Category Archives: 教師

ぽにょぽにょ

10月31日(土)

学校にいると、20歳前後の若者とは日々接していますが、小さな子どもや、ましてや赤ちゃんと触れ合うことは、まずありません。私の場合、親戚まで広げても赤ちゃんには縁遠いというのが現状です。

午後、以前KCPに勤めていたK先生が来ました。10か月というお子さんを連れて。K先生が職員室に入ってくると、その場にいた教職員全員が赤ちゃんに注目。私は手を消毒し、ほっぺたを触らせてもらいました。ぽにょぽにょの柔らかいほっぺたはやっぱり快感ですね。私に触られてもK先生のお子さんは嫌がりもせず、笑顔さえ見せてくれました。調子に乗って、手の甲とかふくらはぎとか、肌が露出しているところをもみもみしてしまいました。変なオッサンにちょっかいを出されてさぞかし迷惑だったでしょうが、ご機嫌斜めになることなく、愛嬌を振りまいてくれました。

抱っこをすると、マスクに触ろうとします。それはよろしくないですから、上下に前後に左右に揺らしてマスクから意識をそらせるようにしました。どうやら、そういうGがかかる動きが好きなようで、にこにこ笑っていました。他の先生方も、なんだかんだ言いながら、触ったり抱いたり、本当にアイドルでした。

おかげで、職員室の空気がとても和みました。人見知りしない赤ちゃんでしたから、だれに抱かれても泣くことなく、みんなが気持ちよくあやすことができました。私たちはほんのちょっとの間だけでしたから“気持ちよく”というレベルですが、K先生は1日中であり毎日であり子どもの命を守る責任もあり、常に“気持ちよく”というわけにはいかないでしょう。“ああ楽しかった”ではすまないのです。にもかかわらず、KCPにお勤めだったころと同じように明るく元気でした。立派だなあと思いました。

赤ちゃんは体の80%が水なのだそうです。だから、ぽにょぽにょなのであり、抱くと気持ちがいいのでしょう。疲れ気味の週末でしたが、活力をいただき、来週の仕事の準備がはかどりました。

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明日はリベンジ

10月20日(火)

例文は授業を映す鏡と申しましょうか、学生が提出した例文を見ると、授業の出来がよくわかります。今朝までに、昨日中級レベルで行ったオンライン授業の例文が届きましたが、そこには昨日の授業の抜け落ちが如実に表れています。

もう少しこちらから例文を提示したり学生に練習させたりしたいところだったのですが、時間に追われて学生の「わかりました」という声を信じて次の科目に移ってしまいました。それが敗着だったようで、説明の足りなかったところをわざと突いてくるかのように、学生たちは誤文を作ってくれました。

上級のクラスだったら、教師の説明不足を学生が補ってくれることもよくあります。日本語文法に慣れて勘が働くようになっているため、学生たちは既習の文法との比較を無意識のうちに行い、おそらくこういうことだろうと理解してしまうのです。教師は、学生の理解力の高さに助けられて授業を進めている面もあります。

中級の学生は、そこまで手練れではありません。経験値が十分ではありませんから、上級の学生に対してよりも手厚く説明したり練習したりしなければなりません。その時間がなかったというのは、完全に教師の作戦ミスです。学生の予習が想像以上に足りなかったという言い訳はありますが、それに全面的に責任を押し付けることはできません。

明日は、偶然にも、昨日と同じ学生を相手に、代講でオンライン授業をします。図らずしてリベンジの機会が与えられました。今度は学生の予習不足も織り込んで、抜け落ちがないように授業が進められるよう、準備を進めています。

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頭脳の再構築

10月13日(火)

先週金曜日から新学期が始まっていますが、私は土曜日の受験講座を担当しただけで、クラス授業をしていません。もっぱら、日本語教師養成講座に携わっています。

10月から私が行ってきた授業は、中上級の文法です。N1の文法項目すべてについて懇切丁寧に解説していくなどということをしていたら、年末までかかっても終わりませんから、文法項目のとらえ方、どこに目を付けるかについて話してきました。特に、教師が例文を通して文法項目の意味を明確に理解することや、言葉による説明ではなく例文によって学習者に文法項目を教えるということに力を入れました。

上級になると、語法と文法が相互乗り入れするような形でその境界があいまいになってきます。また、文章や発話の文脈を捕らえて書き手・聞き手の意味するところを理解することが求められます。そういったことから、文法らしい文法よりも少し外側の事柄にも触れてきました。

そんなことよりも何よりも、受講生のみなさんの頭の中に、文法的な発想を植え付けること、文法理解の回路網を構築することを目指してきました。街なかで使われている敬語の間違いに気づいたり、主語と述語が一致していない、いわゆるねじれ文に違和感を抱いたり、興味深い言葉の使い方を見つけて感心したりさらなる応用例を探したりなどして、常日頃から文法を意識し、頭を訓練していってもらいたいのです。こういう訓練の積み重ねが、いずれは授業に生きてきます。

わずか半月ほどの私の授業でしたが、初回に比べれば受講生のみなさんは文法的な生活が送れるようになってきたように感じます。来週の月曜日は、今期の中上級文法のテストです。少しずつ形作られつつある文法的頭脳を駆使して、合格点を取ってもらいたいです。

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取り付ける難しさ

10月8日(木)

始業日前日で、他の先生方が明日の準備をなさっている中、私は日本語教師養成講座の講義でした。語彙の面から文法を見て、日本語の特徴を考察していくという授業です。

語彙というと、複合動詞について語りたくなります。KCPの学生が上級になってもなかなか使えるようにならないのが、この複合動詞です。例えば、「教室に大型モニターを/付けます/置きます」なんていうのは言えます。よくできる学生なら「設置します」ぐらい使うでしょう。しかし、複合動詞である「取り付けます」は、ほとんど聞こえてこないでしょう。これがスムーズに出てきたら、相当日本語を使い慣れていると言っていいでしょう。

私たちも手をこまぬいていたわけではありません。教わった、練習した直後のテストでは合格点を取りますが、しばらくしたら元の木阿弥です。授業中の私の発話や板書などに意識的に複合動詞を織り交ぜても、学生の意識にはなかなか残りません。学生たちにとって複合動詞は、読んだらわかり、聞いたらわかる、いわゆる理解語彙ではありますが、話したり書いたりする時に使える語彙かと言ったら、絶対に違います。

私たちネイティブの日本語話者は、無意識のうちに複合動詞を取り入れてコミュニケーションしています。自然に使いこなしていますから、「教室に大型モニターを付けます」しか言えない学習者の思考回路になりきることはできません。

そういうことを受講生に訴えましたが、なんだか愚痴をこぼしているような気になってきました。明日からの新学期は、学生と力を合わせて受験に立ち向かい、難関を乗り越えねばなりません。ぼやいている暇などありません。

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準備が進む

10月2日(金)

期末テストが終わって1週間余りですが、来週の金曜日はもう新学期です。始業日の時点で新入生は入ってきませんが、新たな気持ちで在校生を迎える準備は抜かりなくしておかなければなりません。

その準備の一環として、午後から教室の掃除をしました。机などは、毎日の授業の後に、消しゴムのかすを集め、消毒のアルコールを吹きかけて拭いていますから、さほど汚れていないはずです。それでも、丁寧に見ていくと消しゴムのかすが残っていたり、飲み物を置いた跡が浮かび上がってきたりなど、拭き掃除に使った雑巾がいつの間にか薄汚れていました。

意外に汚れていたのが、各教室のモニターです。ほぼ垂直に立っているのですからごみやほこりなどがたまる余地などないはずです。しかし、静電気が発生して空気中の微粒子を引き寄せているようで、よく見ると画面全体がうっすら何かに覆われているようでした。そういう汚れは乾拭きすれば取り除けたのですが、ある教室の画面だけ、液体が飛び散ったかのような跡が付いていました。映し出された画像・映像を見るのに支障をきたすほどではなかったのか、学期中モニターが汚いというクレームはありませんでした。でも、明らかに汚れており、乾拭きでは取れませんでしたから、そこだけ洗剤を付けて拭き取りました。

それにしても、何の汚れだったのでしょう。コーラか何かのふたを開けた時に中身が飛び散ったのでしょうか。でも、炭酸飲料は教室内で飲んではいけないことになっています。もしそうだったとしたら、汚れがべとついて黒ずんで、教室の先生が気付いたでしょう。学生が汗を飛び散らせるほど暴れ回ったとは考えられません。どのクラスの学生も、教室内ではおとなしすぎるほどでした。傘のしずくを飛ばした学生がいたのでしょうか。でも、跡が付いていたのは私の背よりも高い位置ですし、そもそも傘は校舎に入るときにきちんとたたむことになっています。

結局原因はよくわかりませんでしたが、新学期の準備は着々と進んでいます。

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愚痴は愚痴として

8月4日(火)

「K先生、お疲れ様です。授業、いかがでしたか」「学生があまり反応しないので、なんだかやりにくいですね」「それはマスクをしてるからですよ。それに、あんまりしゃべるなって指導してますから」「そうですよねえ。しゃべり過ぎたら何が起こるかわかりませんからね。それから、誰が発言したかわかりにくいですね」「自由に答えさせると誰が答えたかつかめませんから、私はどんどん指名してるんですよ、名簿を見ながらでも。そうすれば教師がコントロールできますから」「確かにそうですね。あと、マスクしてると反応も見えませんね。わかってるのか、わかってないのか、なんだかつかめなくて…」「ありますね、それは。しなくてもいい説明をしちゃったり、しなきゃいけない説明を飛ばしちゃったり…」「安全サイドに走ると話が延びちゃうんですよ。それに加えて、グループで話し合いもさせられないでしょ。これも辛いですね」「そうですよねえ。まあ、どういう授業をしても、わかるやつはすぐわかる、わからないやつはいつまでたってもわからないっていうのが真実じゃないんですか」

…と、まあ、午前の授業が終わった昼休みに、マスク越しの授業の愚痴を言い合いました。こういう情勢ですから、教師がしゃべりまくるという、養成講座などで絶対にしてはいけないと教わった授業をせざるを得ません。学生から話を引き出すのを必要最低限に抑える授業なんて、KCPではありえなかったんですけど。

それでも、対面授業には、学生のかすかな反応を瞬時に捕らえてそれに対応したり、カメラを通してはできない大きな説明ができたり、学生と学生が顔を合わせることによって生じる相乗効果が見られたりなど、捨てがたい長所があります。わざわざ日本という、学生にとっては異国まで足を運んできてもらっているのですから、その期待に応えられる授業をしていきたいです。

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フレンドリー

7月28日(火)

6月のEJUが中止になってから、毎日のように各大学の外国人留学生入試の動向を調べています。早稲田大学のように早々と方針を決めて我が道を歩む大学もあれば、募集要項の発表が何回も延期になる大学もあります。いろいろと駆け引きがあるのでしょう。でも、ホームページに「発表は7月上旬」と書いたきり、もうすぐ8月だというのに更新されないというのは、その大学のだらしなさを表しているように思います。だらしなくなくても、留学生を大切にしているようには思えません。

それ以上に、留学生入試情報になかなかたどり着けない大学が困ります。クリック2回ぐらいで出願要件を知ることができる大学はサイトの作り方が親切だと思います。サイトの字が小さくて、私の目には読みにくいというのは、許してあげましょう。受験生は老眼ではないのですから。しかし、サイト中をあちこち迷った末に、かなり深い階層に留学生入試の情報を発見した時は、冷遇されているなあと感じます。そうやってやっと掘り出した情報が去年の情報だったりしたら、がっくりよりもむかつきを覚えます。

私は、長年受験生のお世話をしていますから、こういうのを調べるのに慣れているつもりです。老眼であることを除けば、情報にアクセスするのに有利な条件を備えているはずです。そういう私がかなり苦労しないと見つけられない情報を、ごく当たり前の外国人留学生がたやすく手にすることができるとは思えません。そういう情報の出し方(隠し方?)している大学は、日本語学校の教師の支援を出願の前提にしているのでしょうか。

自分の手であれこれ調べてみて、大学を見る目が少し変わりました。

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挨拶に感心

7月21日(火)

日本語教師養成講座の修了式がありました。今回修了したみなさんは、すでに日本語教育能力検定試験に合格している方や、実際の教えた経験のある方たちで、理論はわかっているから実際に教える力を身に付けようと受講した方々です。

修了生のみなさんは、今年の2月から今月まで受講なさっていました。ちょうど感染が広がる時期に当たり、授業見学や模擬授業をしようにもオンライン授業ばかりになってしまうなど、苦労が重なっていました。それを乗り越えて、修了の日を迎えたわけです。私は直接指導していませんが、実際に指導なさった先生方は、感慨ひとしおだったのではないでしょうか。

修了式では、私が修了証をお渡しした後、修了生お一人お一人に挨拶をしていただきました。こういう時、ほとんど何も言えずに形式的にごく短く済ませてしまうか、だらだらと長ったらしく話し続けるか、そんな人が多いです。しかし、今回の修了生はみんな内容のある話をピシッとまとめて語ってくれました。この点に感心しました。というか、こういうことができるということは、優秀な教師になる素養があるということだと思います。

教師は、突然話を振られてもそれなりに何か応えなければなりません。周りからは、気の利いたことを言ってくれると期待されています。「とりあえず、先生に何かしゃべっていただこうよ」「〇〇さんは高校の先生だからスピーチお願いしちゃおう」なんていう調子で、何かの式次第が決まっていくことて、よくあるんじゃないでしょうか。授業中に学生から矢が飛んでくることもしょっちゅうです。

今回のみなさんは優秀だと担当の先生方から聞いていましたが、それが実証された修了式でした。現在は、日本語教育界には逆風が吹いていますが、それにめげず立派な先生に育ってもらいたいです。

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声の本能

6月12日(金)

今朝、玄関のドアの鍵を開けて職員室に戻ろうとしたら、N先生がそのドアを開けて入って来られました。N先生のクラスは、先週の金曜日はオンライン授業でしたが、今週は教室での授業ですから、おいでくださったというわけです。N先生が出勤なさったのは、2月末以来、3か月半ぶりです。だからでしょうか、どことなく懐かし気にロビーを見渡していらっしゃいました。

気になったのは、声の張りでした。今までほどの響きがないように感じました。「うちにこもっていると、大きな声を出す機会がないから…」とのことでした。確かにそうですね。ご自宅でしたら、話す相手はせいぜい数人のご家族だけでしょう。教室では20人を向こうに回しますから、自ずと発声法が違ってきます。

オンライン授業だって、パソコンのマイクに声を拾わせればいいのですから、そんなに大きな声を出す必要はありません。理屈の上ではそうなのですが、やっているうちにいつの間にか大声を張り上げています。そして、授業が終わると、どっと疲れが出てくるのです。これは私だけではなく、KCPの先生はみんなそうです。オンライン授業の最中に廊下を歩くと、あちこちの教室から先生の声が響いてきます。教師とは、授業となると本能的に声が大きくなる生き物なのでしょう。N先生も、きっと、教室ではかつての美声で授業をなさったことでしょう。

今学期の授業は、来週で終わりです。東京はステップ3に入りましたから、このままいけば来学期は教室での授業が増えるのではと期待しています。その際には、今学期授業をお願いしなかった先生方にご登場いただくこともあるでしょう。先生方、のどのご準備はいかがですか。

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じっくり聞きましょう

6月9日(火)

教室での授業でも、換気をよくするため、ドアと窓を開けて行っています。隣のビル工事の音が入ってくることもありますが、教室内に空気がよどまないことを優先しています。しかし、聴解の授業となると、そういうわけにはいきません。確かに騒音の中での発話を聞き取らねばならない場面に出くわすことも多々ありますが、中級の学生にそこまで要求するのは酷というものです。

オンライン授業中も聴解の授業を行ってきましたが、学生たちの家のWeb環境によっては、音声が途切れてしまうこともあったそうです。教室なら学生の顔色をうかがいながら、聞き取れなさそうな個所を繰り返し聞かせたり、この言葉を教えれば理解が進むはずだという言葉を板書したり、小技がいろいろと使えます。

「じゃあ、始まます。聞いてください」と言って問題の音声を流し始めたら、1/3ぐらいの学生が何もせずに聞いていました。オンラインの時も、メモを取りながら聞くようにという指示を与えていたはずですが、この1/3の学生たちは、自分の部屋でボーっと聞いていたんでしょうね。できる学生を集めたクラスだと言われていたのですが、それでもこの程度です。他のクラスはどうだったのでしょう。

音声ファイルを送って学生に自宅学習してもらうというパターンもありますが、教師が補助線を引いてやらないと、何回繰り返して聞いても疑問点が解決しないこともあります。また、そういう切り分けが、オンライン授業や反転学習の長所を際立たせるのです。来週の火曜日も聴解の授業です。そんなあたりをもう少し深く考えて、授業を組み立てていきたいです。

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