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神様を生む

1月8日(火)

「留学生って、すごいんですね」――何がどうすごいんだと思いますか。養成講座の文法で日本語の動詞の話をしたら、養成講座の受講生のみなさんが異口同音にこんな感想を漏らしました。

普通の日本人は、動詞の種類とか活用形とか意識しません。意識しなくても使い方を間違えることはないのですが、五段動詞か一段動詞かとか、活用形を導き出すルールとかを問われると、すぐには答えられません。授業見学でそういうのをすらすら答えたり、あっという間に活用形を作り出したりする留学生を見ていたので、「留学生はすごい」という感想になったのです。

日本語の動詞は、英語やフランス語やドイツ語などの動詞に比べたら活用の規則性が高いです。しかし、活用形を作るルールは厳然と存在し、日本語学習者はそれを覚えて瞬時に使いこなさなければなりません。その日本語学習者に日本語を教える日本語教師は、そのルールについて精通し、少ないとはいえ存在する例外も落とすことなく教えていかねばなりません。

感心したりつまずいたりで、動詞の話は1回では終わりませんでした。これも想定内のことです。でも次回は自動詞、他動詞、瞬間動詞、継続動詞、状態動詞、第4の動詞、変化動詞、動作動詞など、今回以上の山場が待ち受けています。そのまた次は助詞ですから、さらにもっと大発見とその反動の大混乱があるでしょう。それを通り抜けた頃には、留学生は神様になっているかもしれません。

日本語教師は、その神様を育て上げる職業です。聖職者であってもおかしくないのですが、神様の受験指導をしていると、泥臭い聖職者だと思わずにはいられません。

準備

1月5日(土)

来週から養成講座が始まります。私の担当は文法で、前期まで使ってきたレジュメもありますから、特に準備をする必要はありません。でも、同じ講義の繰り返しでは進歩がないので、そのレジュメに少し手を加えることにしました。そう思って、去年のうちから資料を集めたり個人的に研究を進めたりもしてきました。さらに、講義の際に出てきた質問や学生の誤用や養成講座の教室でひらめいて私がしゃべったことなども、適宜取り込むことにしました。

私のレジュメは、全てを網羅するというよりは、文法を考えるヒントとして使うことを目指しています。普通の日本人が、日本語教師というちょっと変な日本人になるためには、自分の使っている日本語をこんな目で見る必要があるんですよっていう、考え方の見本みたいなつもりで作っています。もちろん、日本語教育能力検定試験は意識していますが、それだけに狙いを定めているわけではありません。

私は文法や言葉の意味をねちこち考えるのが好きですから、養成講座の文法なら今の倍ぐらいの授業時間をいただいても喜んでやっちゃいます。そのために文献を漁ったり用例を探したりという過程にも魅力を感じます。でも、新学期が始まったらやはり通常授業に力を入れざるを得ませんから、こうして養成講座に時間を割けるのも今のうちだけです。

今の受講生の皆さんは、やる気も能力もお持ちの方々ですから、それに堪える講義をしていく義務があります。義務というと苦役のように響きますが、私にとっては楽しみな時間がもうすぐ始まります。

もう一度

12月18日(火)

先週から私が担当している上級クラスで実習してきた養成講座のKさんが、教壇実習で読解の授業をしました。授業の最初に「初めて教壇に立ち、緊張で膝ががくがく震えています」と言っていました。そういえば、私も教師なりたてのころは心臓がドキドキしたりのどがからからに渇いたりしたものだと思い出しました。もう、久しくそんな感覚とは縁が切れています。

昨日まで毎日のように教案を書いてきて私が手を入れるというやり取りをしてきました。今朝、最新版をいただき、Kさんはそれに沿って授業を進めます。私は教案の各項目に実施時刻を書き入れます。Kさんは、最初のところで予定をオーバーしてしまい、最後のほうをはしょわざるをえなくなってしまいました。Kさんの偉いところは、はしょったにせよ、予定時間内に授業を終わらせたところです。時計が一切目に入らず、長時間の大演説をしてしまう実習生を今まで大勢見てきました。そういう方々に比べれば、この点だけでも評価に値します。

授業後、Kさんに聞いてみると、「もう一度同じところの授業をしてみたい」と、開口一番感想が出てきました。自分で自分の教案の不備に気付き、自分のパフォーマンスの不足を感じ、そこを直して再挑戦したいというのです。その意気やよしといったところでしょうか。教案の通りに進める難しさ、教案の通りに進めても押し寄せる未達成感、こういったことを乗り越えた先に本職の日本語教師があります。

私だって、毎日予定とは違った授業をし、ああすればよかった、これはするんじゃなかったなどと思いながら職員室に戻ります。でも、Kさんとは違って「予の辞書に“反省”という文字はない」とばかりに、すぐに忘れてしまいます。Kさんは伸び盛りですから、しっかり反省して次の実習に臨んでもらいたいです。

厳しいなあ

12月11日(火)

国の親御さんから学生を預かり、上級学校へと送り出す立場としては、その送り出し先からの情報は非常に意味のあるものです。本人の希望が第一ですが、少なく、時には偏った情報から進学先を決めようとする学生たちに治して適切なアドバイスを出すのが私たちの仕事ですが、その際に役に立つのが大学や専門学校の関係者からの情報です。インターネットのような誰でも接することができる情報源とは違うところからの最新の情報は、先んずれば人を制すではありませんが、進路指導に欠かせないものです。

B大学の先生がいらっしゃって、今年の入試の状況を教えてくださいました。それによると、B大学第1期は去年の2倍の学生が志願し、受験したそうです。その先生にとっても予想外の数字だったとのことです。定員厳格化の影響が出ていると、はっきりおっしゃっていました。

そのせいだけとは言えないでしょうが、KCPも2名の不合格者を出してしまいました。1名は日本語テストの成績が悪かったといいますから、大学の授業についていける日本語力が身についていなかったのでしょう。その学生のレベルからしても、やむをえないところがありました。もう1名は、志望動機が曖昧だったと指摘されました。レベルからすると日本語テストも面接も十分対応できるはずなのですが、それでもそう言われるということは、どうしてもB大学に入りたいという意志を表に出すことができなかったのでしょう。でも、この学生、去年だったら受かってたんじゃないかなあ。受験生が増えたためにあぶれてしまった感があります。

第2期はこれからですが、毎年、どこの大学でも、2期は1期より入りにくいです。B大学も第1期以上の激戦が予想されます。出願する学生には、志望理由をがっちり固めさせなければなりません。これは他の大学を受ける学生も同様です。まだまだ戦いは続きます。越年闘争です。

頭の整理

12月8日(土)

RさんはEJUの直前までほぼ無欠席で理科の受験講座に参加していました。先週から今週にかけて、そのRさんが志望理由書を書いています。理科系の志望理由書は、クラスの先生が持て余すことがしばしばで、私のところにお鉢がまわってくることが多いです。今回もその例に漏れず、私がRさんの志望理由書を見ることになりました。

Rさんはやりたいことが頭の中にあるのはいいのですが、そこに至る道筋が描けずにいます。要素技術とその応用が同列に語られ、志望理由書を読んだだけでは大学で何を勉強しようとしているのかわかりません。大きな目標と小さな目標とが志望理由書上で雑居しているのです。

まず、Rさんの頭の整理をします。自然エネルギーの有効活用などというような地球規模の大目標と、電気自動車のエネルギー効率改善など、生活のそばの目標に分けます。その小さいほうの目標を実現するためにはどんな技術開発が必要か、それを実現するには大学で何を学べばいいのか、QAをしながらRさんの学習計画に輪郭を与えます。そして、そういう勉強をするのにRさんの志望校が適している理由を考えていきます。

受験講座で1年間ずっと見続けてくると、自分のクラスの学生になったことはなくても、その学生の気心は知れてくるものです。Rさんはそういう学生ですから、口下手なRさんがうまく表現できない部分を私が補っていくこともできます。ゆうべの時点ではまだまだ志望校に提出できる段階ではありませんでしたが、週明けには仕上げてきてくれることでしょう。それをもとに、また議論を深めていきます。こうやって自分の頭を自分で鍛えていけば、合格がグッと近づきます。

怪しい影がいい香り

12月7日(金)

私は毎朝一番に出勤します。夏なら朝の光のおかげで出勤時でも職員室はけっこう明るいのですが、先月ぐらいからは街頭の弱々しい光がブラインドを通してさらに弱まり、窓際をわずかに白ませるだけです。

今朝、出勤すると、そんな真っ暗に近い職員室の私の机の上に、丸っこい影が浮かび上がりました。電気をつけると、真っ赤なリンゴでした。職員室の隅っこに置かれた箱からすると、A先生のご実家から送られてきたようです。机の上に置いたままだと仕事の最中に落としてしまいかねませんから、引き出しにしまいました。

午前中は、1か月ぶりの養成講座の授業でした。受講生の皆さんは来週から実習が始まり、再来週教壇に立つことになっています。そのための教案作りに追われ、今までとはどことなく違う雰囲気です。私は教案は書かないのかと聞かれましたが、書きません。もちろん、その日の授業範囲分ぐらいは教科書・教材に目を通します。それが経験というものだと思いますが、経験で物を語るようになったらもう進歩は望めないとも言います。教案に頭を悩ますことは成長痛なのです。

午後の授業の後は、来学期の受験講座の説明会でした。初級の進学コースの学生たちに受験講座の内容を説明し、受講する科目を決めてもらいます。これから実際に進学するまでの長期計画を立てることの重要性も訴えます。留学生入試は夏から始まりますから、事前に受けておかねばならないTOEFLまで含めると、半年足らずで人生の分かれ目がやってくる人もいます。思っているより時間がないよということも訴えました。

その説明会が終わって、マーカーをしまおうと引き出しを開けると、ほのかに芳香が。いただいたリンゴ、もう1日ぐらい置いてから持って帰ろうかな…。

言葉の重み

11月27日(火)

各クラスで、中間テストの結果を見ながらの面談が始まっています。私も授業後に3名の学生の面談をする予定でしたが、そのうちの1名、Kさんが欠席でした。電話をかけると、体調が悪いから休んだとのことでした。面談の人数が減れば仕事がそれだけ少なくなりますから楽になりますが、Kさん自身が決めた予定を連絡もせずにキャンセルするのはいかがなものでしょう。ドタキャンされた側としては、若干腹立たしいものがあります。

もう1つの私のクラスでは、やはり自分で火曜日なら時間があると言ったCさんが欠席しました。Cさんの都合を考慮して予定を組んだのに、空振りになってしまいました。担当のR先生は、半ばあきらめ顔でした。明日私が入るクラスでは、やはり面談予定のJさんが欠席だったそうです。

どうして面談予定を平気ですっ飛ばすのでしょう。約束したという意識がないのでしょうか。私がお昼過ぎに電話をかけたKさんは、いかにも寝起きという声で電話に出ました。体調が悪いと言っていましたが、果たして本当でしょうか。夕べ寝付けなかったようなことを寝ぼけた声で言っていましたが、メールぐらいは送れたはずです。

先学期も、当日欠席の学生が多数現れ、予定表の体をなしていませんでした。ケータイが普及するにつれて、簡単に約束したりそれを変更したりできるようになりました。その変更の連絡がいつのまにか省略されるようになってしまったのが、現在のありようだと思います。みんなそういう迷惑をかけたりかけられたりしているうちに、ドタキャンに対する迷惑の感度が鈍くなったのではないでしょうか。

世の中には気安く取り消すことのできない言葉があるんだということ、すなわち、ことばの重みを教えることも、語学教師の役割だと思い、学生に対していきたいと思います。

はさみで勝つ

11月10日(土)

外部の研修会でNIE(教育に新聞を)を勉強してきたM先生を中心に、授業で新聞を扱う先生が増えました。私は朝日と日経のデジタル版の有料購読者ですから、10日前ぐらいからの新聞記事を紙面の形で印刷することができます。ですから、パソコンでこれはと思う記事を見つけた先生から、その記事をいかにも新聞から切り抜いたかのように印刷してくれと頼まれることがこのごろよくあります。

今朝もA先生から、トランプ大統領とCNNの記者の記事ということで依頼されました。検索するとそれっぽい記事が引っかかってきましたが、それは大きな記事の中の一部でした。大きな記事だと字数も多すぎるし、扱っている範囲も広すぎるし、授業で使ったらもてあましそうです。でも、A先生がほしい記事だけピンポイントで印刷することはできません。しかたがないですから、大きい記事を印刷して、必要な部分だけ切り抜くことにしました。

A先生は、はさみを手にしながら、「なんだかアナログだねえ。Sさん、これ、パソコンの中でどうにかならない?」と、ITに詳しいSさんに聞きました。「できるけど、手でやるほうが早い。何でもコンピューターにやらせようとしちゃだめだよ。手の方が効率的なことだってある」とSさん。「パソコンでこんなことがしたいんだけど」と相談すると何でも解決してくれるSさんの言葉ですから、重みがあります。

いろんなアプリやら小道具やらがあります。それを上手に使いこなせば確かに便利です。楽です。そういうものが使えるように仕事をやり方を変えることも業務の効率化の一つです。しかし、何でもそれを基準に考えるというのは、人が機械に振り回されていて、人間の主体性が奪われているように思えます。人間がAIに負けるというのには、こういう面もあるのかなと、Sさんの言葉に感じました。

合格報告

11月9日(金)

Mさんが入学したのは今年の4月でした。国で日本語を勉強してきたのにプレースメントテストでレベル1に判定されたのが少し不満そうでした。ひらがなの読み書きから始めるクラスで、自分はこんなクラスにいるべき学生じゃないんだとばかりに、難しい文法(と言ってもレベル2で勉強するくらいの文法ですが)を盛んに使っていました。

お昼過ぎ、そのMさんが「先生、これ、見てください」と、スマホを差し出して見せてくれたのが、S大学の大学院の合格通知でした。レベル1の時からずっとそこに行きたいと言っていて、言うだけではなく着実に準備を進め、見事に初志貫徹したのです。やるべきことはきちんとやってきたのですから、当然の結果かもしれません。

T先生は「そうやって前にお世話になった先生のところにきちんと報告に来るような人だから合格したんですよ」とおっしゃっていました。確かにその通りで、必要なことを計画的にしてきたことがうかがわれます。また、そういうMさんなら、大学院進学が決まったからこれから卒業まで遊びまくるというのではなく、残された4か月ほどの間に可能な限り日本語力をつけて、進学先で日本語で困ることがないようにしていくでしょう。

それに比べて、私が受け持っている最上級クラスは、こっそり受かっている学生が続出で、噂を聞きつけて昨日聞き取り調査をしたら、Jさんなど2校も受かっていました。Jさんは、Mさんより日本語はできますが、進学してからそこの社会・コミュニティーに溶け込めるでしょうか。若干不安を覚えます。

お前の目は節穴か

11月7日(水)

自分の間違いを自分で発見し、自分で直せるようになったら、一人前に一歩近づいたと言えるでしょう。学生たちのノートをチェックすると、同じレベルでもこの力の差がけっこう大きいことに気づかされます。

クラスでディクテーションをして、何人かの学生に答えをホワイトボードに書かせ、その正誤をみんなで判定し、間違った部分を赤で直し、全学生がその正答を確認しています。しかし、後日ノートを集めて点検すると、細かいところまできちんと直している人もいれば、明らかな間違いを放置している人もいます。学生の性格によるところもあるでしょうが、概して成績のよくない学生は間違い放置組みにいます。日本語がゼロに近い学生なら直してあげもしますが、そこそこ日本語がわかるはずのレベルの学生だと、「自己責任」を取らせたくなります。でも、そうするとその差がますます広がるばかりなので、あーあと思いながら赤を入れます。

間違いに気づかない学生は、自分の答えは絶対に間違っていないと信じ込んでいるのでしょうか。その面々を思い浮かべるに、そこまで傲慢な人たちだとは思えません。これも、社会心理学などでいう正常性バイアスの一種だと思います。教師が「ここはみんなが間違えやすいから気をつけろ」と言っても、自分は間違えることなどないだろうと勝手に決め付けてしまい、正しい判断をせず、したがってしかるべき処置もとらず、間違いが放置されるのです。教師がチェックして直せば、そして、その教師の指摘を受け入れれば、テストで減点されるなどの最悪の事態は免れます。しかし、そういうバイアスのかかった目で見ると、教師の入れた赤も学生の目には映らないことだってあるかもしれません。

今度の日曜日はEJU、来週の木曜日は中間テスト。今学期も時間がどんどん流れていきます。