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文法脳

8月1日(土)

毎週土曜日は日本語教師養成講座の授業があります。先週から文法に入りました。日本語学習者に教える文法体系は、日本人が小学校から高校までに勉強する国文法の体系と若干違いますから、頭の中の配線を組み替えていく必要があります。また、そういった文法が、「みんなの日本語」など学習者の使う教科書にどのように反映されているかも見ていきます。座学をダイレクトに教壇に生かそうというわけです。

私は実際の文法のしくみと理論を比較したり、語句の意味を分析したりすることが好きですから、目にしたり耳にしたりした言葉や文章のかけらを起点に、文法の沼にはまり込んでいくことがあります。そして、そういうねちこち考えたことを誰かに語りたくなることがあります。日々の授業で学生相手にそんなことばかりしていたら、たちまちそっぽを向かれてしまうでしょうから、ぐっとこらえています。養成講座だと、そんな“成果”を少しは披露できます。いわば、養成の授業は私にとっては学会発表みたいなところがあるのです。

受講生のOさんは、そんな私の研究発表(?)に耳をじっくり傾けてくれます。また、次第に日本語文法を考える思考回路が築かれつつあり、こちらからの問いかけに的を射た答えが返ってくるようになってきました。急速に力をつけてきたような気がします。この勢いで伸びていけば、きっと修了までに日本語文法脳が確立されることでしょう。

理屈を語るばかりでは日本語教師は務まりませんから、その理論で自分が学習者に伝えるべき日本語を見つめ直し、学習者に伝わる形に噛み砕くことが必要です。伝わる形に噛み砕くほうは養成講座後半の演習コースで学んでいきます。まだ先は長く、苦しい思いもするでしょうが、初志を貫徹してもらいたいと思っています。また、貫徹できる力を持っていると信じています。

誰の志望理由書?

7月21日(火)

W大学の出願締め切りが迫り、出願予定者は大忙しです。いや、出願予定者を受け持つ教師のほうが学生本人以上に忙しいかもしれません。学生は自分のだけ考えればいいですが、教師は自分が受け持っている学生全員の面倒を見なければなりませんから。国の高校から取り寄せる書類や機械的に埋めていけばいい書類は、学生自身でもどうにかなりますが(というか、学生自身以外でどうにかできる人はいません)、志望理由書だけはそう簡単にはいきません。

YさんもWさんも私を忙しくさせている学生たちです。それぞれ書き上げては教師のチェックを受けて、ということになりますが、それが集中するこちらは結構な仕事量になります。YさんもWさんも、いまひとつ文章に切れがありません。それぞれ自分独自の決めぜりふがないんですね。これは誰でも書けるよねっていうことか、これと志望学科がうまくつながればすごいんだけどっていう内容とか、どうも詰めが甘いのです。

多くの日本語学校の先生方が、私と同じようにW大学に出願する学生の指導をしておいででしょう。教師の力に大差がないとすれば、合否の分かれ目は、結局は志願者本人実力に負うところが大きいというわけです。私が想像力をたくましくすれば、あるいは不合格になるはずの学生を合格させることもできるかもしれません。火のないところに煙を立てるがごとく、単に憧れでW大学と言っている学生の志望理由をでっち上げることだってできます。しかし、そうまでしてW大学に入ることが学生自身の幸せにつながるとは思えません。

わたしたちは進学のお手伝いはしますが、主体的に動くのはあくまで志願者本人です。志望理由のタネを持ってくれば、それをまいて肥料をやって、芽を出し葉を出すぐらいまではどうにかしてあげられるかもしれませんが、花を咲かせるのは学生自身の手によってです。それ以上手助けしたら、誰が大学に入るかわからなくなってしまうではありませんか。

W大学が第一陣で、この後いろいろな大学の出願が続きます。戦いは始まったばかりです。

例文

7月17日(金)

最上級クラスで文法の例文を書かせました。もちろん、ミスがないわけではありませんが、いくら考えても意味不明の文はありませんでした。初級だと複雑なことは書いていないはずなのに、何のことやら見当もつかないという文によく出会います。それに比べると、最上級まで上り詰めただけあって、語学のセンスを感じさせられます。

このレベルにまでなると、勉強が好きか日本語に対する勘が鋭いか生まれつき頭脳が優秀かのどれかでしょう。要するに、曲がりなりにも努力が続けられるか頭が切れるかだと思います。そのどちらでもない人たちは、ふるい落とされてきたと考えていいでしょう。選りすぐりの学生たちですから、文法の例文ぐらいどうっていうことないのでしょう。

このクラスは、それにとどまらず、語彙も漢字もよく知っています。N先生やK先生の話によると、文章もきちんと読みこなせているようです。こう書くとすばらしい学生の集まりのように見えますが、そのすばらしさが全国レベルかというと、未知数のところがあります。KCPの中でどんなに光っていても、他流試合に勝てなかったら学生たち自身の夢を叶えることはできません。他流試合を物にするには、したたかさも必要です。そこがどうなのか、現時点では読みきれません。

授業で志望理由書の書き方もしました。W大学への出願で苦労した人たちを除いて、まだピンと来ていないような顔をしていました。これから継続的に鍛えていかねばなりません。鍛えていけば必ず輝く素材ですから、慎重に、でも、大胆に、力を伸ばしていきたいです。

ウザイ役どころ

7月15日(水)

授業が始まり、出席を取って、連絡事項を伝え、宿題を返して、そのフィードバックをしたところで、Kさんが「病気ですから帰ります」と言い残して、早退してしまいました。事務の担当者の話によると、Kさんは来日してからひと月もたっていないのに、気ままな振る舞いが目立つとのことです。

Dさんは宿題をしてきません。漢字の宿題も文法の宿題も、未提出だったり、未完成のまま提出したりと、のらりくらりと宿題から逃げ出そうとしています。月曜日の漢字のテストも、勉強した形跡が見られず、クラスの最低点で不合格。来週水曜の文法テストが思いやられます。

この2人はどうも物見遊山的にKCPに通っているようです。サブカルか何かで日本に興味を持ち、それが高じて日本に留学したのでしょう。大学進学などというしっかりした目標があるわけでもなく、ただ単に日本での生活を楽しんでいることが、行動の端々にうかがえます。

確かに、自分の勉強した言葉が通じる外国を自由に歩けたら、自分の興味を持った文化にどっぷり漬かって暮らせたら、どんなに楽しいだろうと思います。KさんやDさんはそういう生活を送っているのでしょう。でも、貧乏性の私には、学校の授業料を捨てるようなもったいない行為にも見えます。

10年後、20年後、あるいは30年後のKさんやDさんは、自分の人生における2015年日本留学をどう位置づけるでしょうか。教えている側としては、単なる青春の思い出としてほしくはありません。たとえ短い期間であれ、実質的な成果を手にし、自分の人格の太い骨を形作った時期だったと思えるような留学にしてほしいのです。

古いと言われても私はそう考えます。そう考えて授業していきますから、KさんやDさんのような学生にするとウザイ感じがするかもしれません。そんなウザイ人間とも付き合うのが人生だとわかってもらうのが、私の役どころなのでしょうか。

手直し

7月4日(土)

今学期は超級クラスを担当しそうなので、教材集めをしています。といっても、新しく見つけ出すのではなく、以前使った教材を再利用しようと考えています。このレベルともなると、外国人向けの市販の教科書をそのまま使うわけにはいきません。それでは易しすぎるし授業が単調になってしまうし、こちらで補助教材を用意するなど、かなり手を加えなければなりません。それをやるのはかなり大変なので、昔の教材のリバイバルとなるわけです。

昔の教材を使うとなると、教材の鮮度が問題となります。3.11より前の教材は、現在では的外れなことになっていることもありますから、ことに要注意です。文法の例文も漢字のテスト問題も、手直しの必要なことがあります。そのときアップ・トゥー・デートな話題であるほど、その時期が過ぎると急に古臭くなってしまうものです。

そういう目で見ていくと、そのまま使える教材のなんと少ないことでしょう。ゼロから作るよりはましですが、やっぱりかなりの労力がかかります。また、教材を作ってから今までの間に、学生の志向や嗜好や思考が変わったという面も見逃せません。進学志向が強まり、多かれ少なかれサブカルを嗜好し、個人主義的な思考法が広まったと思います。そんなことも反映する必要があります。

それから、受験シーズンに入っていきますから、志望理由書の書き方やら面接の受け方やら大学の独自試験対策やらもしていかなければなりません。以前の資料を見ると、われながら甘いなと思うところもありますから、やっぱり何かすることになるでしょう。

来週は新入生の受け入れと養成講座の授業のかたわら、こんなことをしていきます。

爆弾作り

7月2日(木)

来週の木曜日は始業日なので、先生方の打ち合わせがありました。スピーチコンテストの概要や、進学に関する情報などをお伝えし、新学期への準備を進めました。K先生がスピーチの指導方法について詳しく講義してくださり、また、今までよりぐっとすてきな今年の会場の写真を見せられたりして、ああ今年も夏学期が始まるんだなという気分になってきました。

私は明日も来週も養成講座の授業があるので、そっちに頭を使っていると、ついつい新学期の準備が疎かになってしまいます。別に現実逃避しているわけではありませんが、受講生には全力で立ち向かいたいですから、授業の下調べに力こぶが入るのです。まあ、語彙論とか意味論とか形態論とか日本語の歴史とか、授業内容が私の好きな分野ですから、なおさらそっちのほうに目が向いてしまうのでしょう。

それでも、新学期に私が担当することになりそうなクラスの授業構想を立て始めています。教材集め、教材作りにも取りかかっています。こちらもやり始めると結構熱中してしまうもので、この教材は今学期は難しいかもしれないけど、学生たちが力をつけた来学期ならこなせるかななんて、3か月も先のことまで心配しちゃったりしています。仕事のしかたが散漫でいけませんね。

今度のクラスは進学希望の学生が大半ですが、進学するのに役に立つ日本語だけではなく、進学してから勉強しておいてよかったと思ってもらえるような日本語を教えていきたいと思っています。1年後か2年後に爆発するような時限爆弾を仕込んでいるような感じです。そう考えると、教材作りがおもしろくなります。

始まりました

6月22日(月)

全校的には期末テストでしたが、私にとっては日本語教師養成講座スタートの日でした。初回は日本語教育概論ということで、これから教壇実習に至るまでの舞台となるKCPという学校のしくみや、そもそも人に物を教えるとはどういうことかとか、日本語教師とはどんな仕事をするのかなどについて話しました。話しましたというよりは、半分は考えてもらいました。考えてもらうとは、受身ではなく主体的に授業に参加してもらうということです。

どこの日本語学校でもそうだと思いますが、日本語の授業は教師の説明を一方的に聞くだけではなく、学習者自身が口や手や体を動かしながら身に付けていくものです。ですから、養成講座のうちから授業とは自分が動くんだ、教師は学習者を動かすんだっていうことを身をもって感じてもらいたいのです。

明日からはもう少し理論的なことをやっていきますが、「教える」だけの授業はしません。答えの出し方までは教えますが、実際の答えは自分自身で出してもらうという考え方でいきます。日本語教師は、いつどんな形でどんな質問が飛んでくるかわからない仕事です。そういった質問にすぐ対応できるように、今からビシバシ鍛えていきます。

ほんの立ち話

6月16日(火)

先学期、初級のクラスで教えたDさんと久しぶりに話をしました。ほんの立ち話ですが。ずいぶんスムーズに話せるようになって、びっくりと同時に感激もしました。先学期は単語でしか答えられなかったのが、「レベル3の文法は難しすぎるから、レベル4は無理かもしれない」なんて、普通体ながらも複文で答えましたからね。

先学期のDさんは、こちらが日本語で聞いても自分の国の言葉で答えることがよくありました。また、授業中の母語のおしゃべりが目立ち、とてもいい学生とは言えませんでした。今学期、それがどれだけ改善されたかは伝わってきていませんが、実際に話した感じでは、そんなことはほとんどなくなったんじゃないでしょうか。

先学期は、私は担任という立場上、学生を厳しい目で見なければなりませんでした。アラ探しばかりをしていたわけではありませんが、ダメな点をきちんと指摘することが仕事でした。しかし、今学期はそういう関係が全くなく、いわば隣のオジサンみたいな目で、成長を喜んであげられる立場です。だからなおのこと、Dさんの話し方に感激できたんじゃないかと思います。

Dさんのテストの成績は知りませんが、進級できるだけの力はあるんじゃないかなって感じました。1つ上のレベルでも通用しますよ、きっと。まだ完全ではありませんが、思考回路が日本語で回り始めているのだと思います。これが私の手元を離れてからの3か月の成長であり、成果でしょう。もちろん、先学期の私のような目で見ればまた別の結論になるかもしれませんが。

初級で教えていると、こういう喜びがあるんです。教えた学生が「変なガイジン」への道を力強く歩んでいる姿を見ると、うれしくなります。今学期も初級で種をまきましたから、3か月後。半年後が楽しみです。

くっつく?

6月1日(月)

「『歩く』の「止める」と「少ない」はくっつけませんよね」「ええっ、くっつけますよ」「でも、私の見た本にはくっつけないって書いてありましたよ」「漢字の教科書ではくっついてますよ」と、初級のS先生とT先生がやりあっていました。上級のテストだったら、くっついていようがいまいが、上に「止」が、下に「少」が書いてあったら〇だけどなあと思いながら聞いていました。

今学期は初級クラスに入っていて、私も漢字を教えます。はねるとかくっつけるとかいうのを自分なりにチェックしてはいるのですが、学生から細かいところを突っ込まれて苦しくなることもあります。私は、画数が違っていなければいい、読めればいいと思っています。「土」と「士」は違う字ですから上が長いか下が長いかを厳密にチェックしますが、「本」の1画目が多少長かろうと短かろうと気には留めません。「見」と「貝」はきっちり区別しなければなりませんから、脚の部分の曲がり具合は厳しく目を光らせます。しかし、その脚と上の「目」の部分がくっついているかいないかは、どうでもいいと思っています。

ところが、中間テストの採点を見ると、私などどこが間違っているのかわからないのに不正解とされている答えがあります。なんで×なのか学生に聞かれたら、「上級なら〇なんだけどね。初級は字の形をきちんと覚えなければなりませんから、もう一度教科書をよ~く見てください」と言って逃げます。ま、半分は本当のことですからね。

外国人留学生に漢字の基礎をたたき込まなければならないことは疑いのない事実です。中国人には中国語の漢字と日本語の漢字が微妙に違うことをうんと強調しなければなりません。しかし、そういう子細にわたる部分にこだわり過ぎると、漢字に対する苦手意識を持たせてしまうのではないかと思うのです。それが高じて漢字アレルギーになってしまったら、元も子もありません。

言葉はコミュニケーションの道具です。文字であってもそれは変わりません。誤解を生まない範囲であったら、多少字形が不細工であっても、〇なんじゃないでしょうか。私自身がいい加減な漢字を書いているから、自己弁護のためにこんなことが言いたくなるのかな…。

いい学生じゃなくても

5月19日(火)

私のクラスのSさんは、ふだんからどことなく落ち着きがありません。かまってもらいたいというか、じっとしていられないというか、集中できる時間型の学生に比べて短いのです。だから、中間テストの座席を教卓のまん前にしました。試験監督の先生ににらまれていれば、気持ちがテストに向かっている時間が少しは長くなるだろうと思ったからです。

ところが、これが試験監督のK先生に大不評。Sさんがきょろきょろしないようにずっと見張っていなければならず、他の学生に目が届かなかったとのことです。隣に学生がいない教卓の横の席のほうがよかったようです。

KCPには世界中から学生が集まっていますから、考え方も行動様式も性格も特徴も、文字通り多種多様な人々がいます。Sさんは、私の頭の中にある基準、学生とはこうあるべきだという規範からは外れています。私にとってSさんはいい学生とは言いがたいです。しかし、だからといって、Sさんを切り捨ててしまうことはできません。Sさんがこの社会で生きていく上で、どんな形で力になれるかを考えています。

もしかすると、おとなしくテストを受ける人間が標準だという日本社会は、Sさんにとって住みにくい世界かもしれません。でも、Sさんは日本が好きで留学に来てくれたのです。その気持ちには何とかこたえてあげたいと思っています。