたり、こちらの話を自分で咀嚼した結果を投げかけてきたり、といった質問が発せられると、思わずうれしくなります。ぶつかりげいこで胸を出すような気持ちです。

残念なのは、オンライン授業だとそういう場面が少ないことです。学生の質問を起点に授業が盛り上がったということが、今学期どれほどあったでしょうか。マイクのオンオフなど、発言のタイミングを失わせる要素が多々あります。大学の先生方はどうやってそれを乗り越えているのかなあと思うこともあります。

緊急事態宣言がようやく解除されます。「まん延防止」にもならないそうで、来学期は対面授業ができそうです。Dさんも、他の学生も、バリバリ鍛えてあげないと、今シーズンの受験に間に合わなくなってしまいます。

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鉄槌

9月7日(火)

火曜日のクラスは読解があります。毎週、テキストを読んで、予習問題をやってくることになっています。テキストを読んでということは、当然、漢字の読み方や意味は調べてくるということです。学生たちがここまでやってきてくれたら、教師は非常に楽です。それと同時に、テキストの内容を起点に、発展的な学習にも踏み込めます。

ところが、現実はそう甘くはありません。きちんと予習してくる学生は半数ほどでしょうか。残りは本文を音読させようとしても、満足に読めません。それどころか、「Aさん、次の段落を読んでください」と指示を出しても、その「次の段落」がどこなのかわからないという例が後を絶ちません。教室での対面授業なら、隣の学生にこっそり教えてもらうこともできましょうが、オンライン授業ではそうはいきません。自分の部屋で何か違うことに精を出していた学生は、話がどこまで進んでいるか、全くついてこられません。

指示詞の「それ」は直前の内容を指すという鉄則通りの問いを出しても、意味不明の答えが返ってくることがしばしばです。たとえ授業時間になってから初めて読んだにしたって、ちゃんと授業を聞いていれば、ストーリーを追うことができていれば容易に答えられる問いかけに対しても、あさっての方を向いた答えを平気で言ってしまいます。指名されて何も返事をしないと、私は「Bさん、いませんね」と言って欠席にしてしまいますから、とりあえず声は上げます。しかし、授業に集中していなかったのですから、答えられるわけがありません。

「来週から、予習してきた学生だけに授業をします。予習してこなくて読解がわからなくて期末テストで点が取れなくて来学期進級できなくても、それは私のせいじゃありません。予習しなかった、授業を聞いていなかった自分自身の責任です」と、宣言してしまいました。こんな授業では、まじめに予習してきている学生がかわいそうです。勉強する意欲のある学生を大事にする授業をしていきます。

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