Category Archives: 社会

名古屋の山

1月4日(水)

年末年始の休みは、名古屋へ。いかにも旅行者然としたいでたちだったのですが、名古屋駅のホームで「すみません。この電車は松本へ行きますか」と聞かれました。まさか、こちらが日本語教師だと気付いて聞いてきたわけではないでしょうが、私は旅先でも不思議と外国人からモノを聞かれます。発音の感じからすると、中国人や韓国人でも、東南アジアの人でもなく、ブラジル人ではないかと思いました。

名古屋の市営地下鉄の主な駅では、日本語、英語のアナウンスに続き、中国語、韓国語、そしてポルトガル語のアナウンスが流れます。それぐらいポルトガル語話者≒ブラジル人が多いのです。いや、愛知県に住んでいる外国人の絶対数で言えば、ブラジル人は中国人や韓国人よりも多いですから、英語の次にポルトガル語が流されてしかるべきなのです。

愛知県は、人口に対する外国人の割合が、東京都についで2番目に高い県です。東京は首都という特殊事情で外国人比率が高い面が見逃せませんから、実質的には愛知県が一番だとも考えられます。元日は泊まったホテルのすぐそばの神社へ初詣に行きました。そこにもブラジル人と思しき人たちが焚き火にあたっていました。この人たちがどんな宗教観を持っているかまではわかりませんが、焚き火に手をかざす姿は周りに溶け込んでいました。

行きの新幹線からはまっ白な富士山が見えました。「幸せの左富士」も見えました。松阪まで足を伸ばしたとき、方角と形から富士山だろうと思われる山の頂上部が見えました。名古屋の街中からは、富士山は見えませんでしたが、御嶽山を始め、木曽の山々が見えました。こういう山々を見て、ブラジル人は故郷の山を思うのでしょうか。それとも、雪をいただいた山など見ても、ブラジルの山とはあまりにも違うので、何も感じないのでしょうか。

Cさんの悩み

12月24日(土)

午後からCさんの進学相談。国立大学に出願しようと思っているCさんにとっての最大のネックは、TOEFLです。成績そのものではなく、受験した時期が遅かったため、スコアが届くかどうか微妙なのです。早い時期に受けておかなかったCさんが悪いのですが、下手をすると、TOEFLは受けたもののその成績は使わなかったということにもなりかねません。

英語が世界共通語であることは論を待ちません。Cさんが目指している理科系の学問分野では特にそうです。英語がわからないと世界最先端の学問に触れられなくなるとも言えるでしょう。だから、入学時に何らかの形で受験生の英語力を見るというのも理解できます。しかし、同時に、その「何らかの形」がTOEFLでありすぎるような気もします。実際の入試日のはるか以前に安からぬ受験料を払って受験せねばならないというのが、私には解せないのです。自前で英語の試験問題を作るのはかなりの負担なのでしょうが、その負担をすべて受験生の側に回してしまうというのもどうなのでしょうか。

そもそも、日本の教育のいいところとは、日本語で高等教育まで受けられるということだったと思います。それが日本語の価値を高めていたはずです。そう思って日本留学を決意した学生も少なくないでしょう。なのに、英語の試験のスコアが届くかどうかで門前払いに近い仕打ちをするのは、ちょっと理不尽な気がします。

留学生を本気で増やしたかったら、こういうところの改善も必要なのではないかと思います。

寒空に

12月23日(金)

天皇陛下には申し訳ないのですが、天皇誕生日の祝日にもかかわらず、KCPは仕事をしました。来週の月曜日が2015年1月生の卒業式だからです。昨日の期末テストの採点のほか、私にはEJUのデータ整理という仕事もあります。そこへ持ってきて進学相談も飛び入りで加わり、想定以上の商売繁盛の一日となってしまいました。

仕事をしながらも、気になるニュースが一つ。それは、昨日の新潟県糸魚川市の大火です。糸魚川へは、何年か前にフォッサマグナミュージアムを見学しに行きました。地学ファンにはたまらない展示内容で、機会があれば、フィールドワークにも行きたいと思っていました。

火事があったのはフォッサマグナミュージアムとは線路を挟んだ反対側で、雁木のある古風な街並みが続く地域です。足早に通り過ぎただけでしたから、いずれ趣をゆっくり味わってみたいと思っていました。それだけに残念でなりません。木造の建物が密集していたから火が広がってしまったとのことですが、その木造の建造物群がえも言われぬ味わいを醸し出していたのです。いずれ再建されるでしょうが、同じ街並みが戻ることはないでしょう。

もうすぐお正月というのに焼け出された方々を思うと、言葉がありません。昨日は南風が吹いて20度まで気温が上がりましたが、アメダスのデータを見ると、夜半から風向きが変わり、日が改まるとともに朝から日中にかけて気温が下がっています。明日以降は冬が本格化するとのことです。3.11直後の寒々とした風景が脳裏をよぎりました。

3.11もそうでしたが、自分の足で歩いたり空気を吸ったりしたことのある町が災害に見舞われた姿を目にするのは、何とも心が痛みます。糸魚川の一日も早い復活を祈ってやみません。

おのおの方、討ち入りでござる

12月14日(水)

12月14日といえば、日本人にとっては、赤穂浪士の討ち入りの日です。毎週水曜日は超級クラスで“自由演技”の日ですから、この討ち入りに関する記事をネタに、日本文化を語りました。

学生たちが最も興味を示したのは、切腹の場面です。本当に腹に刀を突っ込むのは、それこそ死ぬほど痛いので、腹に刀を当てた瞬間か、それ以前に刀を手に取るために上体を前方に倒して首を伸ばした瞬間に、介錯人がスパッと首をはねるのだと説明すると、残酷だと言いつつも、それなりに納得していました。

同時に、自分たちの国でかつて行われていた死刑について語り始めました。両手両足と首を馬につないでそれぞれ別の方向に走らせるとか、馬だと苦しみは瞬間的だけど、牛だと歩みが遅いのでたっぷり苦しむとか、妙に盛り上がってしまいました。

大石内蔵助が吉良上野介にとどめを刺し、その首をはねて水で洗い、布で包んだ吉良の首を高く掲げて本所の吉良邸から泉岳寺まで行進し、浅野内匠頭の墓前に供えたと言うと、日本人はふだんは親切だけど実は残酷だとまた大合唱。私の話し方が悪かったのか、忠臣蔵の最も感動的な場面が学生たちには最もおぞましい場面に映ってしまったようです。

学生たちと同じ世代の日本の若者は、どの程度忠臣蔵について知っているのでしょうか。たとえ今は知らなくても、毎年毎年、この時期になると、手を変え品を変え忠臣蔵の映画やドラマが上映されたり放送されたりします。小説やらマンガやらの題材にされることも多いです。ゲームもあるそうです。さらには彼らの上の世代から影響を受けることも大でしょう。それゆえ彼らが“若者”から脱するころには、もう一つ下の世代に忠臣蔵を語る存在となっているに違いありません。

これが、日本の伝統文化なのです。

寿司屋

12月7日(水)

初級レベルでは、何月何日に授業をどこまで進めるという進度表がかなりがっちり作られています。クラスによって進み方に差があっては、そのレベル全体でテストをすることすらままなりません。学期が終わった時点でクラスごとに習ったことが違っていたら、次の学期のクラス編成ができません。そもそも、授業の品質ということを考えたら、どのクラスも同じように進んでしかるべきです。

中級から上級でも同じような傾向が見られます。進度表どおりに進むのが大原則ですから、いろいろと紆余曲折はあっても、毎学期ゴールは同じです。また、教材が決まっていますから、学期によってクラスによって着地点がばらばらということはありません。

しかし、上級を突き抜けて超級になると、進度表はありますが、担当教師の自由裁量に任されている内容もあります。超級の場合、クラスごとにレベルが違い、また、進路に合わせてクラスを作ることもあり、毎学期判で押したような進度表というわけにはいきません。時事ネタや日本事情的な内容となると、いつ何を取り上げるかは教師が決めることが多いです。

今学期の私は、水曜日の超級クラスが自由演技の日です。教材が決まっていると楽なことは楽ですが、忙しさにかまけて通り一遍の授業に陥ってしまうこともあります。教材も授業内容もすべて自分で決めなければならないとなると、確かに大変ですが、その分頭を使うので、達成感みたいなものが味わえます。

今日は安倍首相の真珠湾訪問についての社説2編を取り上げました。訪問の意義やその背景などはもちろんのこと、新聞社による真珠湾訪問の捕らえ方の違いについてもディスカッションしました。「新聞によって記事の内容に違いがあってもいいんですか」という質問も出ました。事実は正確に伝えなければならないけれども、その事実の解釈は新聞社によって違っていてもかまわないと答えると、とても不思議そうな顔をしていました。

今日はいいネタが得られましたが、来週はどうなっていることでしょう。いいネタの心配をするなんて、寿司屋さんみたいですね。

実るほど

12月3日(土)

この夏に天皇陛下がご自身の退位について語られて以来、天皇の生前退位をめぐる議論が活発に行われています。生前退位を認めるか否かは、有識者会議でも両論が拮抗し、どちらとも決めかねる状況が続いています。

今朝の新聞に、憲法第2条が皇位継承は皇室典範が定める通りにせよと規定しており、その皇室典範は生前退位を認めていないのだから、特例法による退位は憲法違反だという意見が載っていました。天皇陛下のお気持ちに沿うには、皇室典範改正以外の方法はないというのが結論でした。とてもすっきりしたわかりやすい意見で、これを読んで私もそうすべきだと思いました。

正直に言うと、平成の世になっても、私の中では「天皇」といえば昭和天皇でした。今上天皇にはどことなく頼りなさげな印象を抱いていました。それが変わったのが、東日本大震災後に被災地を訪れ、津波に襲われて瓦礫の山となってしまった町の跡に頭を下げて犠牲者の冥福をお祈りになっている今上天皇の写真を見たときです。曲げた腰の角度、頭を垂れた視線、指先までピシッと伸びた体側の腕、そういった姿勢から、心の底から国民を思っておいでなのだなということがひしひしと伝わってきました。国民の悲しみや苦しみを少しでも引き受け、国民の幸せと国の平和を願い続けようとなさっているお姿に、私は心を打たれました。

その今上天皇の願いをかなえて差し上げるのが、われわれ国民の責務だと思っていました。その道筋を明確に示してくれたのが、今朝の記事でした。たとえ退位されても、陛下の国民に対するお気持ちは変わらないでしょう。そのお気持ちに応えるべく努力していくことが、この国の発展につながるのです。

日本にカジノを作ることが、被災地に頭を下げられた陛下のお心に報いることになるとは、到底思えないのですが…。

本当にあと1か月?

12月1日(木)

12月です。毎年思うことですが、1か月後にお正月を迎えているなんて、とても信じられません。クラス授業も選択授業も受験講座も山ほど残っているし、期末テストも作らなきゃならないし、採点もしなきゃならないし、面接練習も志望理由書も続々と襲い掛かってきます。仕事納めの日までに、そんなこんなを処理しきれるんだろうかと、不安を感じずにはいられません。そうそう、少ないながらも年賀状も書きます。それから、学校でもうちでも、大掃除を忘れてはいけません。

でも、毎年曲がりなりにも年末年始の休みに突入し、旅行に出て、旅先で年越しそばをいただき、見知らぬ町のお寺かお社へ初詣に行くのです。そこで手を合わせ、新年の誓いを立てます。

学生たちも、忙しい1か月を過ごします。受験日が迫っていたり、年内に出願を済まさなければならなかったり、間もなく合格発表だったり、既に合格が決まった学生の中には、入学手続の期限が年内だったりします。受験が年明けだとしたら、この12月をあわただしく過ごすだけではいけません。人生を分かつ1か月になるかもしれないのですから。

Yさん、Lさん、Cさん、Hさんもそんな学生たちです。まだ行き先が決まっていませんから、1校確保してもうちょい高いところを狙うっていう学生より感じるプレッシャーも大きいです。親しい友人の合格の知らせを喜びつつも、胸中に焦りの種を宿していることでしょう。クリスマスソングがボリュームを増すともに、風がどんどん冷たくなります。無所属新人の学生には、落ち着かない季節、体調を崩しやすい時期をどうにか乗り越えて、3月には笑えるようになってもらいたいです。

頼りすぎ

11月30日(水)

韓国の朴大統領が、どうやら任期途中でやめそうです。大統領が任期を全うせずにやめるのは、現行の大統領制が確立してから初めてだそうです。支持率が5%にも満たないというのですから、こうなるのも当然かもしれません。でも、どうしてやめなければならないようなことをし続けたのかなあと思わずにはいられません。大きな権力を握ると誰でも清廉潔白でいられなくなるものなのかと、そんな権力を手にしたことのない私は漠然と想像しています。

それとも、自分が握っている権力の大きさが怖くなって、近しい人を必要以上に頼ってしまったのでしょうか。一国の大統領ともなれば、常に大きな決断を迫られます。どんな道を選べばいいかわからなくても、どれか1つを選んで実行に移さなければなりません。迷いたくても迷わせてもらえません。そして、その決断に対する責任は負わなければなりません。だから、自分の権力の大きさに押し潰されそうになることだってあるでしょう。そのときに、相談に乗ってもらうとまでは行かなくても、誰かに背中を押してもらいたいと思うことがあったとしても、不思議はありません。

だから、朴大統領を許してあげたいというわけではありません。自分の大きさと釣り合わない器の人物を、ブレーンとして頼り続けてしまったように思えます。大統領のお父さんの時代は、そういうことが許されたのかもしれませんが、現在はそのころとは比べ物にならないほど、国の規模も大きくなり、国際的地位も高まり、国を取り巻く環境も激変しました。それがわかっていないはずがありませんが、大統領がしたことはそういう意味で前期代的なことです。

翻って自分自身を見ると、私も学生の人生を左右しかねない、学校の将来の明暗を分かちかねない決定を下すことがあります。そういう決断の際には曇りのない目で見極めているか、常に自問自答しいます。

6年計画

11月15日(火)

11月のEJUが終わり、来年6月のEJUを目指す受験講座が始まっています。私が担当している理科は、今日が初日。今日は具体的な勉強ではなく、理科系の進学とはどういう意味かというところからオリエンテーションをしました。学生たちは一応こういう勉強がしたいという目標を持っていますが、大学に入って終わりではなく、その後、大学院進学、就職というところまでのスコープで、自分の目標を再点検してもらいたいのです。

私が大学に進学したのは、もう40年近くも昔のことです。大学で4年勉強したら就職するものだと漠然と考えていましたが、入学してみると、大学院2年も含めた、実質的に6年制大学でした。今ではこの傾向がさらに進んでいると思います。特に、学生たちが狙っている上位校ではこの傾向が強いでしょう。それゆえ、志望校を選ぶ時点から6年計画のつもりで将来を見通してもらいたいと思っています。

これから先の日本経済や世界経済の予測は私の手に余りますが、理系の採用がより一層修士中心になっていくことは間違いありません。修士レベルの知識と科学的思考力と研究推進力が、就職の段階での標準装備になっていることでしょう。極端なことをいえば、かつての高卒が大卒に、大卒が修士修了になりつつあるのです。これは留学生だから基準が緩くなるとか厳しくなるとかという問題ではありません。留学生も日本人も、同じ土俵、同じスタートラインで勝負です。

要は、大学や大学院でどんな勉強・研究にどれだけ真剣に取り組んだかです。胸を張ってそれを語ることができれば、おのずと未来は開けてきます。これから始まるEJUの勉強に、そういう覚悟で取り組んでもらいたいというメッセージを送りました。

暴走相次ぐ

11月12日(土)

立川市の病院で、80代の女性が運転する車が暴走し、2人が意識不明の重体になったそうです。昨日は80代の男性が運転する車がコンビニに突っ込み、おとといはやはり80代男性が病院で車を暴走させています。先月は横浜で80代男性の軽トラが登校中の小学生の列に突っ込み、男の子が亡くなりました。

90代になるとさすがに運転にはたえなくなり、免許を返納したり失効するに任せたりしているのでしょう。70代はまだ頭も体もしっかりしていますから、こうした事故は少ないのでしょう。80代前半は、体の自由が利き、一人で何でもできる健康寿命が尽きるころです。そこから先、平均寿命までは、介護が必要になったり寝たきりになったりするわけです。事故を起こした80代の方々は、もしかすると、健康寿命が尽きていたのかもしれません。

だから80代から免許を取り上げろというのでは、問題は解決しません。問題の本質は、日本がクルマ社会になってしまったところにあります。クルマがあれば便利に暮らせても、なければ不便なことこの上ない地域が日本中いたるところに生まれているのです。駅前の商店街が廃れ、ロードサイドのショッピングモールが人を集めています。一部の都市ではコンパクトシティーと称して、郊外に広がってしまった街を再び中心部に集めようとしています。しかし、この試みがうまくいったという話は寡聞にして知りません。

現在の街の構造は、団塊の世代やそのもう少し上の世代が若くて元気な頃に形作られました。その世代が年老いてきた今、自分たち自身が築き上げた街をもてあまし始めている構図が浮かび上がってきています。これをどうにかしない限り、“老人暴走族”は現れ続けるでしょう。

学生たちの故国も、遠からずこんな社会になることでしょう。日本に留学するのなら、こんなことにも是非関心を示してもらいたいものです。