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高をくくる

4月11日(月)

私は、コンピューターはなかなか壊れないって信じていますから、わりと度胸よくいろんな操作をします。コンピューターにめちゃめちゃ詳しいわけではありませんから、コンピューターの死命を制するような操作は知りません。自分の入力したデータが消えちゃうぐらいのことは時たまありますが、全体のデータを再起不能にするようなことはありません。コンピューターを物理的に破壊したことなどは、もちろんありません。

というか、どんなことをしたら壊れそうかっていうことは見当がつきますから、そのラインは踏み越さないようにしています。いい意味で高をくくれるのだと思います。ここまでなら冒険できる、たとえ失敗しても損害はこんなもんだろう、そういうことが直感的に見積もれますから、その直感にしたがって、ここまでしたらまずいだろうということを避けています。

カンが働かない人は、プロが予想もしないようなことをしでかしたり、逆に怖がりすぎてごく単純な操作しかしなかったりと、両極端の様相を示します。高がくくれない、言い換えれば危険度を予測できないから、コンピューターに致命的なダメージを与えたり、コンピューターの能力の100分の1も活用しなかったりということになってしまうのです。

今日から新学期で、新しい学生管理・授業管理システムの運用が始まりました。トラブルが全くなかったわけではありませんが、「大過なく」と言っていい初日だったと思います。トラブルに遭った先生にとっては「大過あり」だったでしょうが、皆さん適切に対処してくださったおかげで、全体としては上出来の滑り出しだったんじゃないかと思っています。

初日だから安全運転をしたという面もあるでしょう。慣れてくると悪い方向に高をくくり始めて、どこかで破綻を来たすかもしれません。油断と呼ばれる高のくくり方をしてはいけません。上手に高をくくって、このシステムを120%活用していきたいです。

新システム

4月7日(木)

今学期から、学生の出席管理や成績管理の新しいシステムが稼働します。新システムは日々の授業の出欠から期末テストなどの成績、進路の決定まで、学生のKCPでの生活は何でも記録しておけます。今日は、新学期の打ち合わせを兼ねて、先生方への新システムの説明会を開きました。

システムを熟知しているM先生が実に要領よく説明なさったのですが、予定の時間をオーバーし、それでもまだ先生方の顔には不安げな表情が残っていました。機能が盛りだくさんですから、1回の説明ですべてをマスターするのは難しいです。授業のたびに使って、使いながら覚えていくっていうことになります。使い方が身についたら、裏ワザも開発され、システムの意外な効用が発揮されるようになるでしょう。そうなれば、私たちが学生を見る目も自分の仕事に対する姿勢も、ミクロな部分からマクロな広がりまで、磨きがかかるに違いありません。

というわけで、今は新システムへの移行期ですから、いつもと違った新学期前夜を迎えています。ひたすら新学期につながるデータを入力したり、こっそりシステムの使い方を練習したり、来週になったら失敗や準備不足は許されませんからね。

新システムになれば、受験講座も今よりがっちり管理できるようになります。それは、今よりきめ細かく学生を見守っていくことにもつながります。1人の学生に関する記録が集約されますから、受験講座と日々の授業や生活が有機的横断的につながり、クラスの先生からも、受験講座の講師からも、より的を射た指導ができるようになると考えています。

野良猫が来た

4月6日(水)

朝、太陽が顔をのぞかせてけっこう暖かかったので、今年初めて、学校の玄関のドアを思い切り開け放ちました。その玄関を通って、新入生がレベルテストを受けにどんどん入ってきました。予定より少し早く、テストを始めました。

レベルテストは、私たち教師にとっては新入生との初顔合わせです。どんな学生が入ってくるのか、厳しいチェックの目を入れます。

教室内飲食禁止だと告げ、飲食禁止の表示まで示したにもかかわらず、堂々とコンビニのコーヒーを飲んだKさん、マイナス10点。携帯電話はかばんにしまえと、ジェスチャーも交えて伝えたにもかかわらず、1科目目のテストが終わったら早速使おうとしたLさん、妙にぞんざいな口の利き方も含めて、マイナス20点。試験中に机の上から落ちた消しゴムを拾ってあげたら、きちんと「どうもありがとうございます」とお礼を言ったPさん、プラス15点。わからないことは手を挙げて積極的に質問していたCさん、プラス15点。試験中ずっときょろきょろしていたTさん、後から一人ぼっちで来日したと聞き、情状酌量して、マイナス5点。

こうした第一印象の評価って、わりと当たっちゃうんですね。おととし、レベルテストで私のクラスでチェックの対象だったSさんは、入学後、予想通り悪いほうで目立ちました。この3月の卒業まで、自由気ままな気質は変わらず、私は密かに「猫」と呼んでいました。でも、志望校に向かって突き進む時の姿は実に真摯でひたむきで、Sさんの蔵している底力の強さや能力の高さが感じられました。野良猫のまんまじゃどうにもなりませんが、それを矯めて自分自身も気づかなかった魅力を引き出すことが、私たちの仕事です。留学に来た本人も、送り出した親御さんも、自分(子ども)の新たな一面を探り出してもらえることを期待しているんじゃないのかな。

Kさん、Lさん、Pさん、Cさん、Tさんを、卒業までに私が受け持つかどうかは全くわかりませんが、教室で相まみえた時には、そういう気持ちで接します。

書類整理

3月30日(水)

職員室の席替えがあるため、教職員一同、身の回りの整理整頓に余念がありません。私は席の移動はありませんが、引き出しの中や机の上にたまった書類をずいぶん整理しました。

自分としては書類をため込んでいるつもりはなかったのですが、今は捨てられないとか、後で必要になるかもとか思ってどこかに突っ込んでおいた書類が、賞味期限切れとなって、わんさか見つかりました。一度捨てちゃったらもう復活できませんから、迷ったらキープなのですが、何で取っておいたのかわからないようなので机や引き出しが占領されているようじゃ、社会人失格ですね。

机まわりだけではありません。受け持ったクラスのプリント類も整理しなければなりません。欠席者に配り損ねた教材を見ていると、この3か月のことがありありと思い出されてきます。出席簿を見ると、卒業していった学生の顔が一人ひとり浮かび上がってきます。でも、そんな感傷に浸っている暇はありません。いらないものはばっさり捨てて、保存すべきものはしかるべきところに置き、新学期に備えました。

驚くべきはシュレッダー。ダストボックスが数時間も経たないうちに2回も満杯になりました。それだけの秘密書類が、この職員室から消え去りました。それだけ、思い責任を背負っているのだなと感じさせられました。でも、サーバーにはシュレッダー級の書類がその数百倍か数千倍か数万倍か、もしかすると、数億倍ぐらいあるに違いありません。二度と日の目を見ることのない電子的なデータが、これからも幾何級数的に増えていくことでしょう。

コンピューターの中に保存しておけば大丈夫って、私たちは書類整理を放棄している面があるんじゃないかなって、ふと思いました。

流れる授業

3月22日(火)

最近、新しい先生の授業見学をしています。どの先生もきちんと教案を立てて授業に臨んでいることは、教案もろくに立てずに授業をしている私から見ると、立派なことだと思います。

でも、教案の通りに進めようとするあまり、教案にとらわれてしまってはいけません。教案は台本やマニュアルではありませんから、絶対その通りに進めなければならないというものではありません。私が教案を立てないのは、その場の雰囲気に重きを置きたいからです。教室内の空気の流れに合わせて、自然に授業を進めたいのです。遅刻してきた学生や、昨日までとは違う様子の学生や、ちょっとした学生のことばを授業に取り入れて、作られた場面ではなく、実地で文法やことばの使い方が体験できる授業が理想形なのです。

たとえ初級でも、そういう授業の作り方は可能だと信じて、授業の時は学生の一挙一動に注目しています。もちろん、その日の授業で何を教えなければならないかはきっちり押さえています。その上で、そこまで持っていくのに、いかに学生をいじるかを考えるのです。こんなことをした学生がいたら、こんなことを言った学生がいたら、それを捕まえてこんなふうに授業につなげようということは、さんざん考えます。

1日の授業がよどみなく流れるように進んで、気が付いたら漢字も文法も読解もたくさん勉強していたっていうのが、私の目指す究極の授業です。「これで漢字は終わりです。次は文法です」っていうんじゃなくて、その日の漢字の最後が文法の導入につながっていて、そこに教室の学生の雰囲気が反映されているという授業です。

明日は今学期最後の授業です。引継ぎによると、あれこれやることが山ほどあるようで、流れるような授業にはならないかもしれませんが、学生にとっても私にとっても気持ちのいい授業をしたいです。

採点基準

3月16日(水)

初級クラスの代講に入りました。文法テストがありましたから、授業後、その採点をしました。自分が仕切っているレベルなら、問題も自分で作っているし、採点基準も自分で決めればいいし、答案の出来を見て微調整も可能です。ですが、初級はそういうわけにはいきません。何より、クラス数が多いので、ということは採点者も多いので、私が勝手に採点基準を決めるわけにはいきません。疑義のある答えは、レベル担当のK先生に相談し、他のクラスとのバランスを取らなければなりません。

テストは、本来、同じ答案なら誰が採点しても同じ成績にならなければならないものです。すべてが選択問題ならそういうテストも作れましょうが、記述式となると、どうしても採点者の主観が入り込んでしまいます。初級の文法テストですから大した内容の文にはならないのですが、教師によって許容範囲が異なることは容易に想像できます。これはどうしても認めたくないとか、これぐらいなら目をつぶってあげてもいいんじゃないかという基準を、私も主張したいし、他の先生もそれと同じだけ主張したいでしょう。

たかがKCPの文法小テストですらこうなのですから、センター試験の改訂版となる新共通テストで実施が予定されている記述式試験となったら、いったいどういう採点をするつもりなのでしょう。採点が大変すぎるから複数回実施をあきらめたと言いますが、当然の結論だと思います。

受験生の真の能力や意欲をとらえるには記述式のほうがよいということで導入するというのはよくわかります。でも、その真の能力をしっかりと感じ取る体制ができていなかったら、理想は画餅どまりです。高い志を、何とか実現日してもらいたいと、陰ながら応援しています。

旅立ち

3月12日(土)

今週は別れの1週間でもありました。全国各地とまでは言えませんが、北にも西にも卒業生たちが旅立っていきました。東京を離れる学生は、東京で進学する学生よりも、新しい生活への期待も不安も大きいです。受験の際にその町を見ているとはいえ、それはしょせん旅行者の目です。その地で何年間も暮らすとなったら、心配の種には事欠かないでしょう。また、新たな土地へ引っ越すとなると、それにまつわる手続きも自分の手でしなければなりません。1年か2年とはいえ、住み慣れた土地を離れるのは、勇気と根気の要る仕事だと思います。

私も大学進学で地方から東京へ出てきた口ですが、親も親戚も手を貸してくれましたから、KCPの学生たちに比べたら、不安なんか桁違いに小さかったです。就職の時ですら、レールと道路はつながってるんだという気持ちでした。卒業後久しぶりに学校に顔を出した学生は、よく「ふるさとへ帰ったようだ」と言います。私が大学生の時に実家に対して抱いていた感情が、多少は学生たちの気持ちに近いのかもしれません。

となると、我々教師は、実家の母であり父であるわけです(中には姉か兄と思ってもらいたい先生もいらっしゃるでしょうが)。学生が成長した姿を自慢できるのは、ひよこの頃を知っている私たちだけなのです。私たちも、立派になった学生たちの姿を目にするのと、無上の喜びを感じます。

昨年も、私なりに、種をまき、水をやり、台風よけの囲いを作り、実を実らせてきたつもりです。その果実が遠い地でも芳香を放つことを、期待してやみません。

卒業証書をもらう

3月5日(土)

9時ちょっと前に四谷区民センターの9階へ行くと、すでに知った顔がちらほら。授業の時とは違い着飾っているので、挨拶の声を聞いて誰なのかわかることも。

卒業式は、卒業証書をもらうか修了証書をもらうかが学生にとって運命の分かれ道ですが、我々教師にとってもその年度の総決算を意味します。今年度は卒業証書がもらえるだろうか、頑張ったけど修了証書どまりだろうか、私は毎年そんなことを考えながら、一人ひとりの学生に証書を渡しています。

Aさんは伸びたと思えれば卒業証書に近づくし、Bさんの出席率は結局改善されなかったと思えば修了証書のほうに引っ張られます。Cさんを無理だと思っていた第一志望校に入れたのは殊勲賞だけど、Dさんの行き先が決まっていないのは指導力不足だったかな。Eさんは苦手の漢字を克服したけど、Fさんの漢字嫌いはどうにもなりませんでした。入学時はあんなに純真だったGさんがやさぐれてしまったのは私たちのせいかな。最後の3か月でこちらを向いてくれたHさんは、KCPにも心を開いてくれたんでしょうか。

毎年、思うところがたくさんあるのですが、今年は去年より卒業生が多い分だけ、私の前に立つ学生の顔を見ながらこの1年の自分自身を見つめなおす時間もたっぷりいただけました。

午後は卒業生と教師の交流パーティー。琴の「ふるさと」に学生たちがKCPを思い出すときのことを重ね合わせ、歌クラブの卒業生・Iさんの涙に心を揺さぶられ、演劇部の演技とセリフの自然さに魅了され、ダンスクラブのパフォーマンスにはこれまで同様圧倒されました。でも、今年の目玉は、教師の合唱です。学生に隠れてこっそり練習した成果を披露すると、Jさんは涙をあふれさせていました。

式は会場の都合上ゆっくりできませんでしたが、交流パーティーは卒業生も教師も十分に感慨に浸ることができました。どの先生も、寿命が10年ぐらい縮みそうなくらい、卒業生に挟まれた写真を撮られていました。

これだけ学生に慕われたのですから、私たちもかろうじて卒業証書をもらえるでしょうか…。

ガムをかむ

2月12日(金)

午後の代講クラスの教室に入ると、ガムをかんでいる学生がいました。しかも、口元をかくすわけでもなく、堂々と口の中のガムを膨らませようとすらしていました。その学生の机に近寄り、教科書で思い切り机をたたいて激しく怒っていることを示し、外でそのガムを吐き出させました。

KCPは全館学厳禁です。これは学校のルールとして入学時のオリエンテーションでも伝えているし、その後も折があるたびに注意しています。文法の例文などでも、ガム禁止はよくネタにします。それにもかかわらず、しかも教師に目の前でガムをかむとは、どういう神経なのでしょう。

私はこのクラスに入るのも、そして、おそらく、その学生に会うのも初めてです。何のしがらみもありませんから、思い切り叱ることができます。傷つきやすかったりプライドが高かったりして、クラスメートの面前で叱ることが好ましくない場合もあるでしょうが、明らかにガムをかんでいることがわかる学生を放置することは、私にはできませんでした。たとえ傷ついたとしても、ルール違反は悪いことだと、当人及び周りの学生たちに知らしめることに何の躊躇が要りましょう。

幸いにも、その学生はそれほど壊れやすいタチではなく、その後は指名しても普通に答えていました。クラスの雰囲気も、一時的には暗くなりましたが、最終的には持ち直しました。私がこのクラスに入ることは、おそらくもうないでしょう。ガムをかんだ学生を受け持つ可能性も、あまり高いとはいえません。ですが、このクラスと学生を、しばらくは注視していきます。

かわいがり

2月10日(水)

新人のO先生をいたぶってしまいました。いつも面倒を見ているM先生が代講だったので、私がO先生の文法の下調べの出来具合をチェックすることになったのです。

O先生は文法書を見たり自分で例文を作ったりして、各文法項目について調べてきてはいました。でも、私がその分析結果の隙をついて悪い例文を並べると、とたんに言葉が詰まってしまいます。私は学生のとんでもない例文を腐るほど見ていますから、勘違いのポイントもわかります。そのポイントに合わせて非文の例文を作ることぐらい、朝飯前です。私の作った例文は、Oさんが自分で作った基準に当てはめると〇なのですが、感覚的には×です。どこが引っ掛かるのか、なぜダメなのかがわからず、呻吟し続けていました。

文法書の内容を伝えるだけなら、学生たちに自習させれば十分です。文法書に書かれていないポイント、それをまねて例文を作ってもつかめないニュアンスなどを伝えてこそ、本物の教師です。O先生は文法書の行間を読み取ることがまだまだのようでした。

新人の先生には申し訳ないのですが、この辺の感覚はある程度場数を踏まないと身に付きません。場数を踏むと、どんな分析をすればその文法の特徴がつかめるかが見えてきます。教えたことのない文法事項にぶつかっても、どんな例文を出してどことどこを説明すれば学生たちに理解してもらえるかが、頭のなかにひらめいてくるようになります。

気がつくと1時間以上も変な例文を出してはO先生を困らせていました。相撲の世界なら「かわいがり」に相当するのかな。Oさんは、今は文法書と同じ地平にしか立てていませんが、来学期になったら丘の中腹ぐらいには立てるでしょう。そのとき、そのとき、どんな風景を目にするのでしょうか。