Category Archives: 教師

風邪ですか

9月14日(木)

どうも最近、マスクをしている学生が多いような気がします。人数を数えたわけではありませんが、私が受け持っているクラスにはいつも1人はいます。Sさんなんか、今学期の最初からしています。2か月も風邪を引きっぱなしなのでしょうか。夏の花粉症なのでしょうか。Dさんもマスクをしていますが、声を聞く限り元気そうです。意地悪い見方をすれば、寝坊で遅刻欠席しても、教師に体調不良のためと思わせるために毎日マスクをしているとも受け取れます。Dさんはよく休みますからねえ…。

口元を隠すのはウソをついていることの表れだと言われます。私は、手で口を隠して話すことは失礼なことだとしつけられました。ですから、毎日マスクというのが気になるのです。また、顔の下半分が見えないと表情が読めませんから、何を考えているのか、どう感じているのかわかりません。教師にとってはそういう学生は扱いにくいです。その学生の反応がつかめず、何かとやりにくいです。

Dさんにはなぜマスクをしているのかと聞いてみたことがあります。予想通り、風邪をひいているからという答えが返ってきましたが、なんとなく信じられません。私の質問に不安げな目つきで答えている様子を見ているうちに、自分をさらけ出すのが怖いからなのかなとも思いました。家族から寄せられる期待に押しつぶされそうな自分を見せたくないのでしょうか。そこまで想像力をたくましくしてしまうのは、いたずらな憶測かな。

いや、Dさんたちが感じているのは、教師や学校からのプレッシャーかもしれません。テストや宿題や、これができなかったら進級させないなどという教師の脅しが、マスクとなってはね返ってきているような気もしてきました。私もマスクをしたくなってきましたが、マスクをするとメガネが曇りますから…。

開業

9月8日(金)

今シーズン初の推薦書を書きました。Pさんは出席率もいいし努力家だし、喜んで推薦できる学生です。推薦書に書きたい内容がたくさんありますから、すらすらと書くことができました。この時期に推薦書と言ってくる学生は、たいてい来日当初から進学したい学校が決まっていて、そこを目指して努力を重ねてきた学生ですから、推薦書で悩むことはありません。Pさんもそんな1人です。

志望理由書の添削も頼まれました。夏休みの直前に相談に来ていたSさんが、A大学の志望理由書を書いてきました。相談に乗った時に志望理由書の書き方の基本を教えておきましたが、実際に書いてみるとそうスムーズには筆が進まなかったようで、約束の時間をだいぶ過ぎてから来ました。悪くはない内容ですが、でも、“悪くはない”止まりです。初めての学生が陥りがちな抽象論の空中戦が見られましたから、注意しておきました。Sさんはいいネタを持っていますから、それを活用してくれれば読み手の目を引く志望理由書が書けるでしょう。

初級クラスの学生の進学相談もしました。ZさんはM大学かC大学といい、FさんはJ大学かG大学と言っています。2人の実力からすると夢のような話で、来春の進学は無理そうだと気付き、予定を延長することを考え始めたようです。2人とも頭でっかちで、難しいものを読む勉強には熱心なのですが、語彙力が伴っていないため、その勉強が血肉になっていない憾みがあります。

来週は9月も半ばです。推薦書も志望理由書も進学相談も、どんどん増えていくことでしょう。時には引導を渡さなければならないことも出てきます。覚悟を決めて事に当たらないと、学生に負けてしまいます。

免許更新

8月21日(月)

昨日、運転免許の更新をしました。といっても、5年前の更新以来、ハンドルを握っていないような気がします。最後に運転したのは、たぶん、夏休みに四国の最西端・佐田岬まで行ったときで、それは5年前よりももっと昔だったような気がします。そんなわけで、ペーパードライバーゆえの優良運転者ということで、5年の有効期間がいただけました。

もっとも、これは東京に住んでいるからであって、就職して間もないころ、山口県に住んでいた時は、暇さえあれば車を運転していました。夜明け前に出発して、トイレとガソリン補給以外はずっと運転し続け、日がとっぷり暮れてから戻ってくるなんていうことも1度や2度ではありませんでした。その時は、自分が5年も運転しなくても平気でいられるなんて、夢にも思いませんでした。

車の運転も、体で覚えるとことがありますから、たとえ10年ぶりだろうと、運転席に座って交差点を3回ぐらい曲がれば、カンが戻ってくるのではないかと思っています。今は腰痛を抱えていますから、若い時のように1日中運転し続けることは無理でしょうが、運転を楽しむぐらいはできると思っています。

免許の更新といえば、一時期騒がれた教員免許の更新はどうなっているのでしょう。運転免許の更新は視力検査と講習が30分だけでしたが、教員免許のほうは30時間の講習が義務付けられています。日本の次世代を担う人材を育てる役目を果たすのですから、30分というわけにはいかないでしょう。でも、だからこそ、更新のときだけでなく、常にそれに相当するくらいの研究を続けていてほしいと思います。

さて、日本語教師は日本語教育能力検定試験に受かってしまえば、あとは野放し状態です。市場原理が働き、実力のない教師は淘汰されていくだけです。しかし、これも市場任せですから、教師の需要が高まれば、実力の伴わない教師も教え続けることになります。また、運転と違って2、3回角を曲がればそれなりの運転ができると言うものでもありません。長いギャップがあると、リハビリの期間も長くなります。

私が日本語教育能力検定試験に受かったのはかれこれ20年近く前のことです。でも、養成講座を担当しているおかげで、勉強し直すチャンスはいただいています。今、もう一度受けてもどうにか合格できるんじゃないかなと思っています。でも、私が合格すると、誰か1人、本当に合格したい人が落ちてしまいますから、受けないことにしています。…というのは、言い訳に過ぎませんよね。

名札

8月19日(土)

特に授業のない土曜日の朝、K先生が「この名札、見てください。私がKCPに入ったときのですよ。物持ちがいいでしょう」と、少し誇らしげに見せびらかしました。そういえば昔は初級、中級、上級って色分けして名札にラインを入れていたっけなあと、K先生の名札を見て懐かしく思い出しました。私も名札を持っていますが、K先生のよりは新しいバージョンで、ラインは入っていません。私が名札を使うのは、新入生のプレースメントテストのときだけです。名札を指差して、名前を解答用紙の所定欄に書くようにと指示するのです。

K先生は授業がありませんでしたが、私は受験講座の授業がありました。学生たちにEJUの模擬試験をさせましたが、Tさんはなぜかなかなか解答用紙に名前を書こうとしません。「あと5分です」と残り時間を告げてもまだ書きません。Tさんはもう1年以上もKCPで勉強していますから、わざわざ名札を持ち出すまでもなく、最後には名前を書くでしょう。でも、本番の試験の時にはしてほしくないですね。集めた解答用紙には、「はい、やめてください」というのと同時ぐらいに大急ぎで書いたと思われるくしゃくしゃの名前がありました。

名札といえば、最初に勤めた会社を辞めたとき、本当は返さなければならない名札を記念にこっそり持ち出したのですが、あれは今どこにあるのでしょう。その時は、この会社に勤めたことを一生の思い出にしようと思っていたに違いありません。でも、今は、今朝K先生の名札を見せられるまで、その存在すら忘れていました。うち中の荷物をひっくり返して探せば見つかるかもしれませんが、そこまでする気力も時間もありません。ま、要するに、私はK先生より物持ちが悪く、淡白なのだということなのでしょう。

仏の先生

8月8日(火)

今朝、教室に入ると、漢字のテストがあるというのに、Wさんの姿がありませんでした。Wさんは、今学期に入ってからというか、1年前からずっと出席率について目を付けられていて、先学期の先生からもよからぬ引継ぎを受けています。先週の金曜日は朝から来ていたのですが、また悪い癖が出始めたのでしょうか。

などと思っていたら、10分ほど遅刻で入室。漢字のテストは途中から参加で、制限時間はみんなの半分ほどになってしまいました。そんなわけですから、成績がよかろうはずがありません。答案用紙を見る限り、勉強してきた形跡もなく、もしかするとテストがあるとは露ほどにも思わずに、安心して(?)遅刻してきたのかもしれません。

他のテストも推して知るべしで、未受験か不合格かのどちらかです。私の心の中では、早くも来学期進級させない学生のリストの筆頭に記されています。学生としての義務を果たしていないのですから、同情の余地など全くありません。

でも、わたしはWさんを厳しく叱ってはいません。今学期は、日本語のクラス授業以外にも、受験講座やら養成講座やら山ほど仕事を抱えています。入学以来歴代のWさんの担任教師も叱り続けています。それでも改善の兆しが見えないのですから、私ががみがみやったところで心を入れ換えてくれるとは思えません。効果があるかどうか覚束ない学生の説教に時間を割くよりも、進学相談などで私を必要としている学生たちのために時間を使いたいです。Wさんは私を優しい先生だと思っているかもしれませんが、実は最も冷たい仕打ちをしている教師なのです。

目をかけているがゆえに厳しく当たるのです。叱られるとは期待されているということなのです。学生の皆さん、先生が「はいはい」と言うことを聞くようになったら、あなたはもう終わりですよ。

新たな発見

8月1日(火)

日本語教師養成講座の講師をしていると、やはり自分の教え方を振り返ることが多くなります。ことに今回は、日本語文法全体を概観するというよりは、初級の文法を集中的に講義していますから、なお一層そういう傾向が強くなっています。教科書をもう一度も二度も読み返してみると、講義内容に関連して、教科書の編者の苦労が見えてきたり、逆に教科書の粗が浮かび上がってきたりしています。

そうすると、自分の教室での教え方の過不足も感じられ、思わず反省したりします。ここは私の思い入れが強すぎたとか、こんな突っ込み方じゃ編者が泣きそうだとか、あれこれ思うところがあります。今学期も初級クラスに入っていますが、そこは初級の終わりのレベルで、初級の入口に近いほうは、このところ代講でたまに入るだけです。ですから、せっかく反省してもそれを生かすチャンスがあまりないことが残念なところです。

でも、上級や超級の学生ですら、こっそり初級文法を間違えていますから、それを正したり未然に防止したりする際に、今回の知見が日の目を見るのではないかと思っています。養成講座の講義でも、この文法は初級で勉強しますが実際に使えるようになるのは中級になってからだよとか、これが使いこなせたら上級だねとか、そんな話もします。こういう話ができることこそが、私が養成講座をする意義であり、同時にこの学校の養成講座の特色だとも思います。

私に講義のネタを提供してくれる学生の皆さんに対して、感謝してやみません。

聞く耳持たず

7月15日(土)

WさんがS先生に叱られています。「あなたは私の話を聞いていませんね。私が話しているとき、自分が話したいことをずっと考えています。そして、私の話が終わると自分が言いたいことを言います。私の質問には答えてくれません。あなたは日本語を話していますが、会話はしていません」

S先生の言い方はかなりきついですが、こういう学生がいつの学期も必ずいることは事実です。ちょうど去年のこの学期に上級クラスで受け持ったYさんもそんな学生でした。Yさんが進学相談に来た時、私はYさんの話を一言も聞き漏らすまいと集中して耳を傾け、Yさんの疑問点や悩みが少しでも解決するようにと情報を伝えたりアドバイスしたりしました。しかし、Yさんの反応は私の話を受けてはね返ってくるものではなく、あさっての方から新たな球が飛び込んでくるようなものでした。ですから、議論がさっぱり深まらず、私の回答がYさんのためになったのかどうかさっぱりつかめず、それこそのれんに腕押しのような無力感脱力感徒労感に襲われました。

学生たちは会話が上手になりたいと言います。だから話す練習をしたいと言います。しかし、会話の50%は相手の話に耳を傾ける役です。聞き役を務められない人は会話をする資格がないと言えましょう。ですから、S先生のお怒りはごもっともなことであり、Wさんには大いに反省してもらいたいところです。

会話が成り立たない人って、性格なのかなと思うこともあります。上級のYさんだってそうなのですから、単に日本語力の問題ではなさそうです。KCPでは一番下のレベルから「話を聞く」教育をしてきています。それでもWさんやYさんのような学生が出てきてしまいます。S先生のように、粘り強く叱り続けるのが一番なのでしょう。

いいとこ取り

7月4日(火)

養成講座の授業をしました。今学期と来学期は養成講座と日本語の通常授業と受験講座の3種類の授業を並行して進めることになります。使う脳みその場所が少しずつ違うので、忙しくもありますが、気分転換にもなります。

私はいろんな職場で働きましたが、どこへ行ってもつぶしが利くというか何でもこなすというか、何か1つをどこまでも深く追究するという仕事のしかたをすることがありませんでした。それはそれで面白いのですが、元研究者の端くれとしては、心のどこかに1つの分野を掘り進みたいという気持ちはあります。

私が養成講座で担当しているのは文法を中心とする科目で、掘り下げようと思えばいくらでも掘り下げられる分野です。独自の文法理論を打ち立てようなどとは思っていませんが、自分なりに日本語文法を矛盾なく理解したいとは思っています。私にとって日本語教師養成講座は、その成果の発表の場でもあるのです。

ですから、私の授業は、諸先生の理論のいいとこ取りをして、さらに私の実感を加え、それらを私の独断で組み合わせて、1つの体系っぽく仕上げたものです。ある先生の理論に沿って教えていこうと思っても、どこかに納得のいかない部分が生まれ、それを何らかの形で補っていくうちに、こんな形になってしまいました。

じゃあ、すべてのことが丸く収まっているのかといわれると、そうでもありません。疑問に思いつつ教えている部分もあります。日本語がわからない学習者に教えていく分には大きな問題は生じないだろうと頬かむりをしている項目も、実はあります。それがどこかは、学生には秘密ですけどね。

明日も授業です。授業を楽しみたいです。

1+1=3

7月1日(金)

日本語教育能力検定試験に備えての勉強会が開かれています。O先生やF先生が中心となり、出題される各分野について理解を深めていこうという主旨です。夏から秋にかけて鍛えていけば、10月の本番で大きな力が発揮でき、合格につながることでしょう。

私がこの資格を取ったのは20年も前の話で、養成講座に通っているときです。O先生やF先生はようやく物心がついたころでしょうか。私も、やはり、その養成講座が主催する対策講座のようなものを受けました。自分でテキストを読み込んで勉強してもよかったのですが、それだと要点を絞り込めないものです。また、自分の力がどのレベルなのかもつかめず、のんびり構えてしまったり必要以上に焦ってしまったりして、不首尾に終わる心配もありました。

今とは試験の内容が幾分異なりますが、文法や語彙や音声などの日本語そのものに関する分野と、広い意味での言語学、それから世界と日本の地理・歴史に関わるところは自信がありましたから、そこでがっちり点数を稼ぎ、教えた経験がないと答えにくい部分での失点をカバーしようという作戦を立てました。幸いにもそれが奏功し、合格できたという次第です。

こういう作戦を立てられたのも、周りと自分を比較できたからです。自分の強みと弱みがわかったので、強みをさらに強化することで弱みを補えばどうにかなりそうだというのが見えてきました。日本語教育能力検定試験は、ある基準点を取れば合格というのではなさそうで、それと同時に上から20%ぐらいに入っていなければならないようでしたから、“孤独な戦い”は独りよがりにつながりかねない要素がありました。

勉強会に参加している皆さんはどうでしょう。1+1が3になればいいですね。

チェック

6月5日(月)

朝、他の先生方がいらっしゃらない職員室で仕事をしていると、「先生、先週の土曜日のEJUをチェックしてもいいですか」と学生に声をかけられました。一瞬戸惑いましたが、すぐに、この学生は「先々週の土曜日に受けたEJUの模擬試験の結果を知りたいんですが、教えていただけませんか」と言いたいのだろうと見当がつき、「授業のとき、クラスの先生が結果を配りますから、それを見てください」と答えました。学生は納得した顔で去っていきましたから、当たりだったに違いありません。

まあ、こんな聞き方をしてくるようでは、そんなに好成績ではなさそうです。多少読解ができたとしても、230点止まりでしょう。もしかすると、初級の学生だったのかもしれません。

それはさておき、“チェック”です。今朝の学生は、どんな意味で“チェック”という単語を使ったのでしょう。「自分の目で見て(模試の結果を)確認する」という意味だとしたら、“チェック”本来の意味の土俵際で残っているかもしれません。しかし、「試験結果をくれ」という意味なら、遠慮がちに言おうとしたとしても、寄り切られているでしょう。上述の正解例は、EJUの模試を受けるぐらいの学生なら、既習の文法です。これドンピシャリじゃなくても、それに近い言い方はしてもらいたかったです。“チェック”という焦点の定まらない言葉に逃げてほしくないところです。

とはいえ、学生ばかりを責めるわけにはいきません。教室には“チェック”があふれています。「先生、志望理由書をチェックしてください」「宿題をチェックします」「忘れ物がないかどうか机の中をチェックしてください」…まだまだ例はいくらでも出てきます。これだけ日々“チェック”を聞かされていれば、土俵際用法が現れたとしても不思議はありません。

学生は教師の姿を映す鏡です。週明けからいきなり反省させられました。