KCP地球市民日本語学校校長・金原宏のブログです。
5月24日(金)
先週の金曜日は中間テストでしたから、今日は2週間ぶりのレベル1の授業でした。いつの間にか、「みんなの日本語」14課まで進んでいて、昨日て形の導入が終わったという引継ぎを受けています。て形は初級の大きな山で、これを乗り越えられない学習者はサバイバルレベルから脱することはできないと断言してもいいでしょう。なにせ応用範囲が広いですからね。て形接続の文法項目は数限りなくあります。て形が自由に作れるようにならなかったらそういったものが使えず、表現の幅が著しく制限されます。ですから、て形ができない学生は次のレベルに上げることは絶対にできません。また、上級者も時たま間違いを犯すのもまたて形の作り方です。
こんなことを学生に伝えると、学生の目つきが変わってきました。国で多少勉強してきたからといって今まで余裕をかましてきた学生も、真剣に練習しはじめました。ここがいい加減だと、常に何かごまかしながら日本語を使っていかなければなりません。また、入学時のプレースメントテストでレベル1と判定された学生は、多少勉強の貯金があったとしても、その貯金はこの辺で尽きるものです。だから、どんな学生も14課からは本気で取り組んでもらいたいのです。今まで自宅学習ほとんどゼロでもこなしてこられた学生も、ここからはきちんとやっていかないとあっという間に置いていかれてしまいます。
そういう大事なところをやるのに、今日は欠席が4名もいました。うち2名は病気などやむをえない理由なのですが、もう2名は今日授業で練習しなかったら確実に落ちこぼれるという、微妙なラインに立っている学生でした。残念ですが、このお二人は来学期もレベル1でしょうね。同じような実力のPさんやGさんは、みっちり練習しましたから、たっぷり出ている週末の宿題をみんなこなせば、見通しが明るくなるでしょう。
授業後、学生たちは心なしかぐったりしていたようでしたが、今が一番苦しいときですからね、乗り切ってくださいよ。
5月23日(木)
今、電車の中で読んでいる本は、百田尚樹の「ボックス!」です。このタイトルのボックスとは箱のことではなく、ボクシングしろという意味です。高校のボクシング部を舞台にした小説ですが、私もまだ半分も読んでいないのでこれ以上詳しく説明することはできません。半分も読んでいないといっても、昨日の帰りの電車から読み始めてすでに200ページを超えるほど読み進んでいますから、かなりのペースです。
百田尚樹の「海賊とよばれた男」は先月本屋大賞に選ばれました。それで俄然有名になりましたが、私が百田尚樹の本を手にしたのは、探偵ナイトスクープの構成作家が小説を書いていると思ったことからです。デビュー作の「永遠の0」がすばらしく、それ以後百田尚樹の本は迷わず買っています。ストーリーにのめりこめるんですね、百田尚樹の本はどれも。電車の中で読んでいると、このまま終着駅まで読み続けたいと思うほどです。
こんな風に思える作家は、百田尚樹のほかに東野圭吾、宮部みゆき、有川浩あたりでしょうか。司馬遼太郎、宮脇俊三もひきつけられましたが、もう亡くなってしまいましたからね。こういう作家の文章を読んでいると、それだけで快感を味わえますね。知的な疲れを覚えるというんでしょうか。ストーリーに浸って、一部の登場人物にいらいらさせられながらも、自分自身が動いて何かをつかみ取ったような達成感があります。
「ボックス!」はこれからが佳境です。登場人物が私の頭の中で明確な顔かたちを持ち、意思を持ち始めました。どんなストーリーが展開されるのか想像がつきませんが、今週いっぱいは楽しませてもらえそうです。
5月22日(水)
今日の中級クラスは、日本人ゲストとの会話がありました。私のクラスにも5名のゲストがいらっしゃり、学生たちの話し相手になってくださいました。
会話は、新聞記事を読み込んで、それについて意見を言い合う形で行われました。そんなに長い記事ではなく、日本人の若者の考え方を取り上げたものだったので、学生たちもひとこと言いたくなったようです。ゲストの到着を待ちきれず、読み込みが終わった時点から意見を交わし始めていました。
ゲストが教室に入り各グループの席に着くと、自己紹介もそこそこに会話が始まりました。各グループとも、日本人を含めて国籍が3つか4つになるように組み合わせたので、自分の国以外の様子も知ることができたようです。
こういうときに妙に頭の硬い学生がいると、自分の(国の)考え方以外を認めようとせず、話がさっぱり進まなくなることがあります。でも、今日のクラスにはそういう学生はおらず、どの学生も日本人ゲストや他の学生の話を謙虚に聞いていました。異なる考え方に賛成するかどうかはともかく、それを受け入れようとする素地はありました。欲を言えば、異なる考え方を聞いて、それと自分の考え方を合わせてアウフヘーベンできるといいんですがね。そうなると、視点が広がり、考えも深まり、人間的に大きく成長するものです。
海外留学には、自国内では触れられないものを求めるという側面もあります。それまで思いもしなかった発想に触発されることも含まれます。今日の私のクラスの学生たちがそこまでの高みに上ったかどうかは怪しいものですが、そういうことを念頭に置いて、日々の授業や生活に向かっていってもらいたいものです。
5月21日(火)
今日は結構蒸しましたねえ。今週からクールビズで半袖ノーネクタイとしていますが、昨日は雨が降って薄ら寒かったのですが、今日は誰がどう考えても半袖日和でした。いや、半袖でも暑さを感じましたね。最高気温は26.5度ですからさほどでもありませんでしたが、湿度が60%前後かそれ以上あり、早くも蒸し暑さを感じさせられました。
人間は暑さに体が慣れていなくて元気をなくしている向きもありますが、虫たちは活発に動き始めています。今年は去年までとは違って、職員室の目の前に外苑西通りの歩道の植栽があるせいでしょうか、虫をよく目にするような気がします。私は虫とか花とかの名前に疎いのでどんな虫か正確にはわかりませんが、蚊みたいのやら羽虫みたいのやら、いろんなのが職員室を飛んでいます。エアコンをつけずに窓を開けることが多いからでしょう。
これから夏本番になると薮蚊のように血を吸う虫も出てくるのでしょうか。腕や首筋なんかをぼりぼりかきながら仕事しなければならないのは、御免こうむりたいです。虫も生きるために必死なのでしょうが、学校にかゆみ止めを持ち込むというのは、いただけませんね。
ただ、私は昔から血を吸われにくい体質で(よっぽどまずい血なんでしょう)、蚊が入ってきても、おそらく、私の周りの先生のところばかりにたかるんじゃないかと予想しています。私のすぐそばに座っているS先生やT先生、M先生が犠牲になるんじゃないかと、少々心配しています。
さて、中間テストの結果が出揃い、個人面談が始まります。学生も教師も、虫なんぞに負けてはいられません。EJUも迫ってますしね。
5月20日(月)
今日の受験講座・数学コース2は、過去問を使って模擬テストをしました。出来は、う~ん、あまり芳しくないですね。あと1か月を切った時点でこのようでは、本番が心配です。
満遍なくできていたのがKさん。Jさんはかなり力があると思っていたのですが、ベクトルでつまずいたようです。GさんとWさんは全体的な底上げが必要、結構いけるのではと期待していたZさんはグラフの問題が解けていませんでした。Xさんは微積を、SさんとLさんはベクトルを、それぞれ国でやってきていないんじゃないかという感じでした。
国によって教育課程が異なるのはやむをえないところだと思いますが、理系の数学でベクトルや微積が未習というのは困ります。どちらも大学の専門教育では不可欠な項目です。それがすっぽり抜けているとなると、学生が大学の授業で困るというよりは、その国の教育システムそのものに疑問を呈したいです。彼らの国の科学技術が著しく遅れているとは思いませんが、次代を担う人たちの教育がこんなのでいいのだろうかと思わずにはいられません。
EJUまでにもう3回数学の受験講座がありますから、内容をベクトルと微積に絞り宿題をがんがんやらせれば、建て直しは可能だと思います。それともうひとつは、80分という制限時間にやられたという点もあるでしょう。今まではとにかく答えにたどり着くということに重きを置いていましたが、EJUはスピードも大いに要求されます。その点の強化も図っていかねばなりません。
EJUの受験票が届きました。本番の足音がはっきりと聞こえ、否応なしにその影を感じざるを得ない時期となりました。理系の学生に限らず、みんなこれからが胸突き八丁です。
5月17日(金)
Cさんはレベル1の新入生ですが、とてもよくできる学生です。7月期はレベル3にジャンプしようとしています。今日の中間テスト、たまたま私が試験監督に入った科目も、規定の時間の半分ぐらいで出そうとします。答えをざっと見たところ、2か所間違っていました。そのうちの1つは明らかにケアレスミスです。だから、「もう一度、よーく見てください」と言って答案をCさんに返しました。Cさんはその後試験時間が終わるまで何回も見直していましたが、どこが間違っているのかとうとうわからずじまいでした。
自分の間違いに気づかないというあたりがもうちょっとかなと思いました。書いたばかりの自分の答案から間違いを見つけ出すのは難しいことだと思います。まして、制限時間のある中でのことですし。それに、自信満々で書いた答えならなおのことです。Cさんも、明日になってから自分の答案をもう一度見たら、気づくのかもしれません。
私だって、ここに書いた原稿を何日か何か月か後になって読み直すと、間違いや表現の練れていないところに気がつきます。EJUの問題が公開されるたびに数学と理科については解説つきの模範解答を作りますが、しばらく経ってからそれを教材に使おうとして眺めなおしてみると、細かなミスを見つけてしまうことがよくあります。だから、Cさんのことを言えた義理じゃないんです。
傍目八目とよく言いますが、渦中にいると周りが見えません。自分自身を鳥瞰できなければ、全体像がつかめません。レベル3か4ぐらいになれば、レベル1を見下ろす感じになるので、レベル1の間違いが見えてくるものです。そう考えると、Cさんはまだレベル1の目しか持っていないのではないでしょうか。期末テストまでにレベル3の目が持てて、レベル1の間違いを自分の手で直していけるようになれば、ジャンプの見通しもつきます。がんばってくださいね。
5月16日(木)
中間テスト前日は、試験問題を作ったり印刷したりもしますが、試験当日の座席表作成も教師の重要な仕事です。各教師それぞれポリシーを持って作っていますが、私は次のようなことを考えています。
まず、普段座るところとは違うところにすること。教師から見て左のほうに座っている学生には右側の座席を割り当て、いつも右のほうにいる学生は左に座らせます。同様に、前後も入れ替えます。たまには自分の教室を違った角度から見るのもいいんじゃないでしょうか。
次に、隣同士に並ぶことの多い学生は引き離します。仲がいいと本人たちはそんな気がなくても、悪いことをしているように見られてしまうおそれがあります。国籍が適度にばらけていたら、同国人がくっつかないようにします。さらに、男女半々に近かったら、同性が並ばないようにします。同じクラスでも話す機会の少ない友達に触れてみるきっかけになればと思っています。
もちろん、怪しいことをしそうな学生、落ち着きのない学生などは試験監督教師の目が届きやすいところに置きます。また、欠席しそうな学生は教室の後ろのほうにまとめて席を作っておきます。
これぐらいの制約があると、学生配置の自由度がありすぎもせず、唯一無二なんていうこともなく、さらにできあがった座席表にひそかに美を感じることもできます。悪いことをしそうな学生がいなければ名簿順に並べてしまうのが一番時間もかかりませんが、私はそれじゃ簡単すぎてつまらないと思います。忙しくてもしっかり時間をとって作っています。
座席表作りは私にとってはちょっとした頭の体操ですね。仕事の中に楽しみを見つけるなんていったら大げさですが、しゃれっ気をこめて仕事しています。ま、学生はテストのことで頭がいっぱいですから、ここに書いたようなことなど気づきもしないでしょうが…。
5月15日(水)
今朝は京浜東北線で人身事故があったため、JR線のダイヤが大幅に乱れました。そのため、始業時刻ぎりぎりに到着した先生も何名か。遅延証明をもらってきた学生が多数いたことは言うまでもありません。
時たま人身事故がありますが、一般的に鉄道は安全な交通機関だと言われています。飛行機に比べれば歴史が長く、技術的な完成度が高いと言えます。同じ陸上交通機関の自動車に比べると、管理が厳しい分だけ安全性も高いと言えます。だいぶ減ったとはいえ、交通事故で毎年数千名が命を落としています。鉄道は、その2ケタ下の数字です。最近の唯一の例外が、8年前の4月にあった福知山線尼崎駅近くで発生した107名が亡くなった事故です。人身事故をゼロに近づけようと、踏み切りをなくしたりホームドアを設置したりという努力が続けられています。安全への投資によって、鉄道は自分自身を鍛えているのです。
安全性を確保するためにお金がかかるため、鉄道を保有し経営していくのは決してもうかる仕事ではありません。だから、西武鉄道の株を大量に保有している米国投資ファンドは、支線を廃止してしまえと言っています。でも、安全な交通機関が経済性のためだけで失われるということには疑問に感じます。乗客がほとんどいないのなら、エネルギー効率の面からも廃止はやむをえないと思います。しかし、廃止を取りざたされている鉄道線は、それなり以上の輸送量があります。
日本の鉄道というか行政に欠けているのは、鉄道は公共財であるという考え方です。私企業に地域交通が任されているということに問題の根があります。ヨーロッパでは「公共」交通機関を公の手で守っていこうという気持ちが強いです。日本は鉄道先進国といわれていますが、この点においては後進国です。投資ファンドからのショックで、こういう考え方が少しでも広まればとひそかに思っています。
5月14日(火)
昨日札幌でようやく桜の開花宣言が出されたと思ったら、今日は沖縄で梅雨入りです。日本は広い国ではないけど広がっている国だと痛感させられます。東京は最高気温は27.8度でしたが、湿度が結構高く、蒸し暑く感じました。
その一番蒸し暑い時間帯に、Yさんがやってきて、受験講座のTOEFL対策講座をやめたいと、さらに蒸し暑くなるような相談を持ちかけてきました。TOEFL講座で勉強する単語の難しさについていけないと言います。そりゃそうでしょうね、TOEFLで80点とかもっと高い成績を狙う人たちの授業ですからね。単語のレベルが高く、量も多いのは当然です。それを覚悟の上で始めたんじゃないでしょうか。
TOEFL講座をやめてどうするつもりかを聞くと、自分で勉強するといいます。でも、自分で勉強できる学生などほとんどいないというのが、残念ながら現状におけるKCPの学生のレベルです。今苦しいことは確かです。しかし、この苦しさに耐えなければ、TOEFLで好成績を挙げることはできません。自分で勉強したところで安易な方向に流れてしまい、Yさんが満足するような点数には届かないでしょう。それはそのまま、Yさん自身の挫折につながります。急な坂は大変だから平坦な道を、では進歩は望めません。
そもそも、留学自体が一筋縄でいかない厳しい道のりのはずです。その苦難の道をあえて選んで今ここにいるのですから、英単語を覚えるのが大変だからって一度受講すると決めた講座を投げ捨てちゃいけませんよ。ここで妥協したらこれからの留学生活すべてが妥協の連続になるでしょう。
Yさんは、そういう私の話を聞いて、渋々かもしれませんが、TOEFL講座を続けることにしました。TOEFL講座の教室は、エアコンが効いて快適でした。
5月13日(月)
Nさんは出席率も高くまじめな学生です。入学以来順調に進級してきて、現在中級クラスに在籍しています。今年受験して、来年進学しようと思っています。今までNさんを受け持った先生方は、みなNさんを高く評価なさっています。
そのNさんが、先週の文法のテストで不合格になってしまいました。今学期勉強した文法項目を理解していないとは思えません。どこがいけないのかというと、「しない」と「していない」と「しなかった」の違い、助詞の「は」と「が」の違いなどの理解が不十分な点です。そのため、文を作る問題での減点が積み重なり、合格点を割ってしまったのです。
アスペクトや「は」と「が」の違いといったことは、どの教科書でも正面切って教えることはありません。放置されているというか、習うより慣れろというか、いずれにしても初級から中級にかけてきちんと教えてはいません。日本語と文法体系が近い言葉を母語とする学生はさほど苦労せずとも理解できるでしょうが、残念ながらNさんはそうではありません。でも、これは日本語を理解する上でも、話す・書くなど日本語で情報を発信する際にも、非常に重要な役割を果たします。「は」と「が」を取り違えて発話したとしても、多くの場合は“あ、間違えてるな”ですみます。しかし、「弟は心配で眠れませんでした」と「弟が心配で眠れませんでした」は決定的に違います。「この漢字は勉強しません」「この漢字は勉強していません」「この漢字は勉強しませんでした」も、意味するところは異なります。
Nさん以外の合格点を取った学生にしたって、こういったことを果たしてどこまで理解しているのでしょう。怪しいものだと思います。本当だったら時間をとってきっちりと教えたいところです。不合格の答案を見て唇をかんでいたNさんの表情が、頭から離れません。
5月10日(金)
金曜日は初級クラスの授業をしていますが、先週は憲法記念日でお休みでした。初級、それもゼロから始めた学生たちを2週間ぶりに見ると、日本語力の成長に驚かされます。いつの間にか動詞も形容詞も使えるようになっていて、学生たちとの意思疎通がかなりうまくいくようになりました。昨日から漢字の勉強も始まりました。もちろん、語彙がまだまだですから複雑なことは言い表せませんが、表現できる範囲はぐっと広がりました。
日本での生活も1か月半ほどになり、ある程度の自信や手ごたえも得ているのでしょう。顔つきに余裕も感じられます。しかし、Jさんのように毎日のように数分ずつ遅刻する学生も現れ始めました。学校の授業を、高をくくってなめてかかるようだと、日本語の上達に黄信号がともります。怠惰な生活に陥っているようだと、実りの薄い留学にもなりかねません。
逆に、既に来学期の進級をあきらめてしまっているかのような学生もいます。2学期かけて一番下のレベルの内容を確実にものにするというのも1つの考え方でしょうが、自分を甘やかしているんじゃないでしょうか。こちらは、普通の学生が1学期で消化できる内容を、きちんと消化できるように教えています。それについてきてもらいたいです。
来週の金曜日は、早くも中間テストです。今日、試験範囲が発表されました。私のクラスの学生たちは、中間テストの重さが今ひとつピンときていないような雰囲気でした。来週、試験日が近づくにつれて緊張感が増してくるのでしょう。
そういうわけで、来週もこのクラスの授業はありません。再来週はて形を勉強しているころでしょうか。次に会うときは、どんなやり取りができるようになっているのでしょうか。上級クラスでは味わえない楽しみがあります。
5月9日(木)
今日は1日中いいお天気で気温も24.8度まで上がり、窓を開けて授業をするクラスも目立ちました。窓を開けると心地よい風が入ってきて、勉強もはかどるような気がします。
そんなさわやかな風を味わっていたら、この3月に卒業して専門学校に進学したAさんが遊びに来てくれました。KCP在学中のAさんはよく休むことで担任の先生方をてこずらせ、いろいろな紆余曲折の末に今の専門学校に落ち着きました。職員室に呼び出されてはしかられたり追試や再試を受けさせられたりと、この学校にはあまりいい思い出がないんじゃないかなと思っていましたが、ひょっこり顔を見せに来てくれました。ありがたい限りです。卒業して利害関係がなくなると、過去のうらみつらみも忘れられるのでしょうか。
AさんのようにKCPには二度と足を向けないんじゃないかとこちらが勝手に思い込んでいた卒業生が来てくれることもあれば、「進学してからも絶対遊びに来ます」と涙ながらに去っていった学生がさっぱり音沙汰なしという例もあります。進学したら生活が大きく変わり、遊びに来るつもりだったのが来られなくなったり、全然そんな気がなかったのにふっと足を向けていみたりするのでしょう。
私はどうだったかというと、母校に対しては淡白でしたね。高校は卒業直後に顔を出して以来ご無沙汰でしたし、大学も仕事関係では何回か足を運んでいますが純粋な遊びでというのは1回が2回じゃないかと思います。今、こういう仕事をして思うのは、もうちょっと顔を出せばよかったなということです。実利の有無などをはるかに超越した次元で、教師は教え子の“その後”を見てみたいものなのです。
連休の前後は休講が多かったのでしょうか、いろんな学生がちょこちょこ遊びに来てくれました。最近はフェイスブックで卒業生の動向を探ることも可能ですが、やっぱり面と向かってのコミュニケーションに勝るものはありません。Aさんも、授業が暇なときでいいですから、また来てくださいね。
5月8日(水)
Zさんは来月行われる学校外のスピーチコンテストに出場しようと、連休前から日々原稿作成に励んでいます。スピーチの内容はだいぶ固まってきたのですが、細かいミスがなかなか減らず、担当の先生からダメ出しばかりされています。
何がダメなのかというと、濁点の有無です。留学生が苦手にする分野の代表でもありますが、Zさんの場合、それがひどすぎます。Zさんはアニメから日本語に入ったので、映像を頼りに日本語を理解するところから始まっています。映像と前後の関係から会話などを理解していったので、正確な発音や文字表記が置いてけぼりになっていました。去年、KCPに入った時も、口はかなり達者だったのにひらがなも満足に書けないありさまでした。それから1年でEJUで高得点を挙げられるまでにはなりましたが、表記の不安は付きまとったままです。
また、Zさんの発話をよく聞くと、濁音は微妙にごまかしているのです。濁音とも清音とも取れる音で話します。そこに自信がもてないからごまかすようになり、いつのまにか無意識にそうするようになって、もはや簡単には直らない段階に至ってしまいました。だから、Zさんはいいことは言っているけど発音は汚いというのが私の印象です。
私たちも手をこまぬいていたわけではなく、発音チェックの時間に指摘し、作文は真っ赤になるまで直し、ことあるごとに注意してきました。しかし、それでも完治には程遠いというのが現状です。入学時にもっと徹底的にいじめるべきだったというのが、今の私の結論です。発音や濁点の有無の表記が多少よくなったところでEJUの成績にはあまり関係ないでしょうし、入試の面接で特別に困ることもないでしょう。でも、日本語教師としてはより完璧な日本語を学習者に身に付けてもらいたいです。日本人がお世辞ではなく心の底から「上手だね」とほめたくなるような日本語話者になってもらいたいです。
今回のスピーチコンテストは、Zさんを鍛えなおす最後のチャンスだと思います。Zさんは自分の名誉のために、私たちは自分たちの教育力を示すために、コンテストに臨みます。
5月7日(火)
連休は予定通り関西旅行に行ってきました。お天気には恵まれましたが気温はあまり上がらず、あまりの風の冷たさにジャケットを羽織ったほどです。例年なら長袖のシャツを腕まくりして歩き回るんですがね。
今年のメインイベントは、町石道(ちょういしみち)を歩いて高野山に登ることでした。町石道とは、高野山の根本大塔から麓の九度山町の慈尊院まで、一町(≒110m)ごとに石の卒塔婆(石柱)を立てた道です。慈尊院に180町(約20km)を表す石柱があり、町石を見ると高野山まであと何町かがわかるというわけです。昔の人は町石ごとに手を合わせながら登ったのだそうですが、今は道標も整備されたちょっとハードなハイキングコースです。大部分は山の中を歩きますが、一部はゴルフ場のすぐ脇を通ったり、交通量の多い道路を横断したりもします。
基本的には上り坂なので、本気で歩くと汗が出てきました。浮世の濁りが汗とともに絞り出され、体の中から清められていくような気がしてきました。私はマラソンはしませんからこれがランナーズハイと同質のものかはわかりませんが、歩いているときはいやなことなどすべてどこか遠くへ行ってしまったかのようでした。一心にお経を上げて神経を集中するのと、町石道を高野山へ向かってひたすら歩き続けるのと、根は同じように思えます。春霞がかかっていたため遠見は利きませんでしたが、のどかな山間の風景はたっぷり堪能できました。そんな景色を眺めながら飲む冷えた水は何よりおいしく、コンビニのおにぎりも最高のごちそうでした。
20kmもの山道を歩いて高野山まで行こうなどという人が大勢いるわけもなく、町石道を歩いているときにはほとんど人に出会いませんでした。ところが、最後の急な坂道を登って高野山の山上に出るや、そこは人だらけでした。一気に現実に引き戻された感じでした。高野山へは何回か行っていますが、一番込んでたんじゃないでしょうか。ケーブルカーの高野山駅から上がってくるバスは、臨時便を多数出しているようでしたがどれも満員で、こいつらと帰り道が同じになったら大変だと思い、お土産だけ買って早々に引き上げました。奥の院への参道も静寂さとは程遠いだろうと思うと、惜しくもなんともありませんでした。何たって、町石道を歩ききったのですからね。
町石道を歩いて高野山までというのはかなり大変ですから誰にでもお勧めというわけにはいきませんが、普通はしないことに挑戦してそれをやり遂げることは、ぜひお勧めします。
5月2日(木)
6月のEJUまであと一月半となった今になって、Oさんが進路に悩み始めました。理系から文系に転じようというのです。国の高校で理系のクラスだったからあまり深く考えずに理系大学への進学を希望したが、よく考えると文系のほうがよさそうな気がしてきたということです。6月の試験は理系で申し込んでしまったので理系の試験を受けるが、その後は文系の勉強をすると言っています。
手元のデータによると、6月を理系で受けて11月を文系で受けた受験生のうち、Oさんが狙っているような「有名大学」に入れたのはごく少数です。それも、もともと頭が非常によくて理系文系を問わず高い能力を持っていそうな人たちです。英語力が高そうな人たちとも言えます。Oさんも発想が柔軟で想像力が豊かで、頭は疑いなくいいと思います。しかし、これから総合科目の勉強を始めて11月のEJUに間に合わせられるかというと、ネガティブな答えになってしまいます。数年前にも、Oさんと同じようなことを同じような時期に言い始めた学生がいました。どうしても理科の勉強が手につかないといって文系に変わりましたが、結局、進学先は理系学部でした。
この時期、勉強が壁に突き当たったり、自分の思い描いた将来に疑問を覚えたりして、進路を変えようとする学生が出てきます。しかし、翌年の4月に進学という場合、5月は進路変更のクリティカルポイントは過ぎています。変更するなら、せめてEJUの願書を出す前までにしてもらいたいです。Oさんの場合、11月のEJU一発勝負になってしまいます。これは危険です。
でも、もっと長いタイムスパンで見て、来年1年を無駄にしても自分の人生トータルで考えたらプラスに転じられるという見込みがあるなら、討ち死に覚悟で勝負に出るという手もありえます。Oさんはどこまで考えているのでしょうか。単なる逃げなら、Oさんの人生はこんなことの繰り返しで終わるでしょう。何がしかの成算があっての勝負なら、それに賭けるのも若者の特権です。Oさんはこの連休によく考えると言っていました。連休明けにどんな答えを聞かせてくれるのでしょうか。
5月1日(水)
阪急と阪神の三宮駅が、今年度中にも「神戸三宮」と改称されるそうです。私はなんだか好きになれません。数年前、近鉄の難波が「大阪難波」となったときも、屋上屋を重ねるような違和感を抱きましたが、今回もそれと同様です。これを広げていくと、「東京新宿」、「東京渋谷」、「福岡博多」、「名古屋栄」、「札幌すすきの」、「京都祇園四条」など、説明くさい駅名やら地名ばかりになってしまい、その名前が持つ特有の響きが失われ、同時に文化や町のにおいも消えてしまうような気がします。「この電車は東京新宿行き快速急行です」なんていう小田急線には乗りたくありません。
神戸市内でも、元町は横浜にもありますから「神戸元町」とする意味もあります。しかし、三宮と言えば神戸を代表する街ではありませんか。わざわざ「神戸」などといわなくてもわかるはずです。その地名にあえて「神戸」と冠することは、三宮や神戸の自信のなさを表しているような気がします。「大阪難波」も同様です。渋谷や新宿は全国区の知名度があるけど、難波は「大阪」と言わないとどこにあるかわかってもらえないのではないか――そんな気持ちが駅名を改めた裏側にあるのではないでしょうか。
これをもっと深く掘り下げれば、東京一極集中の弊害の一つじゃないかといえると思います。大阪や神戸すら東京を向いてしまい、自分たちの街に誇りがもてなくなっているとしたら、由々しきことです。総曲輪や天文館が富山や鹿児島随一の繁華街であることは、この拙文をお読みの方でご存じない方も多いのではないかと思います。阪急と阪神、そして三宮自身までもが総曲輪や天文館と同じローカルな街(富山と鹿児島の方、スミマセン)だと思っているのでしょうか。それは違うと思いますし、そうなってもらっちゃ困ります。日本を代表する街だという自負を持ち続けてもらいたいです。
さて、あさってからの連休後半、私は関西遠征です。もしかすると見納めとなるかもしれない「三宮」の駅名表示板をじっくりと眺めてきますか…。
4月30日(火)
火曜日の受験講座・TOEFLが行われる教室は、直前まで英会話クラブが使っています。そのため、先週、今週と、はからずもTOEFL担当のM先生と一緒に英会話クラブの活動を見学することになりました。
英会話クラブは、アメリカの大学からKCPに留学している学生たちが中心になって運営しています。中国・韓国をはじめとするアジアの学生に英会話を楽しんでもらおうという趣旨です。先週も今週も最後の10分か15分を見ただけですから何でも知ってるような口はたたけませんが、参加しているアジアの学生たちは何とかアメリカの学生の話についていこうとしている様子はうかがえました。
英会話となれば、日本語のレベルは関係ありませんから、今日も上級のOさんと一番下のレベルのLさんが同じグループで話していました。Lさんは教室ではおとなしいのですが、英会話クラブではけっこう口を動かしていました。また、アメリカの学生のほうも、日本語はゼロスタートで苦戦している学生が生き生きと活躍しています。
英語を学びたい学生も英語のネイティブも山ほどいるのに、全く接触がないのはもったいない限りです。そういうお互いに知り合って新たなつながりが生まれることは、留学の成果をより大きくすることになります。アジアの学生にとっては2つの外国語を並行して学ぶことにもなり、どちらの言葉にもよい刺激になるのではないかと思っています。アメリカの学生にとってっは、ちょっとした表現を教えることによって、他の学生の役に立っているという実感が得られ、自分の存在意義が再確認できるのではないでしょうか。いずれにしても、両者にとってWIN-WINの関係が築けているんじゃないかと期待しています。
OさんやLさんにも感想を聞いてみたかったですが、すぐに受験講座の準備を始めなければならなかったので、聞きそびれてしまいました。顔つきを見ている限り、満足そうでしたから、そう信じたいです。
4月26日(金)
朝、私のパソコンに、「すみません先生、今日は頭がすごく痛くて…休ませていただきたいです…本当にすみません…」とだけ書かれたメールが入りました。送信者のアドレスを頼りに調べると、私のクラスのOさんだということがわかりました。結果的に誰からのメールかはわかりましたが、メールに名前を書かずに送るというのはいただけません。友人に送るなら、名前がなくてもいいかもしれません。むしろ、名前があると変に堅苦しく重々しく受け取られてしまうことすらあるでしょう。でも、学校に欠席の連絡をするという、公的な性格のメールには名前を記すのが常識というものです。
学生は、私たちのような世代とは違って、物心ついたときからメールを連絡手段として使っていました。だから、メールを手紙の延長線上に捕らえている私なんかと発想が根本的に異なるのでしょう。ケータイで声を届ける代わりにメールで文字を送ると考えているとすれば、ケータイでいちいち名乗らないのと同次元で、メールにも名前を書かないのではないかとも考えられます。
個人のケータイと同じ調子でビジネスの電話を扱う若者が増えているという話はよく耳にします。電話をかけても受けても名乗らないのだそうです。名乗るとは、その発言に責任を持つということです。だからビジネスの電話では責任の所在を明らかにするために名乗り、メールならそこに書かれた情報が真実であるという保証をするために署名しなければなりません。最近また増えている振り込め詐欺だって、犯人側はだまそうとしていますから、きちんと名乗りません。署名のある新聞記事は信用され、匿名の批判は無責任なものの代表のように扱われています。
Oさん、テストのときに名前を書かなきゃ点数がつかないんですよ。メールに名前を書かなかったということは無断で休んだと思われてもしかたないんだよ。
4月25日(木)
大きなレジ袋に受験講座の資料を入れて両手に提げて本館から別館に向かって歩いていたら、新入生のJさんが「大丈夫ですか」と声をかけてくれました。「大丈夫ですよ」と日本人らしく(?)遠慮すると、「一緒に行きましょう」と言いながら私の荷物を持ち、Jさんの教室のある本館とは逆方向であるにもかかわらず、別館の玄関まで運んでくれました。
午後の授業の前だったので、本館方向に向かって多くの学生がすれ違っていきましたが、「先生、こんにちは」と挨拶はしてくれても、私の両手の荷物を気遣ってくれたのはJさんだけでした。そして、初級であまり日本語が話せないのが幸いして、口よりも先に手を差し伸べたのです。「一緒に行きましょう」も、Jさんにとっては習いたての文のはずです。
確かに大きな袋を両手に提げて歩いていましたが、決して歩くのがしんどいような重さではなく、また、Jさんに持ってもらった距離は、明らかに100mにも満たない程度です。それでもJさんの厚意はうれしかったし、自分から積極的に動いて困っている(ように見えた)人を助けようという精神は尊いと思います。Jさんの手の差し伸べ方からすると、おそらく、国でもいつもこういうことをしてきたのでしょう。
自分の身の回りにこういう学生がいることを、KCPの学生に気づいてほしいです。そりゃあ、もちろん困った学生もいますが、人間性の高さを感じさせられる学生もいるのです。こういう学生と友達になることで、自分自身が磨かれます。自分の心の奥底にある美質が浮かび上がってくるものです。
私自身、Jさんのようにスマートに人助けができるかと聞かれると、全く自信がありません。義を見てせざるは勇なきなり――いい言葉です。Jさんに改めて教えられました。
4月24日(水)
新宿区で行われる留学生スピーチコンテストの原稿を読みました。KCPはこのコンテストに毎年参加し、結構いい成績を残してきました。今年も代表を送り込むべく校内で原稿を募集し、応募された原稿に目を通したという次第です。
しかし、…。今年は出場を辞退したくなりました。原稿に光るものを感じません。事実の羅列か個人の感想が述べられているだけで、聴衆の心をつかむとか動かすとかいうことが全く考えられていません。いや、書いてきた学生たちは考えているのかもしれませんが、それが伝わってこないのです。
文法や語彙の間違いなら指摘してなおさせればすむことです。構成が悪いなら、学生と話し合って訴えを伝えるのに最も効果的な構成を作り上げていくこともできるでしょう。しかし、今年は訴えるものが貧弱です。妙に肩に力が入ってしまっていたり、上から目線で結論を出したり、個人の趣味の領域を出なかったりと、さんざんの出来です。
月並みな結論では面白くありませんが、広がりのある、聞き手を考えさせる結論でないと、スピーチコンテストでは通用しません。1つの出来事や個人の思いから、1段高いレベルの何かを抽出し、それを普遍なものへと高めていく、それがスピーチコンテストの醍醐味です。今までにない新たな独創的な視点から物事を斬ることで聞き手に刺激を与える、そういうスピーチが印象に残ります。
そういう原稿がなかったことが、非常に残念でした。多少なりともましな原稿を選んでそれを鍛え直すという手もありますが、私にはずいぶん長い道のりに思えてなりません。鍛え直すとしたら、まず、カッコつけてる部分、何か言わなきゃと大上段に構えてしまってる部分をそぎ落とすことから始めねばならないでしょう。等身大の自分に戻るのです。