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流れる授業

3月22日(火)

最近、新しい先生の授業見学をしています。どの先生もきちんと教案を立てて授業に臨んでいることは、教案もろくに立てずに授業をしている私から見ると、立派なことだと思います。

でも、教案の通りに進めようとするあまり、教案にとらわれてしまってはいけません。教案は台本やマニュアルではありませんから、絶対その通りに進めなければならないというものではありません。私が教案を立てないのは、その場の雰囲気に重きを置きたいからです。教室内の空気の流れに合わせて、自然に授業を進めたいのです。遅刻してきた学生や、昨日までとは違う様子の学生や、ちょっとした学生のことばを授業に取り入れて、作られた場面ではなく、実地で文法やことばの使い方が体験できる授業が理想形なのです。

たとえ初級でも、そういう授業の作り方は可能だと信じて、授業の時は学生の一挙一動に注目しています。もちろん、その日の授業で何を教えなければならないかはきっちり押さえています。その上で、そこまで持っていくのに、いかに学生をいじるかを考えるのです。こんなことをした学生がいたら、こんなことを言った学生がいたら、それを捕まえてこんなふうに授業につなげようということは、さんざん考えます。

1日の授業がよどみなく流れるように進んで、気が付いたら漢字も文法も読解もたくさん勉強していたっていうのが、私の目指す究極の授業です。「これで漢字は終わりです。次は文法です」っていうんじゃなくて、その日の漢字の最後が文法の導入につながっていて、そこに教室の学生の雰囲気が反映されているという授業です。

明日は今学期最後の授業です。引継ぎによると、あれこれやることが山ほどあるようで、流れるような授業にはならないかもしれませんが、学生にとっても私にとっても気持ちのいい授業をしたいです。

採点基準

3月16日(水)

初級クラスの代講に入りました。文法テストがありましたから、授業後、その採点をしました。自分が仕切っているレベルなら、問題も自分で作っているし、採点基準も自分で決めればいいし、答案の出来を見て微調整も可能です。ですが、初級はそういうわけにはいきません。何より、クラス数が多いので、ということは採点者も多いので、私が勝手に採点基準を決めるわけにはいきません。疑義のある答えは、レベル担当のK先生に相談し、他のクラスとのバランスを取らなければなりません。

テストは、本来、同じ答案なら誰が採点しても同じ成績にならなければならないものです。すべてが選択問題ならそういうテストも作れましょうが、記述式となると、どうしても採点者の主観が入り込んでしまいます。初級の文法テストですから大した内容の文にはならないのですが、教師によって許容範囲が異なることは容易に想像できます。これはどうしても認めたくないとか、これぐらいなら目をつぶってあげてもいいんじゃないかという基準を、私も主張したいし、他の先生もそれと同じだけ主張したいでしょう。

たかがKCPの文法小テストですらこうなのですから、センター試験の改訂版となる新共通テストで実施が予定されている記述式試験となったら、いったいどういう採点をするつもりなのでしょう。採点が大変すぎるから複数回実施をあきらめたと言いますが、当然の結論だと思います。

受験生の真の能力や意欲をとらえるには記述式のほうがよいということで導入するというのはよくわかります。でも、その真の能力をしっかりと感じ取る体制ができていなかったら、理想は画餅どまりです。高い志を、何とか実現日してもらいたいと、陰ながら応援しています。

旅立ち

3月12日(土)

今週は別れの1週間でもありました。全国各地とまでは言えませんが、北にも西にも卒業生たちが旅立っていきました。東京を離れる学生は、東京で進学する学生よりも、新しい生活への期待も不安も大きいです。受験の際にその町を見ているとはいえ、それはしょせん旅行者の目です。その地で何年間も暮らすとなったら、心配の種には事欠かないでしょう。また、新たな土地へ引っ越すとなると、それにまつわる手続きも自分の手でしなければなりません。1年か2年とはいえ、住み慣れた土地を離れるのは、勇気と根気の要る仕事だと思います。

私も大学進学で地方から東京へ出てきた口ですが、親も親戚も手を貸してくれましたから、KCPの学生たちに比べたら、不安なんか桁違いに小さかったです。就職の時ですら、レールと道路はつながってるんだという気持ちでした。卒業後久しぶりに学校に顔を出した学生は、よく「ふるさとへ帰ったようだ」と言います。私が大学生の時に実家に対して抱いていた感情が、多少は学生たちの気持ちに近いのかもしれません。

となると、我々教師は、実家の母であり父であるわけです(中には姉か兄と思ってもらいたい先生もいらっしゃるでしょうが)。学生が成長した姿を自慢できるのは、ひよこの頃を知っている私たちだけなのです。私たちも、立派になった学生たちの姿を目にするのと、無上の喜びを感じます。

昨年も、私なりに、種をまき、水をやり、台風よけの囲いを作り、実を実らせてきたつもりです。その果実が遠い地でも芳香を放つことを、期待してやみません。

卒業証書をもらう

3月5日(土)

9時ちょっと前に四谷区民センターの9階へ行くと、すでに知った顔がちらほら。授業の時とは違い着飾っているので、挨拶の声を聞いて誰なのかわかることも。

卒業式は、卒業証書をもらうか修了証書をもらうかが学生にとって運命の分かれ道ですが、我々教師にとってもその年度の総決算を意味します。今年度は卒業証書がもらえるだろうか、頑張ったけど修了証書どまりだろうか、私は毎年そんなことを考えながら、一人ひとりの学生に証書を渡しています。

Aさんは伸びたと思えれば卒業証書に近づくし、Bさんの出席率は結局改善されなかったと思えば修了証書のほうに引っ張られます。Cさんを無理だと思っていた第一志望校に入れたのは殊勲賞だけど、Dさんの行き先が決まっていないのは指導力不足だったかな。Eさんは苦手の漢字を克服したけど、Fさんの漢字嫌いはどうにもなりませんでした。入学時はあんなに純真だったGさんがやさぐれてしまったのは私たちのせいかな。最後の3か月でこちらを向いてくれたHさんは、KCPにも心を開いてくれたんでしょうか。

毎年、思うところがたくさんあるのですが、今年は去年より卒業生が多い分だけ、私の前に立つ学生の顔を見ながらこの1年の自分自身を見つめなおす時間もたっぷりいただけました。

午後は卒業生と教師の交流パーティー。琴の「ふるさと」に学生たちがKCPを思い出すときのことを重ね合わせ、歌クラブの卒業生・Iさんの涙に心を揺さぶられ、演劇部の演技とセリフの自然さに魅了され、ダンスクラブのパフォーマンスにはこれまで同様圧倒されました。でも、今年の目玉は、教師の合唱です。学生に隠れてこっそり練習した成果を披露すると、Jさんは涙をあふれさせていました。

式は会場の都合上ゆっくりできませんでしたが、交流パーティーは卒業生も教師も十分に感慨に浸ることができました。どの先生も、寿命が10年ぐらい縮みそうなくらい、卒業生に挟まれた写真を撮られていました。

これだけ学生に慕われたのですから、私たちもかろうじて卒業証書をもらえるでしょうか…。

ガムをかむ

2月12日(金)

午後の代講クラスの教室に入ると、ガムをかんでいる学生がいました。しかも、口元をかくすわけでもなく、堂々と口の中のガムを膨らませようとすらしていました。その学生の机に近寄り、教科書で思い切り机をたたいて激しく怒っていることを示し、外でそのガムを吐き出させました。

KCPは全館学厳禁です。これは学校のルールとして入学時のオリエンテーションでも伝えているし、その後も折があるたびに注意しています。文法の例文などでも、ガム禁止はよくネタにします。それにもかかわらず、しかも教師に目の前でガムをかむとは、どういう神経なのでしょう。

私はこのクラスに入るのも、そして、おそらく、その学生に会うのも初めてです。何のしがらみもありませんから、思い切り叱ることができます。傷つきやすかったりプライドが高かったりして、クラスメートの面前で叱ることが好ましくない場合もあるでしょうが、明らかにガムをかんでいることがわかる学生を放置することは、私にはできませんでした。たとえ傷ついたとしても、ルール違反は悪いことだと、当人及び周りの学生たちに知らしめることに何の躊躇が要りましょう。

幸いにも、その学生はそれほど壊れやすいタチではなく、その後は指名しても普通に答えていました。クラスの雰囲気も、一時的には暗くなりましたが、最終的には持ち直しました。私がこのクラスに入ることは、おそらくもうないでしょう。ガムをかんだ学生を受け持つ可能性も、あまり高いとはいえません。ですが、このクラスと学生を、しばらくは注視していきます。

かわいがり

2月10日(水)

新人のO先生をいたぶってしまいました。いつも面倒を見ているM先生が代講だったので、私がO先生の文法の下調べの出来具合をチェックすることになったのです。

O先生は文法書を見たり自分で例文を作ったりして、各文法項目について調べてきてはいました。でも、私がその分析結果の隙をついて悪い例文を並べると、とたんに言葉が詰まってしまいます。私は学生のとんでもない例文を腐るほど見ていますから、勘違いのポイントもわかります。そのポイントに合わせて非文の例文を作ることぐらい、朝飯前です。私の作った例文は、Oさんが自分で作った基準に当てはめると〇なのですが、感覚的には×です。どこが引っ掛かるのか、なぜダメなのかがわからず、呻吟し続けていました。

文法書の内容を伝えるだけなら、学生たちに自習させれば十分です。文法書に書かれていないポイント、それをまねて例文を作ってもつかめないニュアンスなどを伝えてこそ、本物の教師です。O先生は文法書の行間を読み取ることがまだまだのようでした。

新人の先生には申し訳ないのですが、この辺の感覚はある程度場数を踏まないと身に付きません。場数を踏むと、どんな分析をすればその文法の特徴がつかめるかが見えてきます。教えたことのない文法事項にぶつかっても、どんな例文を出してどことどこを説明すれば学生たちに理解してもらえるかが、頭のなかにひらめいてくるようになります。

気がつくと1時間以上も変な例文を出してはO先生を困らせていました。相撲の世界なら「かわいがり」に相当するのかな。Oさんは、今は文法書と同じ地平にしか立てていませんが、来学期になったら丘の中腹ぐらいには立てるでしょう。そのとき、そのとき、どんな風景を目にするのでしょうか。

久しぶり

2月8日(月)

授業後、Gさんの面接練習をしました。Gさんは、おととし入学した学期に、レベル1で受け持ちました。授業中はいつも大きな目をこちらに向けて、目から耳から何でも吸収しようとしていました。また、動作がきびきびしていて、Gさんが動いている姿は見ていて気持ちがよかったです。それは字にも現れていて、他の学生に見せたいくらいしっかりしたノートを取っていました。

そんなGさんは、成績が悪かろうはずがなく、今学期は上級クラスです。先週の金曜日、受付で私を呼び止め、志望校のM大学大学院の面接試験が迫っているから面接練習したいと頼んできました。私の手を離れてからは、校内でたまに出会ったときに会釈をする程度で、じっくり話したことはありませんでした。でも、会釈だけは必ずしっかり例のきびきびした身のこなしでしてくれました。そんな薄い縁でしたが、Gさんは頼りにしようと思い、私もGさんのためならぜひ力になりたいと思い、面接練習を引き受けたわけです。

もちろん、全然受け持ったことのない学生から頼まれても引き受けますが、初顔合わせみたいな学生とずっと気にかけてきた学生とでは、こちらの気合が違います。学校長としてはどの学生にも分け隔てなく接しなければならないのでしょうが、機械じゃなくて人間ですから、やっぱり付き合いの濃淡によって接し方が変わってしまいます。その付き合いも、Gさんのように好印象を重ねてきた学生と、「まったくもう」というかかわりばかりの学生とでは、こちらの向かう気持ちも違ってきて当然ではないでしょうか。

何も教師に向かって尻尾を振ってもらいたいわけではありませんが、周囲にいやな雰囲気をまき散らしていてもいいことなんか1つもありません。マイペースでもいいですが、人間は社会的動物だってことは忘れないでおいてほしいものです。

パワーポイントを駆使して自分の卒業研究の概要をプレゼンするGさんを見て、頼もしく思いました。成長振りがうれしかったです。内容的にはかなりダメ出しをしましたから、これから本番までのわずかな時間で軌道修正しなければならず、下手すると徹夜続きかな…。

不毛の会話の果て

2月5日(金)

こちらは、お宅のお子さんが入学したKCPという日本語学校です。最近、お子さんは全然学校へ来ていません。それで、こちらからお子さんに電話をかけているんですが、いつもつながりません。ご両親様のほうから連絡を取っていただけないかと思って、お電話を差し上げました。

子どもは元気にしていますよ。そちらの学校へは行っていませんが、家で毎日絵を描いています。美術大学進学希望ですから、それが一番の勉強です。KCPに通っても絵の勉強はできないでしょ。

でも、日本語学校に入学したということは、日本語の勉強をしなければならないということです。お子さんが持っているビザは、KCPで日本語を勉強することが前提のビザです。

うちの子は国にいたときから日本語はよくできましたから、日本語よりも絵なんですよ。KCPは、絵の勉強をさせてくれませんから、行くだけ無駄です。もちろん、KCPで家にいる以上に絵の勉強ができるなら、うちの子も喜んで通いますよ。それができないということは、KCPは学生のニーズに応えていないということなんじゃないですか。

……親がこれでは、子どもが学校へ来るわけがありません。これが今はやりのモンスターペアレントというやつなのでしょう。

こういう不毛の会話をさせてくれた張本人のLさんが、突然学校へ来て、美術大学への出願書類を見てほしいと言います。出願書類の書き方などさんざん指導してきたのに、そういう授業をサボっていたからでしょう、住所、氏名、生年月日など、ごく基本的なことしか埋められていない出願書類を私に見せてきました。志望理由や将来計画は完全な白紙です。

好き勝手なことをしまくって、困った時だけ学校を頼る――なんと虫のいい話でしょう。突っ放したら、きっとまたあの親がねじ込んでくるんでしょうね。怒りを振り捨てて、書類作成を手伝いました。でも、不思議なもので、いつの間にか親身になっちゃうんですね。手取り足取り書き方を指導し、志望理由と将来計画はポイントとなる事柄を教え、月曜日に書いてくることにしました。

つくづくお人よしだなと思います。だまされることを承知で人に尽くすことが、この仕事に携わる者の必須条件なのかな…。

遺言?

1月21日(木)

超級クラス、しかも卒業式を迎えるこの学期ともなると、教えることがなくなってきます。特に読解は、外国人向けの日本語教材では全然追いつきませんから、新聞・雑誌の記事や小説や論説文やエッセイや日本人高校生向け問題集など、あらゆる方面に手を回して教材を集めています。

そういったものから教材を採ったとしても、字面を追うだけなら学生たちは自習できちゃいますから、字面だけからはわからない何がしかを付け加えています。例えば、今扱っている教材には関西弁がふんだんに出てきますから、関西弁を共通語に訳してみたり、その訳語と関西弁のニュアンスの違いを議論したりしています。

小説なら、文中に表れたちょっとした言葉から登場人物の心理を推理してみるなんてこともしています。行間を読むというか、1つの単語から想像を広げるすべを身に付けてほしいと思っています。また、日本人なら暗黙の了解で済むことも、学生たちはきっちり説明してもらわないとわからないこともあります。辞書やネットではつかめない何物かを与えていくことが、このレベルの学生たちに対する我々教師の役割だと思っています。

このクラスの学生の大半は、4月から進学先で日本人に囲まれて勉強していきます。授業では留学生だからと手加減や特別扱いされることはないでしょう。日本語にじっくり向き合えるのは、日本語学校の卒業式までですから、こちらもその間に日本人に「伍して」いけるだけの、日本語力プラスアルファをつけさせようと思うのです。日本語力はもう十分ですから、「プラスアルファ」の部分に力点を置いて、卒業直前の授業を組み立てています。

私から皆さんへの遺言だよって言って、授業をしています。

さすが新成年‥‥の一方で

1月20日(水)

先日の成人式で成人の祝福を受けたHさんは、学校の近くのコンビニでアルバイトしています。そのコンビニへKCPの学生が来て、タバコを買おうとしました。Hさんは店の規則に従って、年齢確認のため身分証明書の提示を求めました。その学生が出した身分証明書には1996年8月という生年月日が記されていました。Hさんは、その学生へのタバコの販売を拒否しました。

Hさんの判断は、さすが新成年というものであり、悪いことは悪いと断固拒否するところは、いかにも法学部への進学が決まった学生らしいです。また、店員の立場で客の要求を拒否するのは勇気が要ったでしょうが、よくぞ断ってくれたと感心しました。

それにしても、タバコを買おうとした学生です。20歳未満の喫煙は法律で禁じられているとあれほど注意しているのに、まだあきらめようとしません。耳にたこができて、鼓膜が震えなくなってしまったのでしょうか。違法行為を働くということについていったいどう考えているのか、問い詰めてみたいです。

未成年学生の喫煙は、法律を破るか破らないかですから、見逃すとか妥協するとかということはありえません。でも、これが後を絶たないのは、こちらの指導法に欠けているところがあるからなのでしょう。タバコ以外の面で太陽政策みたいな指導が執れればいいのですが、「タバコは絶対ダメだけど、〇〇は認めてあげよう」という“〇〇”が見つかりません。かといって、「タバコは健康に悪いから…」と理詰めに説いてみたところで、タバコが吸いたくてたまらない、日本語の理解力に難のある外国人未成年の心には響きません。通訳を介しても、五十歩百歩でしょう。

学生と教師とのあいだに確固たる信頼関係が成立していれば、こういう指導もうまくいきます。ここで教師力などという抽象的なファクターを軽々しく出したくはありませんが、1週間で学生の心をがっちりつかむ教師もいれば、1学期経っても学生に名前すら覚えてもらえない影の薄い教師もいることは事実です。その違いが未成年喫煙を始めとする法律、ルール、マナーに対する学生の順法精神の違いにつながっているとすれば、教師が自分自身を磨き続けることが学生の人生に直結しているのであり、責任重大です。