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発見?

6月19日(火)

ゆうべ、帰宅間際にM先生から中級の読解の教材に使えそうな文章はないかと聞かれました。今学期私が担当しているレベルでもあり、常々読解教材の古さは気になってもいましたから、「探してみます」と引き受けました。

毎年度後半になると、私は超級クラスを担当し、そのクラスの読解教材は自前でそろえています。市販の留学生向け教材では易しすぎるのです。今年になってからも、候補となりそうな文章を少しずつ貯めてきましたし、去年以前に採集はしたけれども使うには至らなかったストックもあります。その中から手ごろなものを見つけようと、今朝出勤してから、まず、コンピューターの中を漁り始めました。

すると、わりと最近拾ってきた文章で、超級の読解にはちょっと歯ごたえがないかなというのと、おととしのストックで短めのと、2本よさそうなのがありましたから、それをM先生に紹介しました。

読解のテクニックを学ぶのなら、内容は多少古くても構わないじゃないかという意見もありますが、私は与しません。「吾輩」ぐらい古くなっちゃえばそれはそれで価値がありますが、「もうすぐ香港が返還されます」なんていうのはいかがなものかと思います。また、理系人間として古い技術を最新技術であるかのように扱っているような教材には一言物申したいです。

そういう観点から、鮮度の落ちにくいテキストを選んだつもりです。また、中級の教材ですから妙に韜晦した文章はいけません。論旨の明確なものが適しています。もちろん長さも考慮します。私が推薦した文章が来学期以降の中級読解教材になるかどうかは、まだわかりません。でも、超級の教材探しにもそろそろ本腰を入れなければと思いました。

チャイムが鳴るや否や

6月5日(火)

Bさんは今学期の新入生で、レベル1にいます。クラスの中では理解も早く、発言も多く、中間テストの成績も抜群でした。ですから、先週の面接の時に、次の学期にレベル3に上がるテストを受けたらどうかと勧めてみました。そのテストを受けるには担任のM先生の許可をもらう必要があります。そして、昨日、BさんはM先生から許可を得ようとしましたが、断られました。

終業のチャイムが鳴ると同時に、Bさんはメールを見ました。そのとき、M先生はまだ話をしていたそうです。M先生としては、まだ授業が終わったとは思っておらず、授業中に携帯電話を使ってはいけないというルールに触れたと判断したのです。ですから、ルールも守れない学生に上のレベルに進級するチャンスを与える必要はないと考え、Bさんの要求を拒否したというわけです。

KCPは勉強さえできればそれでよいというスタンスは取っていません。たとえチャイムが鳴っても、教師が「終わります」と宣言しない限り授業中です。もちろん、チャイムが鳴ってから10分も15分も授業を続けるというのは非常識とされてもしかたありません。しかし、チャイムの直後に携帯をいじったら、学生側がフライングを取られても文句は言えないと思います。そのとき教師の話に全く注意を向けていないのですから。

受験講座を終えて職員室に戻ってきたらBさんが泣きついてきましたので、そんな話をして、M先生に詫びを入れて、改めてチャンスをもらうようにとアドバイスしました。こういう苦労が日本語を伸ばすのです。塞翁が馬になってくれたらいいのですが、果たしてどうでしょう。

復活

5月25日(金)

金曜日は、みどりの日、運動会、中間テストと3週間連続でつぶれていましたから、ほぼ1か月ぶりに金曜の初級クラスに入りました。4月の最終週は御苑でお花見だったのでろくに授業をしませんでしたから、ほとんどアウェー状態でした。この間、諸般の事情であるクラスに集中的に代講に入りましたから、そちらのクラスのほうが事情がよくわかるほどです。まあ、こういうのは惑星直列みたいなレアケースでしょうが…。

出席を取る時はごくわずかな特徴的な学生しか覚えていませんでした。でも、幸いにも返却物が何種類もあったので、それを返しながらどうにか顔と名前を一致させていきました。だんだん勘を取り戻してきましたが、まだパキパキと指名する段階には至りません。できる学生だと思って難しい問題を当てたら、その学生はあわあわするばかりで大いに当てがはずれたり、集中していない学生を指名したつもりがその隣の隣の学生だったり…。このクラスは机の上に置くネームプレートを作っていたことすら忘れていました。

初級は特に顔と名前をしっかり覚えて、次々と指名して緊張感を持たせながら練習していくことが肝要です。頭で理解していても、口が回らなければコミュニケーションは取れません。コミュニケーションを無視した語学の勉強は、畳の上の水練に過ぎません。個人指名がうまくいかない分をコーラスでごまかしちゃいましたが、これじゃあ必要最低限をかろうじてこなしたっていうだけです。

今学期は期末テストも金曜日ですから、このクラスの私の授業はあと3回。頭の中の配線が復旧しつつあります。学生たちの実になる授業をしていきたいです。

ねじを締める

5月21日(月)

先週金曜日の中間テストには全員顔をそろえたのに、今朝8:55頃、私が教室に入ると、まだ半分ぐらいしか来ていませんでした。その後の5分間でばたばたと来たのですが、9時の時点で5名が欠席。うち1名は出席を取り終わった直後に入室したので大目に見るとしても、マイナス4名。最終的には欠席は2名でしたが、気が緩んでいることは否めません。遅刻の言い訳が寝坊ですからね。中間テストは、終わりじゃなくて、まだもう半分残っている、文字通り中間点なんですがね。

中間テストまで来ると、各クラスのカラーが明確になってきます。今学期の私のクラスは、元気はいいのですが教師に頼りたがるきらいがあります。教師の問いかけが、誰もわからない答えられないとなると、教師が答えをいうのを期待する目の色になります。わからないながらも答えを探し続けるとか、考え抜くとか、そういう意志が弱いのです。ですから、後半戦は私も容易に答えを言わず、どうにか答えにたどり着く苦労を学ばせたいと思っています。

さて、その初日。読解で指示詞の指す内容を問いかけました。まず、セオリーどおり、指示詞の直前の文を答えてくる学生がいました。しかし、私が指示詞を直前の文に置き換えて読み上げると、意味不明であることが明らかになりました。こうなると、黙りこくってしまいます。時間がかかることを覚悟の上で、動作主を考えさせ、前段落からの文章の流れを把握させ、その中において問題となっている指示詞が何を示しているのか、まとめさせました。

比較的カンのいい学生は、答えが見えてきました。私のヒントを組み合わせて、不完全ながらも「内容」にたどり着いた道筋を語ってくれました。まあ、初回ですから、このくらいにしておきましょう。次のレベルにあがるまでには、もう少しどうにかなってなきゃね。

居眠りするとよくわかる

5月14日(月)

Jさんが授業中寝ていました。こういうとき、私はそれをネタにその学生をいじります。「授業中に寝るのは教師に対して失礼というものだ」「Jさんは遅刻した。しかも授業中寝ている。どうしようもない学生だ」なんていう調子で、その日に習う文法や語彙の導入や例文などに使います。ちゃんと授業を聞いている学生にとっては、目の前に実物があり、その単語や文法を使う状況が話し手の心理が明確に見えますから、これほどわかりやすい教材はありません。教師側も余計な説明が不要ですから、手間と時間の節約になります。

いじられる学生はたまったもんじゃありませんよね。クラスメートの前で恥をかかされて、目が覚めた時には説明がすべて終わっており、わからないのは自分だけなのですから。自分が身をもって例を示したおかげで、他の学生たちは理解が進んでいるのに…。事実、Jさんが例を示してくれた文法項目は学生たちの理解がすばらしく、書いてもらった例文も的外れなものが全くありませんでした。

学生の名誉を傷つけるような例文を提示するのはいかがなものかという意見もあるでしょうが、たたき起こして衆人環視の中で説教するほうがよっぽど不名誉だと思います。そっと起こして授業後にこっそり叱ってあげるほど、私は心やさしい教師ではありません。授業時間を割いて説教したら、その間は起きていた学生にとっては無駄な時間です。そっと起こすだけでは、他の学生への示しが付きません。もちろん、一罰百戒として、1人の学生を例に取り、授業内でクラス全体に向けて訓戒を垂れることもあります。

Jさんがこれで懲りるかどうかはわかりません。懲りなかったら例文でいじって、授業後に残して、ねちこち責めていくまでです。Jさんのことは、明日の先生に引き継ぎます。

5分前の注意

4月23日(月)

はい、あと5分です。自動詞他動詞、助詞、小さい「っ」のあるなし、てんてん(゛)のあるなし、自分の答えをもう一度よく見てください。残念な間違え方をしている人がたくさんいます。

中級クラスの文法のテストがありました。本当はもっと具体的に注意したかったのですが、他のクラスとの公平さを考えると、これが精一杯でしょう。

試験監督中は、学生の答えをのぞき込むぐらいしか仕事がありませんから、教室内をうろつきながら学生がどんな間違いを犯しているか観察します。自分が教えたところを間違われると、教え方が悪かったのだろうかと思ってしまうこともあります。学生の顔を見て、こいつは私の話を聞いていなかったよなあと、学生の罪をなすりつけることもあります。学生のほうは、テストに出されて初めてその文法の重要性に気づくこともあるでしょう。

結局、終了5分前に注意を与えても、間違いに気が付くのは優秀な学生です。お前のために注意してるんだよっていう学生に限って、あきらめてしまっているのか、机に伏したままです。殊勝な顔をして見直しても、間違いに気づかぬままということが多いです。今朝も、私がみんなに見直してほしかった問題は、過半数が間違った答えのままでした。

採点してみると、その問題ができた学生は、だいたい成績上位者でした。不合格者はその問題を落としていました。すなわち、その問題は出来不出来の弁別機能がとても高い問題だったということです。決して難しい問題ではないのですが、中級の学生の急所を突く問題だったとも言えます。

テストを返すときに、どのようにフィードバックしましょうか…。

引継ぎ

4月17日(火)

私は先学期卒業生のクラスを持っていましたから、今学期は受け持ったクラスの学生には初顔合わせが多く、誰がどんな性格なのか、何に興味を持っているのか、入学以来今までどんな留学生活を送ってきたのか、これからどうするつもりなのかなど、学生を知るヒントを全然持ち合わせていません。

毎学期、前学期の担任から今学期の短教師へと学生情報の引継ぎが行われます。昼休み、先学期に受け持っていたO先生やA先生からお話を伺いました。もちろん、すでに登録されている情報である程度はわかりますが、細かいことは担当なさった先生の口から直接お聞きするに勝るものはありません。

今、私のクラスで一番問題になっているIさんは、先学期も遅刻や欠席が目立っていたそうです。進路も大学に行くということしか決めておらず、具体的に何を学ぶかは未定です。「そのくせ」なのか「だから」なのかは議論の余地がありますが、6月のEJUに出願していません。想像以上に難敵のようです。

Cさんは友達がみんな進学してしまい、学校内で1人ぼっちだとか。先学期は自分だけ進学に失敗し、モチベーションがかなり下がってしまった時期もあったそうです。確かに、昨日あたりもいまひとつ周囲に溶け込めない様子が見られました。

こういう情報は、例えばIさんやCさんみたいな学生を意識して拾い上げていくという意味では、必要不可欠です。その反面、学生を色眼鏡で見てしまう危険性も蔵しています。学生の悪いところに目が行くようになってしまい、長所に気づかなかったら、学生を正当に評価したことになりません。いただいた情報を鵜呑みにせず、自分自身でよく咀嚼しながら活用していこうと思っています。

3つ3冊

4月11日(水)

始業日の大きなイベントに教科書販売があります。買ったばかりの新しい教科書を手にした学生たちは、いつの学期でもどのレベルでも、みんなぱらぱらとページを繰って、新しい本特有のインクのにおいを味わいます。私も、新しい教科書を受け取ると、後ろのほうのページを見ては難しさに戦きながらも、その難しいことを理解した日の自分を無理に想像してみたりもしたものです。

午後は、その教科書販売の補助をしました。初級レベルの各クラスの学生が、クラスの先生に連れられて、今学期使う教科書や教材を買っていきました。

A先生のクラスは、KCPで勉強して2学期目の学生が主力です。2学期目の学生に必要な教科書教材は、3冊です。A先生は、各学生にそれを全部買うかどうか、確認を取ります。

A先生:Bさん、教科書は3つですか。

学生B:はい、3つください。

私:はい、3冊ですね。どうぞ(と言って、教科書3冊を手渡す)。

A先生:次の人も3つですか。

学生C:はい。

私:こちら3冊です(と言って、教科書3冊を手渡す)。

A先生:(次の学生と目を合わせて)3つですね。

学生D:3つ、必要ですか。

A先生:はい、3つ全部使いますよ。

学生D:じゃあ、3つください。

私:はい、3冊、こちらです。

…。

学生たちは、本を数える時には「冊」という助数詞を使うことは、前の学期に勉強しています。ですから、教師が本を「3つ」などと言ってはいけません。学生の前でA先生に注意したら面目丸つぶれですから、くどいほど「3冊」と言い続けて気づいてくれるのを待ったのですが、A先生はずっと「3つ」でした。

もう一つ下のレベルなら、指を3本立てながら“教科書3つ”もありでしょう。でも、「冊」が既習の学生にとって、教科書販売は“「冊」はなるほどこういうときに使うんだ“という実例を見せる絶好機でした。それをみすみす見逃してしまったのはいただけません。

日本語教師にとって語彙のコントロールは頭の痛い問題です。難しすぎる言葉を使わないようにという出力抑制型のコントロールが普通ですが、平たい表現に傾き過ぎないという意味の語彙コントロールも同じぐらい重要です。

思い出

4月4日(水)

3月に卒業した学生たちの進路をまとめました。進学した人が一番多いですが、就職した人もいれば帰国した人もいます。夢を叶えた人もいれば、夢が破れた人もいます。計画どおりに歩んでいる人もいれば、入学した時とは全然違う方向に進んだ人もいます。努力が報われた人も、報われなかった人もいます。

概して言えることは、自分自身ときちんと向き合った人は、たとえ来日時の思いとは違っていても、将来に向けて着実に進んでいるのに対して、行き当たりばったりだったり自分を正しく評価できなかったりしていた学生は、いったいどうしちゃったんだろうっていう進路になっています。CさんやGさんやLさんは、残念ながら、どうしちゃったんだろう組です。

この3人は、入学の学期に私のクラスでした。Cさんはしっかり者のZさんと友達になりました。でもZさんのいいところを見習うことなく、1年で大学進学したZさんと離れてからは、がたがたと崩れていきました。Gさんの辞書には「完璧」という言葉はないようで、何もかもが中途半端でした。何度叱られても蛙の面に水で、卒業後の進路も中途半端なままでした。Lさんはどこか斜に構えたところがありました。自分では冷静なつもりだったのかもしれませんが、自分の将来に対しても熱くなれず、流されるままに進学したように思えてなりません。

鉄を熱いうちに打たなかった私が悪かったのかなあと思いながら、3人のデータを入力しました。3人はKCPでの留学生活をどう思っているでしょう。新しい世界では、同じ轍を踏まないようにしてもらいたいです。

もちろん、そのクラスはそんな学生ばかりではありません。Lさんと仲のよかったDさんは、山あり谷ありの留学生活でしたが、大きく成長したと思います。最後の学期も私が受け持ち、大人になったと感じさせられました。最上級クラスに上り詰めて進学もきちんと決めての卒業ですから、立派なものです。

今週末は、新入生のプレースメントテストです。どこかのクラスで新入生を受け持つことでしょうが、卒業までに学生自身が成長を実感できるように育てていきたいです。

先生こそ例文作り

3月24日(土)

養成講座の初級文法の最終回は、例文の作り方を取り上げます。日本語教師を目指す人たちは、とかく文法を言葉で説明しようとします。しかし、特に初級クラスでは、言葉による説明はあまり効果がありません。だって初級ですよ。言葉がわからないから初級にいるのであり、その人たちに言葉で文法や単語の意味を説明しようったって、土台無理な話です。言葉によらずに説明するには、例文が最も有効なのです。

でも、漫然と作っていては、説明力のある例文は生まれません。寸鉄人を刺すような例文を作るにはどうしたらいいかということになるのです。はっきり言って、私の話を聞いたからといってすぐにそういう例文が作れるようにはなりません。文法や単語の意味の構成要素を抽出し、それを際立たせるような例文を考え出します。これができるようになるには、残念ながら訓練を積むしかありません。作り慣れてくれば、文法や単語の意味の特徴が見えてきて、それを組み合わせた例文も、「う~ん」とかうなっているうちに作れるようになります。

また、例文はドリルの基本材料にもなります。単に機械的に言葉を入れ換えていくだけでは、練習する側も流れ作業になってしまい、覚えてほしいことが定着しません。学生の印象に残るドリルのキューは、例文作りから得られるものです。私は授業で遅刻した学生や前日欠席した学生をよくいじります。そういう学生をネタに文法導入するのにも、例文作りの訓練が生きてきます。

受講生の皆さんはどう感じてくれたでしょう。これからも講義やら実習やらが続きますが、例文作りの練習も忘れないでもらいたいです。将来確実に役に立ちますから。