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実るほど

12月3日(土)

この夏に天皇陛下がご自身の退位について語られて以来、天皇の生前退位をめぐる議論が活発に行われています。生前退位を認めるか否かは、有識者会議でも両論が拮抗し、どちらとも決めかねる状況が続いています。

今朝の新聞に、憲法第2条が皇位継承は皇室典範が定める通りにせよと規定しており、その皇室典範は生前退位を認めていないのだから、特例法による退位は憲法違反だという意見が載っていました。天皇陛下のお気持ちに沿うには、皇室典範改正以外の方法はないというのが結論でした。とてもすっきりしたわかりやすい意見で、これを読んで私もそうすべきだと思いました。

正直に言うと、平成の世になっても、私の中では「天皇」といえば昭和天皇でした。今上天皇にはどことなく頼りなさげな印象を抱いていました。それが変わったのが、東日本大震災後に被災地を訪れ、津波に襲われて瓦礫の山となってしまった町の跡に頭を下げて犠牲者の冥福をお祈りになっている今上天皇の写真を見たときです。曲げた腰の角度、頭を垂れた視線、指先までピシッと伸びた体側の腕、そういった姿勢から、心の底から国民を思っておいでなのだなということがひしひしと伝わってきました。国民の悲しみや苦しみを少しでも引き受け、国民の幸せと国の平和を願い続けようとなさっているお姿に、私は心を打たれました。

その今上天皇の願いをかなえて差し上げるのが、われわれ国民の責務だと思っていました。その道筋を明確に示してくれたのが、今朝の記事でした。たとえ退位されても、陛下の国民に対するお気持ちは変わらないでしょう。そのお気持ちに応えるべく努力していくことが、この国の発展につながるのです。

日本にカジノを作ることが、被災地に頭を下げられた陛下のお心に報いることになるとは、到底思えないのですが…。

本当にあと1か月?

12月1日(木)

12月です。毎年思うことですが、1か月後にお正月を迎えているなんて、とても信じられません。クラス授業も選択授業も受験講座も山ほど残っているし、期末テストも作らなきゃならないし、採点もしなきゃならないし、面接練習も志望理由書も続々と襲い掛かってきます。仕事納めの日までに、そんなこんなを処理しきれるんだろうかと、不安を感じずにはいられません。そうそう、少ないながらも年賀状も書きます。それから、学校でもうちでも、大掃除を忘れてはいけません。

でも、毎年曲がりなりにも年末年始の休みに突入し、旅行に出て、旅先で年越しそばをいただき、見知らぬ町のお寺かお社へ初詣に行くのです。そこで手を合わせ、新年の誓いを立てます。

学生たちも、忙しい1か月を過ごします。受験日が迫っていたり、年内に出願を済まさなければならなかったり、間もなく合格発表だったり、既に合格が決まった学生の中には、入学手続の期限が年内だったりします。受験が年明けだとしたら、この12月をあわただしく過ごすだけではいけません。人生を分かつ1か月になるかもしれないのですから。

Yさん、Lさん、Cさん、Hさんもそんな学生たちです。まだ行き先が決まっていませんから、1校確保してもうちょい高いところを狙うっていう学生より感じるプレッシャーも大きいです。親しい友人の合格の知らせを喜びつつも、胸中に焦りの種を宿していることでしょう。クリスマスソングがボリュームを増すともに、風がどんどん冷たくなります。無所属新人の学生には、落ち着かない季節、体調を崩しやすい時期をどうにか乗り越えて、3月には笑えるようになってもらいたいです。

頼りすぎ

11月30日(水)

韓国の朴大統領が、どうやら任期途中でやめそうです。大統領が任期を全うせずにやめるのは、現行の大統領制が確立してから初めてだそうです。支持率が5%にも満たないというのですから、こうなるのも当然かもしれません。でも、どうしてやめなければならないようなことをし続けたのかなあと思わずにはいられません。大きな権力を握ると誰でも清廉潔白でいられなくなるものなのかと、そんな権力を手にしたことのない私は漠然と想像しています。

それとも、自分が握っている権力の大きさが怖くなって、近しい人を必要以上に頼ってしまったのでしょうか。一国の大統領ともなれば、常に大きな決断を迫られます。どんな道を選べばいいかわからなくても、どれか1つを選んで実行に移さなければなりません。迷いたくても迷わせてもらえません。そして、その決断に対する責任は負わなければなりません。だから、自分の権力の大きさに押し潰されそうになることだってあるでしょう。そのときに、相談に乗ってもらうとまでは行かなくても、誰かに背中を押してもらいたいと思うことがあったとしても、不思議はありません。

だから、朴大統領を許してあげたいというわけではありません。自分の大きさと釣り合わない器の人物を、ブレーンとして頼り続けてしまったように思えます。大統領のお父さんの時代は、そういうことが許されたのかもしれませんが、現在はそのころとは比べ物にならないほど、国の規模も大きくなり、国際的地位も高まり、国を取り巻く環境も激変しました。それがわかっていないはずがありませんが、大統領がしたことはそういう意味で前期代的なことです。

翻って自分自身を見ると、私も学生の人生を左右しかねない、学校の将来の明暗を分かちかねない決定を下すことがあります。そういう決断の際には曇りのない目で見極めているか、常に自問自答しいます。

6年計画

11月15日(火)

11月のEJUが終わり、来年6月のEJUを目指す受験講座が始まっています。私が担当している理科は、今日が初日。今日は具体的な勉強ではなく、理科系の進学とはどういう意味かというところからオリエンテーションをしました。学生たちは一応こういう勉強がしたいという目標を持っていますが、大学に入って終わりではなく、その後、大学院進学、就職というところまでのスコープで、自分の目標を再点検してもらいたいのです。

私が大学に進学したのは、もう40年近くも昔のことです。大学で4年勉強したら就職するものだと漠然と考えていましたが、入学してみると、大学院2年も含めた、実質的に6年制大学でした。今ではこの傾向がさらに進んでいると思います。特に、学生たちが狙っている上位校ではこの傾向が強いでしょう。それゆえ、志望校を選ぶ時点から6年計画のつもりで将来を見通してもらいたいと思っています。

これから先の日本経済や世界経済の予測は私の手に余りますが、理系の採用がより一層修士中心になっていくことは間違いありません。修士レベルの知識と科学的思考力と研究推進力が、就職の段階での標準装備になっていることでしょう。極端なことをいえば、かつての高卒が大卒に、大卒が修士修了になりつつあるのです。これは留学生だから基準が緩くなるとか厳しくなるとかという問題ではありません。留学生も日本人も、同じ土俵、同じスタートラインで勝負です。

要は、大学や大学院でどんな勉強・研究にどれだけ真剣に取り組んだかです。胸を張ってそれを語ることができれば、おのずと未来は開けてきます。これから始まるEJUの勉強に、そういう覚悟で取り組んでもらいたいというメッセージを送りました。

暴走相次ぐ

11月12日(土)

立川市の病院で、80代の女性が運転する車が暴走し、2人が意識不明の重体になったそうです。昨日は80代の男性が運転する車がコンビニに突っ込み、おとといはやはり80代男性が病院で車を暴走させています。先月は横浜で80代男性の軽トラが登校中の小学生の列に突っ込み、男の子が亡くなりました。

90代になるとさすがに運転にはたえなくなり、免許を返納したり失効するに任せたりしているのでしょう。70代はまだ頭も体もしっかりしていますから、こうした事故は少ないのでしょう。80代前半は、体の自由が利き、一人で何でもできる健康寿命が尽きるころです。そこから先、平均寿命までは、介護が必要になったり寝たきりになったりするわけです。事故を起こした80代の方々は、もしかすると、健康寿命が尽きていたのかもしれません。

だから80代から免許を取り上げろというのでは、問題は解決しません。問題の本質は、日本がクルマ社会になってしまったところにあります。クルマがあれば便利に暮らせても、なければ不便なことこの上ない地域が日本中いたるところに生まれているのです。駅前の商店街が廃れ、ロードサイドのショッピングモールが人を集めています。一部の都市ではコンパクトシティーと称して、郊外に広がってしまった街を再び中心部に集めようとしています。しかし、この試みがうまくいったという話は寡聞にして知りません。

現在の街の構造は、団塊の世代やそのもう少し上の世代が若くて元気な頃に形作られました。その世代が年老いてきた今、自分たち自身が築き上げた街をもてあまし始めている構図が浮かび上がってきています。これをどうにかしない限り、“老人暴走族”は現れ続けるでしょう。

学生たちの故国も、遠からずこんな社会になることでしょう。日本に留学するのなら、こんなことにも是非関心を示してもらいたいものです。

波紋? 津波?

11月9日(水)

米国次期大統領がトランプさんに決まりました。“もしトラ”などと面白半分に万が一っぽく語られていたことが現実となりました。

午前の超級クラスでは、授業が終わると、学生たちは一斉にスマホを取り出し、開票状況をチェック。同時に為替レートも見るあたり、さすが留学生と思う一方で、この選挙結果が世界に与える影響の大きさを実感しました。

今年は、もしかすると、後世から民主主義のターニングポイントだったと指摘されるとしになるかもしれません。6月の英国のEU離脱は、Bregretなる新語とともに、後悔の文脈で語られることが多くなりました。英国民は真剣に投票したのでしょうが、その選択を英国民自身が後悔しているのだとすれば、民主主義に内在する、あるいは民主主義が本質として抱えている欠陥が露呈したと言えるのではないでしょうか。

トランプさんに投票した人たちが何を期待しているかはわかりませんが、「壁」の実現を求めているのであれば、それは自国の持つ影響力の大きさを忘れ去った身勝手な選択と言わざるを得ません。英国でも同様な考えに基づいた選択がなされたとしたら、これこそが民主主義の抱える本質的な問題点だと思います。

これらは他人事ではありません。日本が憲法を改正するとしたら、世界中から同じ目で見られるでしょう。その選択が、場合によっては、太平洋に大西洋にインド洋に、波紋どころか津波を巻き起こすことだってあり得ます。視野狭窄に陥った状態で自分たちにとってのベストチョイスを考えると、世界の笑いものになるかもしれません。国民みんなが大所高所に立って判断してこそ、世界中から尊敬される国になるのです。

これからしばらくは、超級の教材に事欠かないような気がします。

祝開店‥‥

11月8日(火)

遅いお昼をどこで食べようかと学校の近くを歩いていたら、見慣れぬつけ麺屋さんを見つけました。店の前に花かごが出ていたので近づいてよく見ると、11月7日オープンと書いてあるではありませんか。昨日開店とあれば、ちょっと味見をしてみなければと入ってみました。オープン記念割引とか、割引じゃなくても粗品ぐらいもらえるかなという、少々よこしまな気持ちもありました。期待に反して、割引も粗品もなく、味に特徴があるわけでもなく、がっかりもしませんでしたが、これからひいきにしようという気も起こりませんでした。

この店舗は、夏ごろまでは沖縄そばの店が入っていました。私も2、3回入ったことがあります。ちょっと毛色の違った味で、私の舌には合いました。汗をかきながらではなく、この味で体を温めたくなるくらいの季節にまた入りたいと思っていたら、いつの間にか消えてしまいました。内装をいくらかやり直して、つけ麺屋になったようです。

私はピークの時間帯をはずして食事に出ますから、その沖縄そば屋がどのくらい繁盛していたか、正確にはわかりません。食べたかったセットメニューが売り切れだったことがありますから、まるっきりはやっていなかったわけではないのだろうと思います。私の好みの味ではありましたが、この近辺の人たちの舌と心をつかむには至らず、閉店に追い込まれてしまったのでしょう。

全国的に見ると、新宿なんて人が多くてどんな店でもやっていけそうな土地に思われるかもしれませんが、実はお店の競争と消長が激しいところです。生き残るには特徴と固定客と経営者の胆力が必要です。沖縄そばの店は何が足りなかったのでしょう。あるいは、ここを足がかりにして、どこかで大きな店を開いているのでしょうか。

今度のつけ麺屋さんには、これといった特徴が感じられなかったのですが、どうなるのでしょう。チャーシューは大きく軟らかくよく味がしみていて、つけ麺でおなかも膨れましたが、ちょっぴり心配になりました。

これも日本文化

11月5日(土)

火曜日の選択授業で学生に書かせた作文の採点をしました。作文と言っても、ある小説を読んでその書評を書くというものですから、EJUの記述試験や小論文対策のクラスとはずいぶん毛色が違います。

さて、その書評ですが、つまらないとか平凡だとかという否定的な意見が大半を占めました。そんなどうしようもない小説を読ませたのかと言えば、もちろん違います。ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、学生たちは“夏の甲子園”という要素に気がついていませんから、教材の小説が表している主人公の心の美しさが見えてこなかったのです。

この授業は超級の学生向けで、日本語や日本文化に通じていると自他共に認める学生たちが集まっています。それでも、日本人だったら絶対に見逃すはずのない、必ず何らかの反応を示す“夏の甲子園”をほとんどスルーしてしまっています。私もこの“夏の甲子園”があるからこそ、この小説は光っていると思い、学生たちに読んでその輝きを感じてもらおうと思ったのです。

彼らと同じ年頃の日本人の高校生や大学生は20回近く夏の甲子園を肌で感じてきています。これに対して、このクラスの学生たちが日本で暮らしてきた期間は、長くて2年弱です。夏の甲子園はせいぜい2回。初級で入学した学生は、去年の夏はわけのわからぬうちに過ぎ去ってしまったことでしょう。2年目の今年の夏にしたって、学生たちにとっては夏の甲子園など他人事であり、注意も感心も払わなかったことでしょう。

夏の甲子園は、もはや日本の伝統文化と言ってもいいでしょう。秋でも冬でも、あの熱狂を思い浮かべることは容易にできます。選手1人1人の一挙手一投足に一喜一憂し、感動を覚えたことは誰にでもあるはずです。しかし、学生たちにはその感覚がなかったということなのです。学生たちが気付いていない日本の文化、日本人のメンタリティーだとも言えます。

来週の火曜日に、この作文を返します。そのときにどんなことを伝えようか、明日と明後日で考えます。

髪を切りました

11月2日(水)

午前の授業が終わって1階に下りてくると、Aさんにばったり会いました。肩まであった長い髪をばっさり切り、だいぶさっぱりした精悍な顔つきになっていました。「面接か」「はい。今度の週末です」。入試の面接を迎え、長髪ではむさくるしく思われるかもしれないと、断髪に及んだのでしょう。

私もすぐに次の用事があったので、Aさんと交わした言葉はこれだけですが、短くなった髪を恥ずかしがることもなく、私の目を見てきちんと答えていたAさんに、今週末の入試にかける意気込みを感じました。「形だけ整えても意味がない」と言いますが、外見を変えることによって心の持ちようも変わることだってあります。そういえば、先学期成績が振るわなかったYさんも、今学期の初日から頭を丸めて出直しを図っています。頭を丸めた成果が出ているかどうかは聞いていませんが、心機一転しないと入試に間に合いません。

「外見だけで人を判断してはいけない」とはよく言います。同時に、「人は見た目が90%」とも言われています。入試では、面接によってその人に中身を推し量ろうとしています。でも、たった10分かそこらの面接で各受験生の真の価値を探り当てることは難しいです。だから、見た目や第一印象に頼らざるを得ない面もあると思います。Aさんの断髪も、そういう点で大いに意味があると思います。

もちろん、中身を高めることが第一です。それとともに、その中身を相手に伝える術も身に付けなければなりません。私は、外見を整えることは中身を伝えることの一部分だと思っています。面接官に良い先入観を持たせることにつながるからです。立派な中身を宝の持ち腐れにしないためにも、見た目は重要なのです。

エレベーターと喫煙所

10月27日(木)

私は、都会のマンション住人の典型で、隣にどんな人が住んでいるのか全く知りません。また、エレベーターで誰かと乗り合わせても、せいぜい目礼をする程度です。1階から自分の階までの数十秒間、お互い無言のまま過ごしますが、その雰囲気が息苦しいとも気まずいとも思いません。

たまに、両手に荷物を抱えて、降りる階のボタンが押せない人が乗ってくることがあります。そんなときは、ためらうことなく「何階ですか」と聞き、「すみません、〇×階です」などというやり取りをします。

こんな、会話などとは到底呼べないような言葉を交わしただけでも、そして、その後エレベーターの中で何もしゃべらなくても、エレベーター内の空気がいくらか和らいだように感じます。お互いがお互いを敵ではないと認識できるからでしょう。

言葉はコミュニケーションの道具です。そして、コミュニケーションとは単に情報を伝えるだけでなく、心を通わせ合うことでもあります。英語のcommunicateやcommunicationには後者の意味がないかもしれませんが、“言葉はコミュニケーションの道具”と言ったら、そういう意味も含まれると思います。

学校の近くのタバコ屋さんから、KCPの学生が店の前の喫煙所で外国語で大声でしゃべりながらタバコを吸って困るというクレームが来ました。喫煙所を汚して立ち去るなど、学生たちのマナーもよくないようですが、店の方が一番嫌なのは、外国語で話されてはコミュニケーションが取れない、心の通わせようがないことだと思います。

学生にしたら、休み時間にタバコを吸う時ぐらい日本語から開放されて、友達と国の言葉で思いっきりおしゃべりしたいのでしょう。しかし、それは同時に、タバコを吸う場所を提供してくれている店の方とのコミュニケーションを拒否することも意味するのです。

店の方にしたら、自分の店の軒先で、顔も知らない学生たちに、自分のわからない言葉でしゃべられたら、恐怖感もするでしょうし、店を乗っ取られたようにも思うかもしれません。すなれば、学生の所属する学校に苦情の一つも訴えたくなります。

だから、かたことであっても、学生が真剣に日本語で話しかけようとすれば、店の方も安心できるはずです。お客さんとの心のふれあいが楽しみで店を開いているとすれば、これは喫煙所を使わせてもらうための必須の条件です。こういうことを教えていくのも、学校の役割なのです。