Category Archives: 教師

飛び交う

10月12日(金)

教室のドアを開けると、入口の近くからも奥の方からも鋭い視線が飛んできました。スマホをいじっていた学生まで、わざわざ手を止めてキッとこちらをにらみます。新学期の初日は、学生も教師も緊張するものです。

教師は、事前に名簿も見られますし、新たに担当することになった学生についての情報を周囲の教師から集めることもできます。しかし、学生のほうは、始業日前日にクラス名と教室の連絡はもらいますが、そのクラスの担当教師については“当日のお楽しみ”です。ですから、教師が教室に足を踏み入れるやガンを飛ばすのです。

学期休み中にさんざん養成講座の授業をしてきましたが、やはりクラス授業は別格です。人数も多いし、手のかかる度合いも格段に違います。少なくとも3か月間、上級だとさらに長い期間、運命共同体ですから、お互いにどんな人間なのだろうと気になって当然です。

さて、今学期の最初のクラスは上級で、1/3ぐらいが以前どこかのレベルで受け持ったり受験講座で教えたりしたことのある学生でした。鋭い視線の後、知った顔が来たと表情が和らぐ学生もいれば、初顔合わせで厳しい顔つきのままの学生もいました。最近学校の内外での学生たちの規律が緩んでいますから、学生の気持ちを和ませるようなことは言わず、そのままオリエンテーションに突き進み、引き締まった空気を持続させました。

やっぱり、期末テストの日まで、教室の中を勉強しようという雰囲気で満たしたいです。楽しいクラスも大切ですが、得る物の多いクラスにしていくことが理想です。

受験が迫る

10月5日(金)

昼ごはんを食べに行こうとしていたら、Cさんが「急いで在学証明書がほしいんですが…」と申し込みに来ました。きのう、出席成績証明書を申し込んだばかりなのに何事かと聞いてみると、募集要項をよく読んだら日本語学区の在学証明書が必要なことがわかったとのことでした。Cさんは超級クラスの学生ですから、募集要項を隅から隅まで読んだ上で必要書類を全部申し込んだとばかり思っていたのですが、読み落としがあったようです。

中級ぐらいまでの学生だったら、一緒に募集要項を読んで何を申し込むべきか確認してから、書類の申し込みをさせます。超級だったら、しかもできるほうの学生のCさんならそんな心配は要らないだろうと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。まあ、受験のときに日本語学校の在学証明書を必要とする大学は珍しいですから、いらないと思うほうが普通かもしれません。

昼食から戻ってくると、Lさんが来ていました。T大学には出願したのですが、もう1校受けたいといいます。Lさんが勉強したいことは、どこの大学でも勉強できることではありませんから、手当たり次第に出願するというわけにはいきません。しかも、Lさんはビザの関係上12月で帰国しなければなりませんから、試験日が1月の大学には出願できません。そんなわけで、非常に狭い範囲から受験校を選ばなければなりません。LさんのEJUの成績も考慮して、いくつかの候補校を選びました。その後しばらく、Lさんはその候補校を自分のタブレットで調べていました。

授業はなくても、受験は進んでいきます。

出番なし

9月20日(木)

受験講座の時間が終わってもLさんはなかなか帰ろうとしません。私が帰り支度を進めていると、「先生、今からT大学に電話をかけます。ちょっと一緒にいてください」と声をかけてきました。Lさんは、今、ビザ更新中のため、手元に在留カードがありません。ですが、T大学の出願に在留カードのコピーが必要なのです。この場合、どうすればいいかということを聞こうとしているのです。

Lさんは上級の学生ですから、日本語で電話をかけたこともあるでしょうし、たとえかけたことがなくても教師が手伝ってやる必要などありません。でも、大学出願という一生がかかってくる手続きに関する問い合わせですから、いざというときの保険として教師を1人確保しておこうという気持ちもわかります。というわけで、しばらくそばで話を聞いていることにしました。

Lさんは少しびくつきながらも、話し方に多少強引なところもありましたが、在留カードがない場合はどうしたらいいかという一番肝心な質問の主旨は、きちんとT大学の担当者に伝えられていました。向こうからの返答を聞き取って理解するのに多少苦労していたようですが、住民票の写しで代替可能だということがわかり、ホッとしていました。すると今度は住民票の写しをもらうにはどうしたらいいかという疑問が湧いていましたが、これは私にでもどうにか答えられます。

最後まで私の出番はありませんでした。結構なことです。Lさんは初級から見てきており、会話がなかなかうまくならないと思っていましたが、この件に関しては当初の目的を立派に果たしました。成長を感じさせられました。

朝の電話

9月19日(水)

「はい、KCPです」「Jと申しますが、熱があるので学校を休んでいただけませんか」

電話の主は、上級の私のクラスのJさんです。自ら名乗ったところはさすが上級ですが、“休んでいただけませんか”はいただけません。ボケをかましてやることにします。

「休んでいただけませんかと言われても、休みにするわけにはいきませんねえ」「でも、体の調子が悪いです」「はい、そういうときは何と言えばいいんですか」「熱があるので学校を休んで……大丈夫ですか」

出た! どんな場面でも通用するオールマイティーワード・ダイジョウブ。初級の学生ならともかく、上級の学生には使ってほしくありません。困らせてやることにします。

「何がどう大丈夫なんですか」「熱があるので学校を休みたいです」「休みたいです? はい、レベル1」「ええっ? …休んでくださいませんか」「私が休むんですか。いやです」「いいえ、休むのは私です」「じゃあ、何と言って断ればいいんですか。もう一度きちんと言ってください」「休みたいんですがいいでしょうか」「私の後について一緒に言ってください。『熱があるので休ませていただけませんか』」「熱があるので休ませていただけませんか」

病人相手にちょっとかわいそうだったかもしれませんが、声の張りからすると微熱で念のため休む程度でしょうから、ちょっと訓練してやりました。上級には上級らしい話し方をしてもらいたいですから。Jさんにしてみれば、電話を取ったのが私だったというのが、運の尽きだったというところでしょう。

さて、Jさん、今度休む時はちゃんと言えるかな…。

電話をかけなければなりません

9月8日(土)

昨日レベル1のクラスで回収した文法の宿題をチェックしました。レベル1の最初のころは「~です」とか「~ます」とか言っていればいいのですが、期末テストが近づいてくると、反射神経だけではすまないような、頭を使わなければならない問題も出てきます。

例えば、“(駅で)危ないですから後ろから『押します』”とあって、この『押します』を適当な形に変換するというものです。直前の問題の答えが“~なければなりません”だからといって、惰性で“押さなければなりません”などと書いたら、教師の逆鱗に触れてしまいます。“いい天気ですから傘を持って行かないでください”というのも、何も考えずに答えているなと思われてしまいます。

そんな中に、“夜遅いですから、電話を『かけます』”という問題がありました。私の感覚では、「かけないでください」か「かけてはいけません」ですが、「かけなければなりません」という答えが少なからずありました。できる学生でもそう答えていました。もしかすると、学生たちの感覚では、夜遅いからこそ、友達や家族と思い切り話ができる、宿題や受験勉強が終わってからの貴重な気晴らしタイムだという意識があるのかもしれません。

私が学生たちと同じ年代のころは携帯電話がありませんでした(あっても非常に高かった)から、自宅から通っている友人に夜遅く電話をかけるのは気が引けました。でも今は、電話は個々人が所有するものですから、その人が夜型人間だったら、むしろ夜遅くかけるべきなのです。

言葉は生ものですから、その使われ方は世の中の動きにつれて変わっていくものです。「かけなければなりません」に×をつけながら、10年後にこの問題はどうなっているのだろうと思いました。まあ、そのころまでには、宿題の採点は教師するのではなく、AIの仕事になっていて、私の悩みなど雲散霧消するような気の利いた直し方をしているかもしれません…。

整理整頓

8月14日(火)

中間テスト。定期テストの日は、いつもとは違うクラスの試験監督をしますから、いつもとは違う教室のパソコンを使います。こういうときに私がすることは、デスクトップの整理です。私は、デスクトップ上にいろいろなアイコンが散らばっていると、気持ち悪くてなりません。自分が入るクラスの教室のパソコンは、週に1~2回チェックしますからデスクトップが満天の星状態になることはありません。しかし、中間テストや期末テストで入るクラスは、そうはいきません。好き勝手なところにショートカットやパワーポイントや動画や音声やワードなどが置かれ、このクラスの先生方はこれで平気なのだろうかと思わずにはいられません。

デスクトップにアイコンがたくさんあると、どれが本当に必要なものかわからなくなると思います。職員室の私のパソコンは、一目で把握できる程度の数のものしかデスクトップに置いてありません。画面左端から3行以内と自己規制しています。それよりも多くなったら、あまり使わないのをどこかにしまいます。たまに早々としまいすぎて、引っ張り出すのに時間を食ったり、またデスクトップに戻したりということもありますが、長期間の平均を取れば、片付けてしまったほうが効率的だと信じています。

じゃあ、ほかは何でも片付いているのかというと、決してそんなことはありません。パソコンの中の仮想的な机の上ではなく、リアルな机の上は書類が積み上がり、パソコンのモニターの横にはファイルが立ち並んでいます。こういうものを思い切って処分できたら気分がいいのでしょうが、なかなかそうもいかないところが辛いところです。

中間テストが終わり、採点すべき答案用紙や原稿用紙が、積み上がってしまいました。

病人を作る

7月18日(水)

これをお読みの皆さんは、「~しませんか」と「~しましょうか」の違いがわかりますか。「ます」の応用ですから、日本語学校では初級のうちでも比較的最初のころに勉強します。では、「~んです」はどんな時に使いますか。

これらは、一般の日本人にとってはあまりに日常的過ぎて、意味や用法を意識することなどありません。しかし、日本語学者にとってはこれらをいつどんな状況で使うかは大問題です。こういった文末表現は、使い方を一歩間違えると、相手に違和感どころか不快感を与えかねません。ですから、日本語教師としては、使い方をきっちり把握し、それを学習者に伝え、たっぷり練習させ、正しい用法を定着させなければなりません。

ということは、日本語教師養成講座では受講生に文末表現の明確な方たちを与えなければならないということです。感覚的に理解しているだけでは不十分で、日本語を習い始めてさほど時間の経っていない学習者に「ようです」と「らしいです」の違いが伝えられるくらいに、文末表現に精通していることが求められます。

「よ」「ね」のような終助詞も含めて、話し手が文全体をどういう気持ちで言ったかを表す表現をモダリティといいます。このモダリティを今期の養成講座受講生に講義したのですが、受講生の皆さんは今まで気にも留めなかった言葉遣いに目を向けさせられて、それこそ目を白黒させていました。

他人の話し言葉が気になってしょうがなくなりそうだなどと言っていましたが、それぐらい自分の身の回りの日本語に注意を行き届かせないと、日本語教師としてやっていけないと思います。まあ、気になってしょうがないというのは、日本語教師病でもあるんですが…。

声が若い

7月14日(土)

「はい…」「N先生のお宅でしょうか」「はい、いつもお世話になっております」「こちらこそお世話になっております。KCPの金原と申しますが、先生はご在宅でしょうか」「はい、少々お待ちくださいませ」…という電話のやり取りをした翌日、N先生から「家内が金原先生ってずいぶん声がお若いって言うんですよ」と言われました。自分では、最近声がかすれることもあり、年相応の声じゃないかと思っています。

N先生の奥様以外の方が聞いても声が若いとしたら、それは、ひとえに、毎日教室で発声特訓をしている(させられている?)からにほかなりません。20人を向こうに回して3時間クラスを仕切りまくるとなると、ただ単に大きな声を出せばいいというわけではありません。よく通る声、響く声を出さなければなりません。意識しなくてもそういう声が自然に湧いてくるくらいでなければ、日本語学校の教師は務まりませんね。

午前中、受験講座のEJU読解を担当しました。通常クラスよりも若干多めの学生を若干広めの教室に入れて、試験問題の解説をしました。その後、今年の大学入試の傾向などについて話しました。無意識のうちにいつもよりも声を張っていて、でもまだ出力に余裕がある自分に気が付き、だからやっぱり本当に声が若いのかなあなんて、うなずいている学生を見渡しながら、そんなことを考えていました。

私は普段はそもそもあまりしゃべらないし、しゃべっても大きな声は出しません。携帯電話の声も必要最小限です。だから、もし、この仕事をしていなかったら、元気なくぼそぼそとしゃべるおじいさんだったかもしれません。

火曜日から受験講座の理科が始まり、のど全開の日々が続きます。明日とあさってはぼそぼそと省エネで過ごしましょう。

微妙な間合い

7月10日(火)

新学期の初日は、教師のほうも緊張します。上級は持ち上がりのこともあり、それだと知った顔ばかりですからそうでもないのですが、中級や初級はまるっきり新しい顔と出会うわけですから、プレッシャーも感じます。今朝はどことなくそわそわしたベテランの先生方が大勢いらっしゃいました。

私も全然知っている名前のないクラスに入りました。そういえばこの顔はどこかで見たなあというのが2、3人いましたが、職員室で説教されているところだったり運動会の何かの種目でちょっと目立っていたりということで、私と直接的なつながりのある学生はいませんでした。こういう場合、最初にどのくらいの距離をとればいいかが意外と難しいんですねえ。1人でもよく知っている学生がいれば、その学生を突破口に距離を詰めていけるのですが、全員全然知らないとなると何か細工を施さねばなりません。

でも、私は1回の授業だけで学生に近づこうとは考えていません。半月ぐらいかけて信頼関係が築ければそれでいいと思っています。1学期は3か月ですから、残りの2か月でその信頼関係をベースに、クラスの学生たちを伸ばしていくことを考えます。学生のほうから相談を持ちかけられるようになります。こうして生まれたつながりは、その学生が卒業するまで続きます。

明日、あさってと、それぞれ別のクラスに入ります。そのクラスでも同じように信頼関係の種をまきます。じっくり育てて、学期末には大きな果実を収穫するつもりです。

アイコンタクト

7月5日(木)

久しぶりに、新入生のプレースメントテストの監督をしました。誰も知った顔のいない、水を打ったように話し声どころか物音一つしない静かな教室に入っていくのは、冷たいプールに足を突っ込むようなピリッとした感覚があります。「おはようございます」と挨拶してみても、新入生は私以上に緊張していて、わずかに頭を下げる学生が2、3名いただけでした。

最初の科目が始まると、問題を見たとたんに早くも苦笑いを浮かべる学生がいました。まじめな顔で取り組んでいても、解答用紙を見ると右から左へ文字を写しているだけだったりしていることも、毎度のことです。全然わからなくて、制限時間が来るまで退屈そうにしている学生も数名いましたが、机に突っ伏して寝てしまわないあたりが、新入生らしいところでしょうか。良くも悪くもお互いの距離感がわかりませんから、安全サイドに走っているのでしょう。

学生が机の上から消しゴムなどの小物を落としてしまったとき、それを拾って机の上に載せてあげると、国籍性別年齢を問わず、みんなニコッとします。距離がちょっと縮まったかなと思いますが、試験中ということもあり、それ以上接近することはありません。

最後の科目は、問題用紙と解答用紙を提出したら帰ってもいいことになっています。これは学期中の中間テストや期末テストと同じですが、プレースメントテストでは大きく違うことがあります。

中間・期末テストでは、提出した学生は教室を出るとき、私のほうに顔を向けて「さようなら」とささやきかけるか、会釈するかするものですが、プレースメントテストではそれがありません。この違いが1学期間の教育の成果なのかなと思っています。

私の教室にいた学生たちも、9月の期末テストではさようならと目で挨拶して帰っていくんでしょうね。