Category Archives: 教師

鍛錬の夏

8月5日(金)

Aさんはクラスで一番質問が多い学生です。授業中、わからないことがあると、すぐ「すみません、〇〇はどういうことですか」「××について、もう少し詳しく説明していただけませんか」などときいてきます。中には非常に基本的な質問もありますが、私はそういうAさんの質問を決しておろそかにしようとは思いません。

教室の中では携帯電話は使用禁止です。ですから、わからないことがあってもググることはできません。わからないことをそのままにしておきたくなかったら、教師に聞くのが一番安全確実なのです。隣の学生に聞くこともできますが、その間に授業は遠慮なく進みます。わからないことが1つ解決しても、また新たにわからないことが2つぐらいできてしまいます。教師に尋ねれば、そこで授業が止まりますから、わからないことが増える心配はありません。

Aさんは、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という精神を自然に身に付けています。こんなことを聞いたらかっこ悪いと思って、教師の目を盗んでググろうとしたり母語で周りの学生に聞いたりそのまま打ち捨てようとしたりする学生も少なくないでしょう。それゆえ、Aさんの質問に答えることは、そういう多くの気の小さい学生の疑問を解消することにも直結するのです。このクラスの学生はAさんに大いに助けられており、Aさんはこのクラスのペースメーカーになっていると言ってもいいのです。

Aさんのクラスでは、他のクラスとは違った緊張感を覚えます。Aさんからどんな質問が出てもそれに対応できるようにって思います。Aさんが質問しなくても理解できるような授業の進め方を考えます。そうやって臨んでもAさんに質問されると、計画の抜け落ちを感じさせられるし、Aさんの質問に端的に答えられないと、伝えることの難しさを感じずにはいられません。

今学期は、Aさんに鍛えられているような気がします。

義務感

7月22日(金)

選択授業で、中級のドラマの聴解をしました。「ドラマの聴解」という選択科目名を見て、ドラマが「見られる」と思った学生が多かったようですが、この授業では映像は見せません。音声だけのソースのストーリーを追い、内容を把握し、さらにはそこに散りばめられている日本人の発想や習癖や生活など、もう一歩踏み込んで文化的背景までつかみ取ってもらおうという欲張りな授業です。

日本人なら鼻歌交じりで聞いていても十分理解できますが、中級の学生にとっては、1回聞いただけでは表面的な理解にとどまります。登場人物の名前を聞き取るのも一苦労だし、擬音語擬態語はとりあえずなかったことにして、聞き取れた単語をつなぎ合わせて一番太い幹をよじ登っていくので精一杯です。変な単語が耳についてしまったら、いつの間にか小枝の先にぶら下がっていたなんていうこともありえます。

教師は、幹のありかやそれがどちらに向かっているかをしっかり指示することはもちろん、枝についた葉や花や実にも目を向けさせていかなければなりません。JLPTの聴解問題などを解くだけでは得られるのとは違った種類の力をつけさせていくことが最大の仕事です。学生にとって、わざわざ日本へ来て、日本人の教師から教えを受ける意義は、こういうところにこそあるはずです。

学生が独習できることを教師が仰々しく取り上げても、学生はあまりありがたくないでしょう。多くの学生は、日本人の日本語教師に日本語を習うことに意義があると考えてこの学校に入ってきたのでしょうから、私たちはそれに応える義務があります。安くない授業料を受けとている側としての、サービスの提供義務です。私は、いつもそういうことを考えながら、授業を組み立てています。

懐かしい文字

7月11日(月)

私が担当する新しい超級クラスの名簿に、Lさんの名前がありました。Lさんは、新入学の学期に初級クラスで受け持った学生です。発言が多かったり成績がすばらしくよかったりしたわけではありませんが、授業に集中し、勉強したことを確実に物にしていくタイプの学生でした。その学生がこつこつと勉強を続けて、超級まで上り詰めたのです。

会うのを楽しみにしていたのですが、教室に入ってもLさんの姿がありません。チャイムが鳴り終わっても、全員の出席を取り終わっても、現れませんでした。Lさんのことを気にしつつオリエンテーションを進めていたら、Lさんは、20分後ぐらいに、遅延証明書を手に申し訳なさそうに入ってきました。そうだよね、Lさんがそう簡単に休んだり遅刻したりしないよねと安堵しました。

今学期は8月1日にスピーチコンテストが迫っているため、始業日にいきなりスピーチコンテストの原稿を書いてもらいました。週末にその旨を連絡しておいたのですが、多くの学生が自分の思いを原稿用紙上に表現するのに苦しんでいました。Lさんもそういう学生の1人で、授業中には書ききれず、図書室などで書いて持ってくるようにと伝えて授業を終えました。

午後の授業の後、机に戻ると、何人分かの原稿が置かれていました。その中に、懐かしい文字が。Lさんの原稿です。初級のときと全く変わらぬ、私より数倍上手で几帳面な楷書で埋められた原稿用紙がありました。初級からここまで、順調なことばかりではなかったでしょうが、その大波小波を乗り越えて、よく育ってくれたと思いました。

初級で教えた学生に中級や上級で再び出会うのは、教師として非常に大きな楽しみです。「初級の頃はいい学生だったのに…」とぼやきたくなる学生が少なくない中、順良な心を保っているLさんは、ひときわ光る存在です。そのLさんも、今学期は自分の大きな方針を決めなければならない学期です。今まで続けてきた努力で、もう1歩進んでもらいたいです。

1クール

7月9日(土)

4月に新しい事務教務システムが稼働して1クールになります。この3か月間、教職員一同、便利になったと感動したり、機械というかコンピュータープログラムの融通の利かなさを嘆いたりしてきました。

私は、自分たちの仕事をシステム製作者に伝えることの難しさを痛感しました。どんな作業をしているかを伝えるのですら、暗黙の了解の余地がない人が相手となると、その作業を細かく分解せねばならず、けっこうな負担となりました。さらに、個々の作業が有機的にどうつながり、どんな仕事が形作られるのかとなると、私たちにとっては自明のことでも、外部の人にとってはチンプンカンプンです。私たちがシステムに対して「まったくもう!」と思ったことの大半は、実は私たちの側に原因があったのです。

学生の要望にきめ細かく対応しようとすると、そのきめ細かさに比例して判断項目、判断基準が増え、部外者にはわかりにくい仕事の進め方になってきます。じゃあ、そういうこまごまとしたことをばっさり切り捨てられるかというと、そういうわけにもいきません。物ではなく人を相手にしていますから、その心に訴えかける仕事となると、機械的な割り切りばかりではすみません。

いってみれば、私たちの仕事の進め方は名人芸であり、伝統芸能です。それはそれで価値のあるものではありますが、それで自己満足に陥ってはいけません。合理的な仕事の進め方ができれば、さらに仕事を進化させられるはずです。そのための新システムであり、この構築のために自分の仕事を振り返ったことを、学校全体の発展につなげていかねばなりません。

化学の教科書

6月9日(木)

受験講座の受講生Mさんが中国の化学の教科書を持ってきていたので、見せてもらいました。私は中国語ができませんから、すぐにわかるものといえば、NaClなどの物質名や反応式やグラフなどです。それを追いかけていけば、だいたいどんなことが書かれているか、おぼろげながら見当がつきます。もう少し丁寧に読むと、多少はわかる漢字がありますから、教科書に書かれている理論や解説がちょっぴり見えてきます。

「先生はこの教科書がわかりますか」とMさんに聞かれました。「Mさんが日本語の教科書の漢字を見てわかるのと同じくらいはわかると思うよ」と答えると、とてもよく納得できたような顔をしていました。

私が配っているプリント、見せているパワポ、やらせている問題は、すべて日本語で書かれていますから、日本語が完全ではない学生にとっては、さぞ頼りない資料に映るでしょう。Mさんの教科書で化学の授業を聞いたら、化学の基礎知識があっても理解はあまり進まないと思います。学生たちはこれと全く同じ感覚を抱いているのだと思うと、資料を見せたりあげたりしただけで終わりにしてはいけないと、気持ちを引き締めずにはいられませんでした。漢字を使わない国から来ている学生にとっては、私が中国語の教科書を読む以上に困難を感じているはずです。学生にわかってもらえる授業を心がけてきたつもりですが、「つもり」止まりでは意味がありません。

学生が持っている力を十二分に引き出すには、どんな授業をすればいいのでしょうか。学生にとってわかりやすい資料、役に立つ資料って、どんな資料なのでしょう。問題を解かせたあとに何をすれば学生の力を伸ばしていけるのでしょうか。改めて考えさせられました。

さりげなくVサイン

6月7日(火)

久しぶりに、一番下のレベルの授業に入りました。このレベルに入ると、今、受け持っている初級クラスの学生たちも結構話が通じるなと思ってしまいます。1つ上のレベルと比べても、かなり意識して語彙や文法を選ばないと話が通じなくなります。ましていわんや、ダジャレなど通じるわけもありません。

例えば、助詞の「に」を強調する時、私は空いている手でVサインをします。もちろん、数字の「2」に引っ掛けてのことです。これが、下から2番目のレベルだったら、頭が柔軟な学生には通じますが、一番下のレベルでは、全く通じません。みんな、こちらの話を聞き取るので精一杯で、指のほうになど目が行かないのです。たとえVサインに気がついたとしても、「2」が「に」と結び付くことはなく、そのままスルーされます。

おそらく、学生たちは「2」を母語で意識するため、音に結びつけるとしても“two”とか“er”とかにしかならず、この先生は何でVサインなんかしているんだろうとなってしまうのでしょう。「2」と「に」が結び付くということは、学生が日本語で考え始めているということでもあるのです。ですから、「電車『に』傘を忘れました」と言いながら出したVサインに学生が反応したということは、教師としては大いに喜ぶべきことなのです。

「ここ『に』お金を入れます」のVサインを見逃していた学生たちも、来学期の今頃は目ざとく見つけて笑ってくれることでしょう。下のクラスで持った学生を上のクラスでまた受け持つと、こんな形で学生の成長が実感できることもあります。心の中で密かに手をたたき、授業が終わってからにんまり笑うのです。

紙が懐かしい

5月21日(土)

今学期から新しいシステムを導入し、出席はタブレット端末に入力し、テストの成績や宿題を提出したかどうかなどもコンピューター上の表に記録することになりました。ペーパーレス化を図ろうとしたわけですが、当方がまだ不慣れなせいもありますが、不便な点も見えてきました。

よく言われていることですが、一覧性という点においては、コンピューターは紙にかないません。誰がどのテストを受けていない、受けたけど不合格だというのは、紙なら文字通り一目瞭然ですが、コンピューターだと画面の大きさに限りがありますから、上下左右に画面を動かすことが必要です。

データがしっかり保護されているのはいいのですが、それゆえ目的のデータを目にするまでに何段階かの手続きが必要です。紙は、改変しようと思えばいくらでもできちゃいますが、見たいデータまで一直線にノンストップで進めました。

その他、まだまだ新システムの不便な点をあげつらうことはできますが、コンピューターの本領発揮はこれからです。コンピューターが得意とする点は、データをため込むことであり、ため込んだデータを検索して必要なデータを取り出すことです。システムが稼働して1学期も経っていませんから、たまったデータはまだ知れたものであり、検索の必要性はありません。しかし、たとえばある学生の入学から卒業までを追いかけられるくらいデータがたまってきたら、紙では頭を抱えてしまいそうな作業があっという間にでき、コンピューターの威力に恐れ入ることでしょう。

言うなれば、今は雌伏の期間です。学生の進路指導が本格化することには、新システムの恩恵が十分に感じられるようになるのではないかと期待しています。

同じ文章

5月16日(月)

先週の作文を採点していると、妙にこなれた文章に出会いました。Wさんの作文です。Wさんは前回も軽妙な文章を書いていましたから、会話はそうでもないけど作文は得意なんだろうかと思いました。

でも、丁寧体で書くようにという指示に反して、話し言葉のようなくだけた表現がいくつも出てきました。辞書は使用禁止なのに、まだ勉強していない難しい表現がいくつか見られました。そこで、採点を中断して、まさかとは思いつつも、Wさんの作文に特徴的ないくつかの単語をキーワードにして、インターネットで調べてみました。

すると、あったんです、Wさんの作文ほとんどそのものというのが。段落の作り方、漢字の使い方、句読点の打ち方、“?”の位置までぴったり同じなのです。最後の部分だけ、字数の関係か、はしょったようでした。そういえば、Wさんは授業中はほとんど筆が進んでいませんでした。授業終了後、私が他の学生の対応をして目を離していた隙に、スマホでこの文章を見つけ、そのまんま写したことは疑いようがありません。そして、それを私に提出して帰っていったのです。自宅で書いてこいと言うと、辞書を使いまくった文章を書いてくる学生はいましたが、教室でこういうことを堂々とやり遂げたのはWさんが初めてです。

こういうとき、教師はよく怒りよりも悲しみを感じるといいますが、私は怒りも悲しみも感じませんでした。Wさんは私のクラスの学生ですから、Wさんに対して今学期末まで必要最低限の事務手続きは行います。でも、それ以上のことをする気は全く失せました。Wさんは、これまでに、授業中のスマホいじりをはじめ、教師の手をさんざん焼かせてきました。これ以上指導するのは時間の無駄です。その時間を、一生懸命勉強しようと思っている学生や進路について真剣に悩んでいる学生たちのために使いたいです。私はWさんのような学生を真人間に更生させられるほどの教育力も熱き血潮も有してはいません。

Wさんの作文は即刻0点にし、原文が載っていたページをコピーして、Wさんが提出した原稿用紙にクリップで留めました。今週の作文の時間に、何も言わずにそれを返してやるつもりです。

尽くす

5月14日(土)

来週火曜日の運動会の準備を進めました。教職員総がかりで、当日使う小道具類を揃えたり、競技の進行の最終チェックをしたりしました。KCPにはこういうイベントの時に燃える教職員が多く、準備を楽しんでいるようにも見受けられます。運動会の企画会議の際も、アイデアを出し合っているうちに異様に盛り上がっていったことが幾度もありました。運動会の主役は学生たちであり、教職員は裏方に回りますが、企画の時はこっちが主役だっていう意気込みでしょうか。企画倒れの意見もたくさん出るんですけどね。

私は、運動会では毎回主審を務めますから、一見すると一番目立ち、私が運動会を動かしているかのように思われますが、実は操り人形みたいなものです。各競技担当者の意向に沿い、競技する学生にも、それを見ている学生にも、みんなに楽しんでもらえるように動いているだけです。他の教職員も、おそらく同じような気持ちでしょう。

これは運動会に限ったことではありません。つい先日の端午の節句でも、毎年夏のスピーチコンテストでも、卒業式直前のバス旅行でも、いつでも同じような考えに基づき、企画し、運営していきます。主役に喜んでもらう、楽しんでもらうには、自分はどう動くのが最善かということを常に考えています。

どんな仕事にも、多かれ少なかれ裏方の要素があると思います。仕事とは主役に尽くすことだと言ってもいいでしょう。尽くすとは、サービス業だけに限りません。製造業は、生活を豊かにする製品を供給することで、主役である消費者に尽くしています。こういう意識の強い工場が生き残り、尽くす気持ちの希薄なところは淘汰されます。

消費者としての私たちは、製品やサービスの中の「尽くす」成分を無意識のうちに感じ取ります。そして、十二分に尽くされたと思えれば喜んでその対価を払い、そう思えなければ「高い」と不満を抱くのです。不満を抱くだけでなく、二度と買うまい、行くまいと心に決めることでしょう。

今、S先生が月曜日に学生たちに配る運動会のしおりを印刷している音が聞こえます。私たちの珠玉の志をこめて…。

とんだ災難

4月13日(水)

私は、毎年この学期は初級を担当することが多いのですが、今年は初級のほかに、週1日ですが、最上級クラスも担当しています。水曜日が、その「週1日」です。

最上級クラスといっても、先学期までとはメンバーががらりと変わってしまい、知っている顔はごくわずかです。しかも、今学期は上のレベルに入る新入生も多く、このクラスにも何名かの新入生が在籍しています。そういうわけで、初回の授業は学生の力を瀬踏みしながらどこまで掘り下げるかを決めていきました。

新入生に対しては、KCPの最上級クラスってこんな程度だったのかってなめられてはいけませんから、君たちは確かによくできるかもしれないけれども、まだまだ勉強すべきことはたくさんあるんだよという、KCPの底力を見せなければなりません。普通の日本人ならみんな知っているけど日本語を勉強している人たちは知らない表現を取り上げるとか、短い文を書かせてその文の直すべきところをスパッと指摘するとか、そんなことをして学生が増上慢にならないようにします。

今日は、教材に「災難」という言葉が出てきましたから、「とんだ災難でしたね」という表現を知っているかと聞いてみました。東日本大震災みたいなひどい目にあったときに使うなんていう答えが出てきました。雨の日に道を歩いていたら車に泥を跳ね上げられて服を汚された人に対して言うんだよっていう例を出したら、みんな思いっきりうなずいていました。

瞬間芸みたいなこけおどしだけじゃいけません。進学してから利いてくる日本語「力」を付ける授業をしていかなければなりません。来週は何をネタにしましょうか…。